第8話

合宿場に戻り、木下大尉の元で訓練を行うようになってから一月が過ぎた。

その少し前から、晴臣さんが担当する訓練に僕も復帰した。


まずに晴臣さんの訓練は、胃の中のものをすべて吐き出してしまいたくなる程のつらさだった。もちろん体力が戻りきっていないというのがあるが、それを頭に入れてもまだ足りないくらいの過酷さだった。


そして、なんということか、僕はまた晴臣さんと性行為をした。

つまりは直属部下を切り上げられただけで晴臣さんの中には何の変化も起こらなかったということなのだろうか。

まず初めに、晴臣さんの訓練が終わった後無言の上で部屋に押し込まれたと思ったらいつものように殺されるという寸前まで殴られて、それからは狂ったような話だ。


刃物を持ってきて刺しただの刺されただので裁判沙汰になった男二人で、

一体何の茶番だろうか。


その時、その瞬間、

激しい拍動の中を、僕は真っ白になりつつある脳髄で、必死になってまともな神経に食い下がっていた。

熱い、と思った瞬間目の前が弾けて開けていられず瞑った瞼裏が真っ白にスパークした。じりじり頭が焼けて、それに構わず晴臣さんの情け容赦無い手が僕の髪の毛をこれでもかと鷲掴みにする。ぐいと弓なりになった体を空気が冷たく刺激している。僕はもうここがどこなのか半分以上分かっていないのだ。そして一体自分が誰なのかという事実さえ危うくなりつつあるのだった。


しかし僕は何も言わなかった。木下大尉にも当然の如く言えなかった。




「本当の事を言って欲しいんだ」

木下大尉は言った。

僕の左頬の痣が、とうとう木下大尉にばれた。これはもう隠すことが出来ない。だが公言するわけにもいかない。

僕は風呂場で同期生にぶつかってこけた所に、丁度風呂場のサンがありそれが頬にぶつかったというなんとも間抜けな嘘をついた。当然木下大尉はそれを信じなかった。


晴臣さんの名前はもう木下大尉の頭にあがっているのだろうか。

僕はぼんやりとそれを思った。

その日も訓練が終わった晴臣さんは僕を部屋に押し入れた。そこからはもうここへ記述する必要もないだろう。僕は自分の部屋に戻って死んだように眠った。



訓練は二日おきに担当仕官が代わり、二週間で丁度一周するような仕組みになっていた。つまりは、二週間先まで晴臣さんの訓練はもうないのだった。

少なくとも、顔を合わせない日は僕にも利があった。すぐに部屋にこもってしまえば、どうとでもなる。

晴臣さんは僕の部屋までくるという事はまずなかった。


そう、だからあの時は何かよほどの用だったのだろう。

僕はふと思い出していた。


それはあの、僕がカッターナイフを買いに行った前夜の事だ。

そもそも用と言っても、あれだけ殴れば用事という面目もないというものだが、僕はたった一瞬何かに血迷ったように考えた。

晴臣さんがわざわざ僕の部屋にやってきたのには、それ相応の意味があるのではないか。

しかしそれは瞬時に頭の中で否定されて、すっかり泡となって消えうせた。







随分と体が重い。

はっと目を覚ますと僕はまだ晴臣さんの部屋にいた。体中の痣が一気にがんと叫びだしたような痛みを発して僕はくらくらしてくる目頭をたまらず押さえた。

晴臣さんの気配散漫なこの部屋に、仰向けに横になることなど容易では無く、僕はまだ痛い右肩に仕方なく体を耐えさせて、目を思い切って開いた。

ぼやけた視界の中に晴臣さんが突然飛び込んでくる。自分が今の今まで睡眠をむさぼっていたのでは無く、気を失っていたのだと、その時になって僕は初めて気がついたのだった。目の前の人間が気を失って倒れても晴臣さんは一瞬でも動揺しなかったという平然さで僕の顔を、ただ目線を乗せるだけの感覚で見つめていた。

僕はまたおびえるような表情になっているに違いないそれに、大して色をつけることもできぬまま、ただただ呆然とその晴臣さんの僅かに上気したような、薄い汗の光る額をじっと見つめた。晴臣さんが手を伸ばすので、僕は条件反射のように体を萎縮させて緊張した。


しかしその手は、いつものようにけして乱暴には触れてこなかった。そっと壊れ物を扱うように唇に触れた晴臣さんの中指は、熱い皮膚がじりじりとした感触で熱を伝えてきた。そしてそれからそれよりは少し冷えた人差し指が触れ、その後にゆっくりと親指が僕の上唇をなぞった。

そのあまりの生易しい指先に、僕はもう少しで目を閉じるというところで踏ん張っていた。


僕はもしかしたら、キスをされるのかもしれない、と思った。


僕らはこういう行為をしておきながら、唇をつけるようなことは一切した事が無かったのだ。

それもそのはずだ。僕に行動の決定権はないし、ましてやそんな事をしたいと思ったことも無かったのだ。

しかし僕はその指にその気配を感じてしょうがなかった。

それはけして独りよがりな推測や憶測などではなく、極自然な成り行きによるただの直感だったのだ。腰椎がむずがゆくなるような、甘い痺れが体の中心を駆け巡って僕は自然と目を閉じていた。

恐怖も体のごろごろした心地も、一瞬にしてまるで一緒くたになって何が何やら分からなくなってくる。僕はそのまま目を閉じていたいと思った。真っ白な瞼の裏をずっと眺めていたかったからだ。


ぽたり、晴臣さんの前髪から水滴が零れ落ちてきた。

僕ははっとして目を開き晴臣さんの灰色の瞳を真正面から覗いた。


その瞬間、晴臣さんの瞳に炎がぐらりと揺らめいたと思うと、頸部に熱が燃えついた。晴臣さんの両手が僕の首を、何かをちぎりとるように、熱を持って掴んでいたのだ。あ、と思ったときにはもう抗うことなど不可能で、体の神経が思うようにいかず、ようやく自分の首もとまでたどりついた右手を必死に晴臣さんの手のひらと自分の首のはざまに入れ込もうとするので精一杯になった。僕は、それでも薄く開いた瞳で晴臣さんの顔を伺い見るように覗いた。晴臣さんはその僕にさしても気にしない様子で、というよりも更に腹だたしい様子で僕を睨みつけている。次第に意識が朦朧としてくる。その中で、晴臣さんのかすれ声が「殺してやる」と呟いたのを僕は聞き逃したりなどできなかった。

何故、僕はその時涙を流したのだろうか。謎だ。


殺してやる


本来ならば、それは僕の台詞だ。


「死ね、殺してやる、」

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