第9話 第一章 企業秘密の謎解きは開店後に⑧

「ハア、ハア、に、逃げれたか?」

「わ、分かりません。ちょっと休憩しましょう。う、動けません」

 強い風が木々を縫うように駆け抜ける中、黒羽達は木の幹にもたれて座った。

 ――死を、あれほど鮮烈に連想させる存在に、これまで出会ったことはなかった。

 黒羽は若いながらも、『真宮一刀流』と呼ばれる江戸中期頃から続く剣術の免許皆伝者だ。しかしながら、連綿と続く剣術の技法もあの男にはまるで歯が立たなかった。

「痛いな」

「あ! 黒羽さん、切り傷がいっぱい。ちょっと待ってください。魔法で傷を塞ぎます」

 レアが手をかざし、魔法を唱えると、痛みがスーと引いていくのを黒羽は感じた。

 この世界の生活を支える力である魔法。黒羽からすれば万能の力としか言いようのないものだが、それでさえも先ほどの男には届かない。

「ありがとう。だいぶ楽になった」

「いいえ。それよりどうしましょうか?」

「町まで逃げるしかない。見つかれば、次はない。ここから町まではどの程度かかる?」

 黒羽の問いに、周りを見渡しながらレアは考え、

「ここは……だいぶ町から離れてしまったようですね。一度、街道に出て走れば、日が暮れるまでには戻れるはずです」と答えた。

 時計は持っていないが、体感的に四時から五時ぐらいだろうと大まかな当りを黒羽はつける。

 今でも十分に暗いが、日が暮れれば、さらに町に戻るのが難しくなる。まさに時間との勝負だ。

「出発しよう。見つからずに済めばいいけど」

「その心配はもういらない」

 柄に手をかけつつ、声の聞こえた方を向く。そこには、黒いマントを揺らしながら、殺意のこもった笑顔でこちらを見つめるカリムの姿があった。

「ちくしょう。もう発見されたか」

「クハハ、残念でした。さあ、続きだ」

「レア、行くんだ」

「黒羽さん! 一緒に逃げましょう」

「無理だ。俺がここで足止めするから、君は急いで町に戻れ。途中で自警団に会えたら、呼んできてくれ。頼む」

 下段の構えでカリムに向き合う黒羽の腕に、手を伸ばそうとするレア。しかし、グッと堪えると、彼女は背を向けて走った。

「絶対、迎えに来ますから。死なないで」

 足音が遠ざかると、黒羽は口を開いた。

「どうして攻撃してこない?」

「大した理由はない。女の方はいつでも殺せる。ただ、貴様の戦闘力にちょっとだけ興味が湧いた。この俺に浅手とはいえ傷を負わせるとはな」

「浅手ねえ……お前、自意識過剰だと言われないか?」

 黒羽の問いには答えず、カリムは口元に薄く笑みを浮かべると、体中から真っ黒い”気”のようなものを噴出させた。

「な!」

「驚くにはまだ早いぞ。今度はさっきよりもちょっとだけ本気だ。生き残ってみせろ」

 刀を咄嗟に左前方に構えた。その瞬間に、腕全体が折れたと錯覚するほどの衝撃が走った。

「ホウ。やはりやるな」

 姿は見えないが、声と足音だけが聞こえる。

 両腕は感電したかのように痺れ、刀身は根元からへし折れていた。

 刀を放り捨て、じりじりと後ろに下がる。狩りで追い詰められた獣になった気分だ。心臓の音がやけにうるさく聞こえ、血の代わりに冷たい水が体中を巡っているように感じる。

「ぐっ、ハァ」

 ぞわりとした感覚に従って、咄嗟に腕で防いだが、それでも威力を殺しきれず、後方の木に激突する。両腕は折れ、ぶつかった衝撃ですぐには呼吸ができない。恐らくは蹴られたのだろうが、あの細身の体で出せる膂力では明らかにない。

「もうそろそろ終わりか。人間にしては頑張った方か。褒美だ。楽にしてやる」

 死、死、死。このままでは死んでしまう。黒羽は、辺りを見渡し、生き残る術を探す。何でもいい。こんなところでは終われない。きっと……きっと何かあるはず。そう思った時、背中に当たっている木の幹の感触が、どうもおかしいことに気付く。

(なんだ? これは……)

 手で触ってみる。幹を左側から中央に向けて撫でていくと、すっぽりと手が入るところがあった。どうやら木の洞、つまりは木の内部が空洞になっているようだ。

 カリムからは目を離すことはできない。手探りで内部を探る。

(石でも木の欠片でもいい。なにか、ヤツの気をそらす物があれば……)

 カリムが目の前に迫る。自身が無残に死んだ姿がフッと心に浮かぶ。これまでなのか……と黒羽が諦めかけた時、女性の声が聞こえた。

「もう少し、右よ」

 聞き逃してしまいそうなほど小さな声だが、確かに聞こえた。「誰だ?」と思う余裕さえ黒羽にはない。言われた通り、右に手を動かすと、冷たくて硬い感触が伝わってきた。何かがある。

「面白かったよ。さようなら」

 黒羽は、その何かを手に掴み、立ち上がると同時に、木の洞から取り出した。

「剣? 一体どこから取り出した」

「木の洞からさ。どうやら俺は、お前にまだ抗えるらしい」

「抗うだと? 体力も底をつきかけている貴様に何ができる」

 カリムはナイフを無造作に突き入れてきた。黒羽は手に持ったショートソードでその一撃を防ぐ。――その途端に、ショートソードが光を放ち、数瞬、両者の視覚を奪う。

「眩しい。なんだこの光は……え、君は?」

「チィ。目が……な、なんだと」

 光が弱まり、目の前に現れたのは、狂おしいほど美しい女性だ。

 風に揺れる黒髪は腰の辺りまで伸び、絹のように細やかで麗しい。白いワンピースからはスラリと長い手足が伸び、儚さと力強さが感じられた。

「この魔力は……ありえない。そんな馬鹿なことがあるのか。生きていたなんて」

「あなたはまだ……憎悪から逃れられないのですね」

 澄んだ水のような声が、鼓膜を震わせる。

 カリムは余程驚いたのだろう、全く動かない。女性は、そんなカリムを悲しげに見つめていた。

 黒羽は、訳が分からず呆然と二人を眺めていたが、地面が揺れているのを感じ、辺りをキョロキョロと見渡す。すると、木々の隙間から巨大な生き物が動いている姿を発見した。

「あれは……アクア・ポセイドラゴン? え? 一体何をするつもりなんだ」

 黒羽の疑問はすぐに氷解した。アクア・ポセイドラゴンはトカゲのような口を開けると、大量の水を一直線に吐き出す。

 狙いは……カリムだ。

「ウォ! まだこんな力があるのか。おい、サンクトゥス。来い」

 水弾を躱しながら、カリムは女性に向けて手を伸ばす。しかし、女性は首を振ると、強い意志がこもった声ではっきりと告げた。

「私は行きません。あなたがまだ人を憎み続けるというのであれば、何度でも止めてみせます」

「ふざけるな! あんな思いをしてまだ人間を信じるというのか? 解せん。全くお前が理解できん」

 なぜだろうか? 黒羽は目の前の男が涙をこらえ、悲しんでいるように思えた。

「チィ。大馬鹿者が!」

 名残惜しそうだったが、カリムは背を向け、その場から物凄い勢いで離れていった。

 アクア・ポセイドラゴンは、カリムが逃走したのを確認すると、口を閉じた。

 どうやら黒羽達を攻撃する意思はないらしい。ジッとこちらを見つめていたが、やがて来た時と同じように地響きを鳴らしながら、どこかへ行ってしまった。再び静寂が訪れ、黒羽は胸に手を当て、心臓の鼓動を確かめた。

「助かったのか? あの、君は? ていうか、剣から変身したように見えたけど、俺の錯覚か?」

 女性はクスリと笑うと、ゆっくりと黒羽へと振り向く。髪がさらりと流れて露わになった顔には、優しげな笑みが浮かんでいた。

「落ち着いて。詳しくは後で話すわ。それよりもあなた、酷い怪我ね。どこか近くに人が多くいる所はないかしら? そこまで連れて行くわ」

「町なら……」

 その続きは、言葉にならなかった。

 急速に意識が遠のいていく。極度の緊張状態が解けたせいだ。力が抜けて、瞼がスゥーと下がってくる。

 美しい女性が、心配そうな顔で何かを叫んでいる姿を、どこか他人事のように感じながら、黒羽は深い眠りへと落ちていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る