第18話

晴臣さんと僕がまだ幼い頃、僕らは今程位や年に境が無く、とても自由に互いを名前で呼び合っていたが、そんな関係性が僕らの間に成立した事さえ僕の中では奇跡に近い事実だったから、すっかり忘れていた。


そしてもちろん僕らは友人と呼ぶにはとても心もとない日数しか顔を合わせた事が無かった。

その為、僕はたとえ一度や二度、ちっぽけな庭でボールをつつきあったような間柄であったとしても、新聞やプロジェクトの資料テレビに映る晴臣さんを見るたび心が躍った。

一人息子の僕は、兄がいたらこんな感じなのだろうかと、晴臣さんにいもしない兄の影を重ね合わせていた。

幼い僕は、初めて見た晴臣さんの外見を恐ろしいとまで想ったくせに、成長するにつれ次第にそれすら憧憬なバランスでとらえるようになっていたのだった。


隊に入るとき、晴臣さんの姿を随分久方ぶりにこの目で見た。まだ、手足の伸びきらない時分にあったきりだったので昔との印象はまるで違ったが、確かに今まで自分が映像で目にしてきたあの晴臣さんだった。

晴臣さんが僕を見た。灰色の、そしてところどころが宝石のように碧く光る瞳が僕を捉えていた。僕は半ば、金縛りのようになりながら、それでも懸命に一礼した。

晴臣さんはそれをふいと見送るとさっさと僕の目前からいなくなってしまった。しかし僕の心は浮かれたままで、本物の、そして大人になった晴臣さんと合間見えることが出来た喜びをひしひしと感じていたのだった。


そして、とうとうそれが打ち破られる瞬間がやってきたのだった。僕の幼い憧れは、膨れる限界まで膨れ上がり、そしてとうとう破裂する時を待っていたように思いがけず大爆発をした。晴臣さんは僕の名前も共に遊んだ過去も覚えてはいなかったが、そんな事では無く。当然の如く体罰うんぬんの事であった。




外で野鳥がさえずっている。

僕は何日目かの朝をこの病室で迎えていた。

体が少しずつ動くようになるにつれ、だんだんと思考の方も働き始める。

僕はあの時空ろな意識で聴いたあの声は単なる空想だと思うことで決着付けた。


そうしてのんびりとしかし、どこかうらぶれた時間を過ごしていたその朝だった。

病室に晴臣さんがやってきて、突然、僕のかぶっていた布団を引き剥がした。それから相変わらずのろのろとしか動けない僕を無理やりに起き上がらせると、引きずるようにベッドから下ろした。

手馴れた様子で点滴を取った。

血が少しだけ出たのをタオルで結んだ。


「しっかり立て」


一言だけ言うと、荷物も何もかも持たず、すたすた歩き出す。

僕は懸命についていこうとするが、とても体力が追いつかない。

スラックスのポケットに両手を隠した晴臣さんは、そんな僕を恨めしげに眺めるだけで、先に歩いていったり、ましてや助けに肩を貸したりしなかった。

ただ僕が付いてゆける距離まで歩いては、じっと僕が追いつくまでけだるく立っているだけだった。


ああ、もう歩けない。ついてゆけない。

それは精神的な意味も含め僕を侵食していた。

およそはじめて、僕は遠くぼやける視線の先の晴臣さんを睨みあげていた。


畜生、一体どこまで僕を苦しめれば気が済むんだ。

殺してやる。

いや、次こそ息の根を止めてやる。


そうでなければいずれにせよ、こちらが死んでしまう事になるのだ。



僕はその場に俯いた。膝ががくがくわなないていた。

もうずっと立っているのがやっとだったが、もうそれも限界だ。立ち止まったまま動かなくなった(そして蹲りそうな)僕を晴臣さんは容赦なく引っ張って歩かせる。

病院を出てタクシーで合宿場にたどり着くまでの道のりを僕たちは一言も発せず、そして無論僕の場合一言も発する状態になく過ごした。


タクシーが止まった。僕は例の如く引きずり下ろされて、そのままパジャマの首元だけつかまれてぐいぐい引きずられていく。

もう訓練は始まっていて、グラウンドからは走りこみの際のにぎやかしい掛け声が響いていた。隊員のいない合宿寮はしんと静まり返り、僅か日光が差し込むくらいで薄暗く、どことこなくいつもよりひんやりとした空気が漂っていた。

正面玄関から目の前にあるレトロな階段を上っていくと二階にすぐソファと自動販売機がある。そこから隊員隊長クラスの部屋があり、四階に仕官クラスの部屋があるのだ。


玄関をくぐり、勢いよく階段を上ると晴臣さんは珍しく、というよりもいままで見たことのない焦った様子で、階段近くの一番手前の部屋に僕を押し込み自分も押し入った。

玄関で、光も届かない暗闇で、遠くグラウンドから聞える声を背に、晴臣さんは何かに追われるような焦った態で僕に入り込んできた。

強く早すぎる律動の中で、小さく僕は殺してやると呟いた。


まだ朝の陽光は、僕たちのいるところまで届かず、窒息寸前の僕の目はすっかり閉じて何も見えないので、時々不規則になる自分の吐息だけが嫌に鮮明に鼓膜を突き刺してくる。

胸が焼けるように熱くなり、その熱がどんどん喉元まで上ってゆく。閉じた瞳がじりじり焼ける。


熱で頭がいかれそうだ。

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