カミサマNO.3

ぽんちゃ 🍟

いち

 海が好きだった。


 この海崖の上から見下ろせば、いつも波がさざめいていた。




 私が、いてもいなくても変わらない。


 私が成長しても、海はずっと変わらなかった。



 海じゃない私が割り込んで泳いでも、なんもないように受け入れてくれる。


 でもたまに、絡まってきたり、のみこんできたりする日もある。



 それが、ツンデレみたいで、面白い。



 海を眺めていれば、自分が何者でもないと思えた。


 夢に見た『普通』が、目の前にある。



 〈感覚〉が、麻痺していくような、そんな感覚だった。



 このまま溶けて、海と仲間になって、ほんとうの清水せいすいになれたらいいだろう。 


 崖からの道を1歩進もうとして、数センチ足を上げてやめた。


 私に組まれた〈シナリオ〉には、今日の入水じゅすいなんて書いていないから。



 と自分に言い聞かせても、わずかに希望が揺らぐ。



 やってみたらできるかな。


〈シナリオ〉に抗ってみようかな。


 そういう邪心がよぎったときは、必ず邪魔が入る。



「まって! はやまらないで、し、清水しみず純花すみか!」


 

 中学1年生の夏、はじめてその声をきいた。


 崖の下から叫ぶ、私と同じ目をした彼に、コロンと落ちてったのはなんだったろう。



 

   * * *




 海が嫌いだった。


 潮風も波音も無視して歩いて僕は、学校へ向かう。



 僕が通うのは、田舎の中高一貫校だ。


 穏やかで、学年は2クラスずつと小規模。



 けれど、学校は海沿いにある。


 それだけが僕にとってかんばしくなかった。



 今日は7月1日だ。


 カレンダーは何度見ても変わらない。



 僕にとっては意味があるし、きっとみんなにとっても意味がある。



 だけどそれも、変わらない1日だ。


 僕はあの日から、きっと止まったまま。

 

 

 止まった僕は歩いて、教室のドアへ手をかけた。



「おー夏目なつめ、おはよ!」


「……おはよう」



 教室に入ると、いつもコイツだけは僕に声をかける。


 クラスメイトの香崎かざき伊吹いぶきだった。



 人たらしでチャラい。明るくてフレンドリー。


 僕を反転したような香崎だけど、誕生日が同じで仲良くなった。


 そして僕等には、もうひとつだけ〈共通点〉があった。



「先生が呼んでたぞ、職員室前に来いって」


「わかった」


 

 目立たない僕だけど、中等部2年の後期から学級委員長をやっている。


 それからずるずると、今年、高校2年生の春も、挙手をした。


 

 学級委員長は仕事がある。正直めんどうだ。


 でも、することがない空っぽ状態より、数倍マシだから。



「いつもお疲れ。あとで、線香あげに行こうな」


「ああ。ありがと」



 よくあることだ。


 先生に朝、呼び出されるなんて。



 でも今日は、なんか騒つく。


 心臓に海砂でも入り込んだみたいだった。



「おはようございます、先生」



 職員室前には学年主任が立っていた。


 中1の頃からずっと僕等の学年を担当している、いい人だ。



 体調が悪いのか、顔がじゃっかん青白い。心配しようにも、



「転校生が来るから。よろしくな、夏目」



 と、それだけ告げて職員室へ戻ってしまった。



 は?


 



「……あの」


「えあっハィ」



 急に後ろからかけられた声に、思わず変な返事をしてしまった。



「……え?」



 振り向いて、目を見開いた。


 僕が、だ。



 身体を乗っ取られたみたいに瞬間、痺れが襲う。



 後ろに立っていた女の子は、見覚えのある——そんなもんじゃない、絶対に忘れない、


 水晶玉の瞳だった。



 足が、小刻みに震える。


 全身が蕁麻疹になるような鳥肌に、また鳥肌が立つ。



 彼女は、幽霊?



 いや、メガネは今かけている。


 ガラス越しなら幽霊は見えないはずだ。


 それと僕の〈視覚〉で見える幽霊は、もっと透けている。


 

 幽霊、ではない。


 先生にも彼女のことは見えていたし。



 じゃあ、目の前の彼女は、なんだ?



 瞬間、大きな違和感が僕へのしかかる。



 ——そうだ。



 容姿に目を奪われ過ぎていた。



 彼女は、だった。



〈視覚〉が反応しなかったのなんて、これが最初——いや、違う。


 あのときもだ。



「大丈夫ですか?」



 転校生が、僕のこの具合を見て首を傾げた。


 声まで、そっくりだった。



「きみ、名前は?」


天束あまつか透子とうこです」



 名前は違う。


 あの子じゃない。



 引きつってしまった顔を戻して、笑顔をつくろった。


 たぶん強張っている。



「僕は夏目。よろしくね」

 


 左手を差し出した僕は、彼女の瞳を見て、また硬直した。


 身体が、じわじわ正気を失っていく。



 心臓が、痛いほど波打つ。痛い、いたい、


 脳みそにも、この3年間の想いの濁流が押し寄せた。



 全身の血流が逆流するような感覚に吐気がしたのを、必死で抑え込む。



「ねぇ、大丈夫?」



 こんな非科学的なことがあるか?


 僕の前に、あの子がいるか?



「……ごめん」



 失礼だ。彼女にとって僕は、初対面なんだから。



「知り合いに顔が似てて、びっくりちゃって」


 

 なにも言わないわけにはいかないから、半分本当で半分嘘なことを言った。


 そっか、と呟いた彼女の声が、寂しそうだった。



「教室まで案内するからついてきて」



 今日、7月1日に、3年前の7月1日が無くなった、と思いたかった。


〈心象〉の読めない彼女に僕は、あの子の命を期待した。



 天束透子は、今日からちょうど3年前に他界した僕の彼女——清水純花だった。

 



 *



「あの、夏目くん」



 今日1日は、全部が上の空だった。


 僕だけじゃなく、クラス中が。



 振り払っても、頭にぱっぱと浮かんでくる。花火みたいな表情が。



 記憶の崖から、ぜんぶ突き落としたはずだった。


 純花のことは、ずっと前に。



 天束透子が教室に入った直後、クラス中が硬直した。


 

 口をぱくぱくする人、眉をひそめる人、目を逸らす人。


 純花と仲良かったあの子は、ポロポロ泣き出した。



〈視覚〉で聞き取ったのは、困惑、恐怖、あとは僕への心配だ。



 香崎のことは、見ないでいた。


 見なければ〈視覚〉は発動しない。


 彼の本心を、知らなくて済む。



 いちばん困惑しているのは透子だろう。


 事情を話そうとしたけれど、うまく言葉が紡げなくて、



「きみと同じ顔をした人が、僕らの学年にいたんだ」とだけ、ぽつっと。



 彼女は、また「そっか」と相槌を打った。



 それが純花の「そっか」と重なって、震えた。


 心臓に、冷たい手が触れた。



「ねぇ、夏目くん」


「なに?」



 平常心を保ちつつ、返事をした。


 ちっとも平常じゃなかった。



 オルゴールみたいに澄んだ純花の声で、木漏れ日みたいな純花の笑顔でこっちを向かれても、僕は。



「音楽室に、行きたいんだけど」


「音楽室? なんで」 



 咄嗟になんで、と聞き返してしまった。



 音楽室と言えば、純花の歌だった。


 格別だった。



 天使が降りてきたと、心から思う声だった。



『心が純粋だから、芯から透明なんだよ』



 中1のころ、最初に純花の歌を聴いたときだ。


 当時クラスメイトで〈聴覚〉を持った、菊瀬きくせ茜音あかねが言った。



 あの日のことは、忘れないところにしまって全部捨てたはずだった。



『嫌なことがあったら歌いな。


 純花の声は浄化作用があって、それは自身にも効くから』


 

 ずっと不愛想な茜音が、ふわっと純花にほほえんだ。

 


「ちょっとだけ、見てみたいなぁって」


「……そう」



 取り繕われた理由には、触れないでいた。



 音楽室には今日も、茜音がいる。


 今年は隣のクラスだから、まだ透子には会っていないはずだ。



 この心苦しい感情を、同じく心苦しい人と分かり合いたかった。

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