第31話 幸せになる方法

 どうすれば人は幸せになれるのか?


 最初に断っておきたいのは、僕は特定の宗教に入信していたり、どこかの胡散臭い団体の回し者であったりということは決してない。哲学的・科学的にものごとを思考するのが好きなごくフツーの成人男性である。


 僕は幸せになる方法を知りたい。幸せとは一体なんなのかを知りたい。これは人類にとっても最大のテーマの一つと言っても過言ではないと思っているし、この答えを知るためにこれまで多くの本を読み勉強し自分なりに考え続けてきた。非科学的、非論理的なものは基本的に信用しない。姿の見えない神様に救いを求めたりはしないし、自分の目で見て、触って、直に感じ取れるものこそが全てだと思っている。


 幸せになる方法。実はこれは僕ごときが考えるまでもなく、偉大な先人達が既に答えを見つけてくれているジャンルでもある。幸せとはなんなのかという哲学的な問いの答えを求めることは難しいが、どうすれば幸せになれるのかという方法論については既にある程度答えが出ているのだ。僕なりに噛み砕いてわかりやすく解説してみよう。


 まずは古典的な仏教のアプローチから。個人的には原始仏教は宗教というよりも、極めてロジカル、かつ実践的に幸せになる方法を解き明かした学問のようなものだと思っている。お釈迦様の教えとは現代でも十分に通じるほどに普遍的で素晴らしいものなのだ。まず仏教では僕たちが生きているこの世界は苦しみに満ちているものであると説く(生老病死、四苦八苦とか言ったりする)。と同時に、この世界はたえず移り変わるものなので執着しても無駄ですよと説く。栄枯盛衰(えいこせいすい:栄えるものもいつかは必ず滅びる)、諸行無常(しょぎょうむじょう:この世に永遠に変わらないものはなく、人生とははかなく虚しいものである)、このあたりの四字熟語は仏教の世界観を良く表している。もっと簡単に言うと、生きるってのはそれだけでめっちゃ大変で嫌になることばっかだし、本当にどうしようもねえなあ、ということである。出だしからして超ネガティブ。じゃあどうすんだよ、とここからが本題。


 先に結論から書いてしまうと、心を無にして余計なことは一切考えるな、というのが答えである。生きていても辛いことばかりのこの世界、どうせぼーっと空想しても浮かぶのはネガティブなことばかりなんだから、考えること自体をやめろという訳である。あまりにもシンプルだが本質を突いている。人の悩みというのは実はほとんどが考えるだけ無駄などうでもいいようなことばかりなのだ。しかし、人は常に思考してしまう生き物であり、心を無にして何も考えないというのが実はとっても難しいのだ。そこで仏教では心を無にするための修行を行う。


 例えばこんな修行もあったりする。ひたすら歩いては自らの鼓動に耳をすませ、手足の動きのみに意識を集中する。何か別のことに意識を向けることで、頭に空想する隙を与えない。そしてそれを習慣づけようという訳だ。言わずもがな、座禅・瞑想も仏教が編み出した心を無にするためのテクニックであり、実際にこれらがポジティブマインドを形成するためにとても有効であるということは科学的にも実証されていたりする。世界的有名企業の経営者も禅の瞑想を習慣化している人が多いと聞く。


 慣れてしまえば瞑想は簡単に行うことができる。別に座禅のポーズを取る必要もないし、お風呂の中でも布団の中でもできる。大事なのは静かな環境とちょっとした呼吸法だけだ。25話の「中島らもに救われた話」でも書いたが、僕は息詰まっていた時に実際に仏教的な瞑想を行うことで窮地を脱した経験がある。リラックスした状態で一定時間頭をからっぽにすると、不思議なことに悩みはすうっと消えていき、前向きで明るいイメージが浮かんでくるものなのだ。どうやら人間の身体というのはそういう風にできているらしい。悲観的な思考に捕らわれている人は一度試してみては如何だろう。


 続いてもう一つ、アドラー心理学を紹介したい。アルフレッド・アドラーは1870年生まれのオーストリア出身の心理学者である。彼が提唱した心の持ちようはこうあるべきだ、という考え方には個人的に共感できる部分が多くある。細かく解説していくときりがないので、ここではその一端だけ紹介しよう。


 ああ……仕事に行きたくない。日曜日の夜、布団にくるまってスマホをいじりながらふとそんなことを考える。誰しも似たような経験があるはずだ。実は人の悩みというのは「将来に対する漠然とした不安」が多くのウェイトを占める。来週の飲み会に気の合わない人が来るだとか、明日の体育の時間が憂鬱だ、とか。ちょっと振り返ってみれば誰しも思い当たる節があるはずだ。


 でもちょっと待って欲しい。それって今悩む必要ある?


 明日仕事に行きたくないと思い悩んで嫌な気持ちになる。しかしよく考えてみると、そうやってくよくよしているのあなたは布団にくるまってスマホをいじっているだけなのだ。別に、のあなたが仕事をしている訳ではないのである。つまり、将来の出来事に不安を感じて思い悩むという行為は全くの無駄であり、だったらせっかくのスマホいじりの時間をもっとエンジョイした方がよっぽど有意義なのだ。わざわざ将来の不安にフォーカスするのではなく、まさにに集中するべきだ、というのがアドラーの教えだ。


 僕はこの考え方を知った時、まったく本当にその通りだよなと深く感銘を受けた。で、さっそくこの教えを実践しようとした。だけどこれがなかなか難しい。気づくといつの間にか悩みはじめている自分がいる。それでも悩むたびに、これって今考えても仕方ないよな、と自らを省みるように心掛けてみた。すると習慣というのはスゴイもので、いつからから小さなことでくよくよと思い悩むことが無くなったのだ。上述の「明日仕事に行きたくない病」を例に挙げてみよう。


 日曜日の夜、僕は布団にくるまってスマホをいじっている。その時、ふと頭をよぎる。あー、7時間後には会社かあ、面倒くせえなあ。


 はい、ここでストップ。この空想をこれ以上広げるのは危険である。間違っても、明日はこんな会議があったなとか、あの資料を作らなきゃ、などと考えてはいけない。どうせ明日になれば会議は確実にあるんだし、資料の作成だってやるのだ。不安に駆られるだけ無駄である。そこでこう考える。


 まあ、いっか。それより今を楽しもう。布団あったかいし最高だなあ、なんか面白い動画でもないかな(スマホポチー)。


 僕にとってはこの「まあ、いっか」がキラーワードになったらしい。あ、この空想はやばいなと感じた時に、自然と頭の中にこの「まあ、いっか」が浮かぶようになった。そこからプラス思考に転じることができるようになったのだ。


 文章で書くとなんだか馬鹿っぽいし、駄目人間になってしまったような気配もある。が、実際はまったくそんなことはない。むしろ、翌日の仕事では「さあやるかー」と今まで以上に気合が入るし、生活にもメリハリが出るしといいことづくめなのである。




 ●〇●〇




 さて、今回は「幸せになる方法」というタイトルで、僕が実際に効果を実感できた幸せになるための方法論を二つ紹介させてもらいました。もしもこれが皆さんのお役に立つことがあるのであれば嬉しい限りです。




 ……でも待てよ。


 ちょっと不思議に思うことがあるんです。


 人間ってそもそも、生物学的に幸せになれるように設計されているんでしょうか?


 仏教でも人生とは儚いものであり辛いことばかりであると説かれているし、将来のことでくよくよと思い悩むことは人間誰しも当たり前にあることですよね。なんでこんな風になっちゃってるんでしょう。そんで、偉そうに「幸せになる方法」を語った僕自身は果たして幸せなんでしょうか。


 というわけで次回、幸せになる方法(もっと深く考えてみた)に続きます。

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