第11回 伝統VS刷新

 着替えを済ました雄馬ゆうまは更衣室を後にして、グランドに向かった。

 グランドはすでに整地が済まされていた。新たに白線も引かれ、ダイヤモンドが完成していた。

 バッターボックスに、織田おりたが着き素振りを行っていた。

 得意げな顔でブンブンと音を立て、何度もバットで空を切って見せる。

 ダイヤに足を踏み入れ、雄馬はその中心部に当たるピッチャーマウンドにて立ち尽くした。

 その位置から織田を見据え、そのまま佇んだ。

 すると、織田が雄馬の存在に気付き、振りかぶるのを止め得物をゆっくり下ろした。

 それまで爽やかな顔つきが雄馬の顔を見るなり物々しい形相へと変貌を遂げた。

「よう、よく来たなお前? まあ、いいさ。精々頑張り合おうや」

 それだけ言うと織田は再びバットを掲げなおし、素振り練習を再開した。

 雄馬はマウンドの上からただジッとそれを見つめていた。

 脳裡に、純粋に楽しそうに練習に打ち込む爽やかな主将の表情がよぎる。

 同じ野球を楽しむ者同士なのに、どうして対立し合わなくちゃならないのか。

 雄馬や織田だけではない、このグランドにて集う皆全員思う存分野球がしたいだけなのだ。

 たったそれだけのために、ここに集っているというのに。

 そのために、毎日丹精込めて褐色の砂のカーペットを梳いてきたはずなのに。

 それだけで十分で、幸せになれたのに……。

 堪らず空を仰ぐと、もくもくと青天井目掛けて入道雲がどこまでも伸びていた。

 雲に己の心境を重ね合わせると、雄馬は何かを悟ったかのように口を開く。

「今日は、土砂降りになるな」


☆☆☆☆☆☆

 

 無事両雄が揃い踏みした所で、二人の前に監督がしゃしゃり出てきた。

 出てきて早々。ふたりが直接対決に臨むにあたり、監督が考案したという特別ルールについて説明がなされた。

「さて、まずはどこまでやり合うかについてだが少年野球は通常7イニングで先攻後攻に別れてやり合うが、今回は事情も事情なんでそれの半分以下の3イニングで競って貰う。次に、守備に関してなんだが一塁と捕手だけで、それ以外は全て投手がフォローする。3死になったら普通に攻守交替だ。それから攻撃は、打者がヒットして一塁にたどり着いた時点で終了かつ攻守交替とする。つまり点数で競い合うんじゃなくあくまで『進塁できたかそうでないか』を競い合ってもらうから、スコアボードには進塁成功にはマル失敗なら×バツがそれぞれ書かれる。最終的に全イニング戦い合って貰ってどちらがより多く○をつけられたかで勝敗を見なす――――以上だ」

 ルールをひとしきり説明し終え、何か意見があるかとふたりに意見を求める。

「ありませんっ」

 織田おりた主将キャプテンらしく胸を大いに張りながら、答えた。

「……ありません」

 遅ればせて、この期に及んでまだどこかで勿体着けたい自分を封じ込んで雄馬ゆうまも同じ言葉を口にした。

 それから先攻後攻を決めるために、じゃんけんが催された。

 結果、織田がグー雄馬がチョキを出したため織田が先制することに決まった。

 なお、捕手として本塁ホームベース側には監督であるはたけ自らが就き一塁手ファーストとして副主将・高橋たかはしが置かれた。

 それ以外の面子は、白線より外側のファールゾーンより両者の戦いの始終を見届けようと待ち兼ねていた。

 アレクはそんな彼らから2、3歩前に出たところでスピードガンを構えて臨んだ。

 バッターボックスに織田ピッチャーマウンドに雄馬と、互いに適地に身を置くと本塁側で畑がキャッチャーマスク越しにちなみにと忠告をと呼びかけた。

「断っておくがこの勝敗次第でチームの登板に直接響く事は一切無い。あくまで参考程度にはするが、そもそもそのつもりでこんなことする訳じゃないからな。ここらで双方ともにケリをつけて、後腐れの無いようにするのが目的だ。泣いても笑っても今日をもって何としても遺恨は断ち切ってしまえ。では健闘への祈りをこめ……」

 プレイボール! 

 捕手キャッチャー兼審判を務める畑の口から号令が大きく発せられ、試合は幕を開けた。

 1回目の表。

 初っ端から織田はかっ飛ばしていった。

 様子見のため初球を見送り迎えた2球目で、彼は通常であれば左中間を抜ける鮮やかなヒットを放ち何食わぬ顔で高橋が待ち受ける1塁へと進んだ。

「セーフ」

 律儀に両足で塁を踏み、そのままその上で立ち尽くしながら飛んでいったボールを追いかける雄馬をじっと眺めた。

「そっちいったぞー!」「菅野早くボール獲れってんだー」

 白線の外側から雄馬の不甲斐ない様子を前にしたチームメイツが相次いでヤジを飛ばす。

 自らが鋭く打ったボールのせいでとんだ長い旅路に出かけた彼を見、静かにほくそ笑んだ。

「フッ」

「お、おい織田」

 思わず見かねた高橋が彼に釘を刺した。

「なんだ」

「なんだじゃない。今のは流石に……っていうか最近お前おかしいぞ? 乱暴になったり、時に恫喝したり、今日はあんな遠い所にまでボールを飛ばしてそれをわざわざとりに行かせてそれを見て鼻で笑ったり、さ」

 ああ、と悪びれる事無く次のように応じた。

「つい、な。何せ今日は調子が良くて、久々に良い当たりだったもんでな。思わず出ちまった」

「それはそうとして、酷すぎる。前はそんなんじゃなく、もっと敬意を持って試合に臨んでたってのに……どうしちまったんだよ?」

 不可解さを前面に出して、追及し始めた。

 だがそんな高橋の心配をよそに、自己をひたすら棚上げしその分ひどく雄馬の事を貶めた。

「どうもしてないよ。俺はいつもと何ら変わりはない。そう、いつも同じ時間に寝起きして、同じ練習をして身体を鍛えているんだ。だからこんなに調子がいいんだ。それに引き換え……アイツはどうだ?」

 見てみろ、と織田に促されるままに雄馬を見遣った。

 遠路はるばるグランドの端にまで転がったボールを捕り、急いで戻るためとにかく全身を忙しなく用いて走り込んでいた。

 マウンドに帰って来た頃、雄馬は肩で息をし初回で必要以上に体力を使ってしまっていた。

 それを見かねた織田が、ここぞとばかりに彼に対し苦言を呈する。

「ボールを取りにこっちからあっちへ。そしてそれを持って帰るためにあっちからこっちへ、ここから行って帰ってきただけでもうあんなに息切れしている。俺と同じ練習を毎日やってないからああなっちまうんだ。あんなおっさんの言う事を素直に聞くから、こんな目にあうんだ……かわいそうに」

「お前な」

「おっと、そろそろ攻守交替だ。じゃあな高橋、引き続き一塁での守備は頼んだぞ? 安心しろって……これが終わったら、お前が知ってるいつもの俺に戻すよ。なあに、大丈夫だって」

 友人がひとり暴走している様を見て、せめて一言でもなにか伝えたかったが叶わずただじっと遠ざかっていく彼の背中を高橋は見つめる事しかできなかった。

「……どうしちまったんだよ?」

 高橋は頭を抱えて項垂れた。

 そんな彼の思いとは裏腹に、無情にも試合はその移ろいをますます増していく。

 今度は雄馬が打者として右のバッターボックスに立った。

 ただ先ほど織田により無駄に走り込まされて体力の消耗が著しかった。

 一方、ピッチャーマウンドでの織田は普段から抑えを任されていたのもあってか、まるで水を得た魚のように生き生きしだした。

 その一回の裏、雄馬は初球から押されることとなった。

 物々しいオーラを発しながら送り込まれた織田のボールが、本来芯を捉えてたであろう振りかぶりを無情にも横切ったのだ。

 思わぬ痛恨の1死をもらい受けてしまう雄馬。

 これまでの練習で織田の球は、幾度となく見てきたつもりであった。

 分析して、試行して、あるいは鍛錬を積み重ねようやくバットに当てる事できたという自負が自分の中にはあった。

 いつも通りタイミングを見計らって振れば、問題なく打てると踏んでいた。

 だがこともあろうに、そのボールに対し振り遅れることとなった。

 雄馬は大層困惑した。確かにボールそのものはしっかりと捉えたはずなのに、こうもあからさまに打ち損じてしまうなんて。

 織田主将の球威アベレージは100㎞/hキロ前後、タイミングさえ知り尽くしていればどれだけ当たり処が悪くてもファールが関の山なのだ。

 まして、振り遅れたばかりにかすりもしないなんて絶対にありえない。

 そんな葛藤を繰り広げている雄馬をよそに、ダイヤの外ではチームメイツ一同の感嘆の声が轟いた。

「すげぇ105㎞/hだって⁈」「さっすが俺らの主将いや主砲!」「こんなん俺でも振り遅れるぞ」

 計測器を持ったアレクの周りには、チームメイツが集いその表示された記録を我先に見ようと見ようとごった返していた。

 様々な声で叫ばれる中、雄馬は雑踏から105㎞/hという数字をはっきりと耳にした。

 それによって、彼の中で合点がいった。つまりは、そういう事だったからだ。

 想定していた球威との比がプラス5㎞/hでは、振り遅れるのも仕方がないとさえ感じた。

 雄馬はおっさんとの出会いにより自他ともに成長を実感しすっかりと良い気にさえなっていた。

 しかし、ついぞ忘れてしまっていたのだ。

 自分が努力を積み重ねている間でも、周りは同じくらいあるいはそれ以上に努力に努力しているという当たり前の事実に知らぬ間に蓋をしていたのである。

 ましてや、チームを率いる我らが主将キャプテンなら言わずもがなだ。

 +5㎞/hを会得するために、どれだけの血のにじむような努力を積み重ねてきたのか。

 間違いなく織田主将は、努力の天才だと思った。

 それに比べたら、初めて103㎞/hという自己ベストをたたき出した自分なんて大したこと無いとさえ思えた。

 知らぬ間に自分がそうして胡坐をかいていたことを、雄馬はひどく恥じたあまり反省した。

 バッターボックスできちんと自分を顧みた後、もう一つストライクを捕られたもののバットに掠らせることには成功した。

 どのみち2死で迎えてもう後がなくなった雄馬は、先で掴んだ感覚を頼りにタイミングを修正してどうにかバットに当てることができた。

 直後、ぼてぼてのゴロを織田に捕球された後直ちに一塁へと送られて雄馬の攻撃は終了した。

 

☆☆☆☆☆☆


「嫌なスタートを切っちゃったな」

 得点表の自分の得点欄にでかでかと×を付けられ、己のバツの悪さを自嘲し始める。

 そんな表の真ん前で憂いを帯びた顔つきで佇む雄馬を、アレクが見舞った。

「ユーマ」

「いやあ、参ったねホント」

「でも元はと言えば、ボクと主将のケンカから全て始まったっていうのに。それなのに、なぜかユーマと主将がこんな形で戦い合うことになるとは思わなかった」

 本当にごめんね、と申し訳なさそうに詫びを入れられるもとうの雄馬は逆にいいよいいよと遠慮しだした。

「本音を言えばもっと穏やかにやりたかったけど、実は僕前から主将と直接手合わせをお願いしたいと思ってたんだ。強くなっていつかは……みたいな。流石にそのいつかが今日だとは想定外だったけどね。ところで、さっきは助けてくれてありがとう。主将に首根っこ掴まれてる時、必死で主将にしがみついてたよね」

「いや当然のことをしたまでさ。チビだから後ろから抱き着くくらいしかできなかったけど……言うほどユーマのこと助けれたかな?」

「助けようとしてくれたじゃん。さっきは、それがとても嬉しかったんだ」

 素直な気持ちをぶつけられたアレクは、困ったようにハニカミ笑いを浮かべていた。

「よしてよ、もう! できる事なら、ユーマの攻撃の時にボクが代打を変わってやりたいよ」

「まあアレクも球速の記録で忙しいから仕方ないよ、その気持ちだけちょうだいしとくからさ」

 なら、とアレクが意気込みしつつこれからの戦いを最後目でやり遂げられるよう彼に次の事を提案した。

「なら、ボクがユーマのために思いっきり応援してやるよ! フレフレって、ね」

 無償のエールをと持ち掛けられた雄馬は胸の奥底が暖かく感じ、そんなアレクをみてじいんとした気持ちに浸っていた。

「それは嬉しいな。本当にありがとうアレク、僕なんかのために」

「フレッフレッ、ユーマ! ドンマイバカタレ、ユーマ!」

「……もしかして、『どんまい、がんばれ』って言いたいの?」

「そう、それ!」

 不意の珍発言に思わず笑ってしまった。

 そして雄馬は笑い耽る傍らで、自分のことをこれほどまでに想ってくれている親友のためにも負けられないと心の中でひっそりと勝利を誓うのであった。


☆☆☆☆☆☆


 かくして、天下分け目の2回表は再び織田からの攻撃で幕を開けた。

 自らを波に乗っていると仮定して、この勢いに乗じて一気にねじ伏せてしまおうと考え至った。

 定位置である右のバッターボックスに立つやいなや、素振りに励んだ。

 逸る気持ちをバットに乗せて、ひたすら夏風を薙ぐ。

 しばらくの間、そんな感じでバッティングを続けていると三塁の外側にて雄馬が突っ立っている姿が見えた。

 思わずバッティングを止め、その様子を見つめる。

 彼の定位置であるピッチャーマウンドを見据えているのだろうか、先ほどから同じとことに立ち尽くしてて全く動じようともしない。

 その様子を見た織田だが、なぜそうしているのか見当もつかない。

 よもや一回目の時点で心が折れてしまい、マウンドに立つ気力が無くなったのか?

 あるいは、そう錯覚させて隙を窺っているとでもいうのだろうか?

 憶測が憶測を呼び、堂々巡りに陥っていると、ここでついに雄馬が動き出した。

 グローブすら見えない、空手の両の平を己の頬にまでそれぞれ持ってくる。

 何が始まるのか?

 固唾を飲んで見守ると、雄馬は突然に自分で自分の両頬を強く叩き始めた。

 ピシャリという乾いた音を一回だけでなく、もう一回、さらに続けてもう一回と発し続けた。

 一旦間を置き今度は間髪入れずに連続で3回も両頬を強く引っ叩く。 

 そして、最後に今一度1セット目と同じ要領で慎重にかつ力を籠めて平手打ちを自らの顔に叩き込む。

 計3セット分顔を張って気合いを入れ終え、次に一回だけの深呼吸を徐に行った。

 細く夏の薫る空気を肺に取り込み、後から長く吐き出していった。

 それらを終えると、死角であった左脇の位置からグローブを取り出して嵌めた。

「よし、行くか!」

 決意を言葉に表すと大きく両腕を振り仰いで、雄馬は白線を跨ぎダイヤの中心マウンドへと駆けだした。

 一部始終を見届けた織田は呆気に取られてしまった。

 ただ、気合いを注入していただけだなんて、プロ選手を見習って自分なりにルーティーンを行ったつもりだとでもいうのだろうか?

 そんなことやって見せたところで虚仮脅しにも使えないというのに……そこまで考えると、織田は鋭い目つきでマウンドに立つ雄馬を見遣った。

 彼の心境は、雄馬に圧倒的大差で完勝してなおかつ現実を見せつけてそんな彼の思い上がりを力づくで正して2度と立ち直れないようにしてやろうという冷酷極まりない色で染め上げられていた。

 絶対に勝つ。

 そして、何としてもアイツをフェネクスから追放する。

 そうすれば、一度地に落ちたはずの不死鳥は無事甦るに違いないのだから。

 織田はマウンドに一点を集中させて己の両脚を肩幅と同じくらいに開き立ち尽くした。

 すると、後方から畑がトイレ休憩を終えて帰ってきて、所定の位置に付く。

「さてと、スッキリしたところで再開といこうか? おい菅野、ボールだ受け取れ!」

 ポケットからボールを一個取り出すと、マウンド上にて立つ雄馬目掛け投げ放った。

 およそ14m先から送られたボールが目と鼻の距離にまで近づくと、雄馬はそれに合わせてゆっくりグローブを嵌めている左手を前に差し出す。

 そして、到達と同時にグローブできっちりボールを左手だけで挟み込んだ。

 その一連の挙動に、織田はひどく驚かされた。

 先ほどと明らかに、動きのキレが良くなっていた。

 バカな、と織田は思った。

 ほんの数分程度の間にああも見違えるとは。いったいどんなトリックを使ったというのだろう。

 まさか、あの単なる虚仮脅しもしくはかっこつけてるだけだと思ってたあの張り手が利いたとでもいうのか?

 内心、焦りと苛立ちとがこみ上げるあまり彼は下ろしていたバットを再び構えると矢継ぎ早で素振りを繰り返して見せた。

 それをマウンドから雄馬がグローブの中でボールを弄りながら黙って眺める。

 結果気が少し晴れたか、見切りを付けて織田がバッティングフォームの調整を始めた。

 一方、雄馬も雄馬でフォームを整えだし、右手の3本の指でボールをホールドさせた。

 頃合いを見計らい、畑が自身のトイレトラブルで中断させてしまっていた試合の再開のため大声で号令を呼びかけた。

「それじゃあ、気を取り直して……プレイボール!」

 さあどうでてくるのか、と織田は背筋をピンと構えてその先の雄馬を見遣った。

 一回表の時と比べその佇まいに大差は見られない。

 だが、先で感じ取った節がありそれが非常に心残りでありなおかつそんな彼の心に胸騒ぎを掻き立てさせることとなった。

 はっきりとしたことは分からない。

 だが、何かが違うということだけは嫌でも理解できていた。

 一チームを任せられている主将なら誰もが持つ勝負師としての勘が彼自らの心を突き動かしたのだ。

 三塁側に己の前身を見せつける体勢で雄馬は、足元のポジションにいまいちしっくりせず未だ浮足立っている様だった。

 右足でマウンドの土を均して左足でいつもより多めに踏み固めていくをひたすら繰り返した。

 やがて踏み場が出来上がり、そこに足を置いた。

 作業のため俯いていた頭を上げ、雄馬は本塁へと視線を送る。

 その時初めて織田は、投手の顔をはっきり確認することができた。

 肝心の雄馬がどんな顔をしていたのか。

 口元や下顎部分は噤まれ引き締まってはおらず、その唇は至ってやわらげである。 

鼻の穴は広がっても痙攣してもいない。ならばと、最後の砦である彼の瞳にと注目した。

 瞳孔は閉じ切っており、ただ一点のみに視線を集中させている。

 無言ではあったが、目には絶対に織田にはこれ以上打たせないという確固たる決意が宿っていた。

 不気味な視線に釘付けにされたと感じた織田は、夏場にも関わらず鳥肌の泡立ちが全身を駆け巡る感覚を味わった。

 気を抜けばたちまち身体が震え上がり試合処で無くなるので、織田はひたすら歯を食いしばり続けただバットを打席にて構えたままじっとこらえていた。

 マウンド上にて雄馬は、まず徐に左脚をするすると持ち上げた。

 次に、おっさんが教えてくれたように投げるための右肩をガクンと大きく落とす。

 右肩を落とすのと同じく雄馬自身の左肩甲骨にあたる背中部分を、織田に見せつけるつもりで上半身を強く内側に捻り込ませていった。

 ありありとその仰々しさを見せつけられた織田は、ふと気が付く。

 このフォームでは右手に握られているボールが投手自身の身体により隠れて死角となってしまうのだ。

 つまり、それは投手がいつボールを投げ込むかというタイミングが掴めなくなることを意味していた。

 実際打者からすれば、コンマ何秒と言う微妙なタイミングを推し量るには投手が投げ放つまでの予備動作やボールの流れ諸々を考慮に入れる必要がある。

 しかしそれができないとなると最早いつそれが来るか皆目見当もつかなくなってしまう。

 打席にと臨む織田は緊張のあまり萎縮していた。

 情けないが、天に身を任せボールがストライクゾーンに差し掛かったところをバットで瞬発させるしか方法が見つからなかった。

 やがて、雄馬は半身の捻り込みを解除した勢いに乗せる形でもって、第一投を投げ放つ。

 おっさんから伝授された体重移動の仕方をフル活用した投球は、きれいな弧を描き本塁のミット目掛けまっしぐらに進んだ。

 雄馬渾身の一球は、空気重力時間といったすべての事象を巻き込みついぞ畑のミットへ着弾をきめた。

 ドバァン!

 一瞬何が起きたのか理解に及ばず、唖然とした。

 織田が恐る恐る後方へ視線を向けると、畑の構えていたミットにはすでにボールが挟み込まれていた。

「ストラ――イクッ!」

 無情にも先の言葉が畑の口から発せられ否が応でもそんな現実と向き合わなければならなくなる。

「ば、馬鹿な。まさか、そんな見えないなんて……」

 驚愕の事実に震え声をあげる織田。

 得体の知れぬ恐怖にひとり囚われていると、ダイヤの外でチームメイツがなにやら騒々しかった。

 ハッとした拍子に振り返った。

 するとチームメイツが三・本塁間の白線の外側にて、計測のためスピードガンを雄馬に構えていたアレクの背後に皆して群がっているのだった。

 人だかりから、相次いで歓声があがった。

「すっげえ、110㎞/hってでてるぜ!」「こんな球速、ウチらの中じゃ見た事ないぜ」「なあ、ひょっとしたらこれ全国大会レベルのやつじゃないか?」「こんなの、俺でも満足に打てる自信なんかないぜ?」「いや俺も打てないもん、こんなの初見殺しもいい所だから」「確かに、主将もそりゃ面食らったのも無理ないよな。何せ110㎞/hじゃあな」

 野次馬からときどき発せられる雄馬のたたき出した球速を聞き、織田は思い知らされた。

 上には上がいるのだということを。

 河原の石をどれだけ地道に磨き上げてピカピカにしたところで、所詮ダイヤモンドの原石には敵わないのだと、痛い程味わわされたのだ。

 絶望に飲み込まれそうになった時、突然織田の脳内で昔の記憶が呼び覚まされた。

 彼自身がまだ5年生のころに、チームを去る直前の先輩と言葉を交わした最後の思い出であった。そのワンシーンが断片的に再生された。

 とうの先輩が、チームの主将の証である背番号10のユニフォームを彼に明け渡している所が正しく脳内にて展開されていた。

「――――――。」

 その時、ふと我に返った。

 俺はいったい何をやっているんだろうと自分に問う。

 昔から憧れてかつ散々お世話になった先輩との思い出とそんな先輩たちが遺してくれたこの少年野球団を守るために何としても勝たなきゃならないってのに、なんで俺はこんなにも不甲斐ないのだろう? 

 そんな彼をよそに、畑はボールを雄馬にそっくりそのまま投げ返した。

 心の中で堂々巡りし、未だ答えが出ない中で織田はどうしようもなくバットを起した。

 そして雄馬が先ほどと同じように、本塁に向けて送球した。

 織田は慌ててバットをふるが、

「ストライク、ツ――――!」

 あっさりと捕られてしまう。

 それでも諦めずに、期待を込めもう一度振りかぶった。

「ストライクスリ――――! バッターアウト、チェンジ!」

 けれども、結果は同じだった。

 失意の中、打席を後にする。

 今度はマウンドに立ち、気持ちを切り替えて挑もうとする織田。

 文字通りの決定打で差すことはできなかったが、要は雄馬に打たせないようにすればいいだけの話だ。

 他が駄目でも、俺には主将としての座とチームの抑えとしての実力が備わっている。

 力でねじ伏せればいいのだ。

 右肩を二度ほど回した後、投球フォームを整える。

 そこから打席を眺めると、雄馬が先ほどと同じ目つきのままバットを起して待ち構えていた。

「菅野……ッ!」

 相変わらず何を考えているのか分からないその目つきに、織田は苛立ちを隠せなかった。

 半身の構えで佇み右手の三本の指先に力を籠め、織田は思いっきり投げ放った。

 バッターボックスにて、雄馬は腰を突き出すような体勢で臨み、打つ直前にゴム動力の要領で上半身を強く捻った。

 そして、打つ瞬間力強く上半身を回転させた。

 芯は外したがバットには当てられた。

 打った打球は三塁のダイヤギリギリのところを駆っていた。

 フェア玉を捕球するため急いでマウンドからダッシュでボールを追いかける。

 なんとか追いつき両手でボールを捕ってから、一塁の高橋に向け投げ放つ。

 しかしそれよりも先に雄馬が一塁へと到達してしまった。

 一拍遅れた後で高橋が受け取ったため逆に同点へ追い込まれてしまった。

 ついに、互いに一勝一敗で並びもう後がない3回。

 結局、雄馬の剛速球を前に手も足も出ず、織田側の最後の攻撃は終了した。

 そしてクライマックスに突入した3回裏、投げる直前にダイヤの外を見る。

 ずっと球威の計測を行っていたアレクが、打席にいる雄馬にエールを贈っていた。

「ユーマ! きっと君なら勝てるよ、最後にガツンと一発噛ましてやれ!」

 思わず歯軋りをして、こっちの気持ちなどまるでお構いなしなアレクをきつく睨んだ。

 次に雄馬へと視線を移した。

 織田は心の中で、逆恨みのような感情を彼に抱いていた。

 あいつのせいで。あいつのせいで、定陵ゴールデンフェネクスは滅茶苦茶になってしまった。そもそも、アイツがこのチームいやこの学校に転校してきたのがそもそもの間違いだったんだ。あいつさえ。あいつさえ、いなければ。あいつが、あの変なおっさんさえ連れてこなければこんな事にはならなかったというのに。

 膨らむ憎悪と、マイナスの感情。

 そんな思いをボールに込めながら強くボールを送る。

 雄馬は振りかぶりバットに当てたが、ダイヤの外側へ飛んでいってしまった。

「ファール!」

 畑が、ファールと告げた。

 気を取り直して2球目を投げるが、先ほど同様雄馬によりファールへと送られてしまう。

 三度目の正直、受け取ったボールを手にフォームを整えた。

 ありったけの力を籠め、これが最後のつもりで大きく振りかぶった。

「これでぇ……ッ!」

 ありったけの願い、感謝、そして打倒雄馬という決意すべてを一個のボールに乗せて手元から放つ。

 打つ直前力強く上半身を回転させ、軸足となる後ろの左足の股関節に重心を集中させた。

 そして、バットにボールが当たった瞬間雄馬が反射的に重心を前へ前へと移した。

 完全に芯を捉え当たったボールは大きく跳ね返り、織田の頭上をゆうに飛び越えた。

 空を見上げて、ただ茫然とぐんぐん飛距離をのばしてはるか先まで追いやられていくボールをただ仰ぐことしかできない織田。

「あ、ああ。ああああ…………………!」

 一方、外で観戦していたチームメイツもまた雄馬が繰り出した完璧なホームランを、ただ口を開けて見守ることしかできなかった。

「跳んだなあ」「いやもう、跳んで跳んで」「跳んじゃってぇ……」

 当のボールは、校舎の方向にて真っすぐ弧を描いてかっ跳ぶ。

 校舎屋上よりもさらに少し上にて掲揚される、風になびいている日章旗の位置まで上昇した。

 するとそのあたりで揚力が尽きたのと重力により空高くからゆっくり下目掛け落下しだす。

 落ちるとともに段々加速までついてきて、そのまま校舎の一階の窓目掛けまっしぐら。

 ガッシャ―ン!

 大きな音を立てて、とうとう一階の窓にぶつかった。

 しかし、本来の落下延長線上である窓ガラスの前を太い針金のフェンスが取り付けられていたため、野球の練習で窓ガラスをぶち破ってしまうというお約束のパターンをどうにか回避することが出来た。

 遠くからその様子を眺めていた畑は、グランド上で誰よりも一番ホッとしていた。

 天国の尾崎豊もびっくりなそのフェンスは落下したボールのエネルギーをけたたましい音と、振動に変えてしまいその堅牢ぶりを確固たるものとしていた。

 雄馬により高く打ち上げられ、窓ガラスの前に敷かれたフェンスにも撥ね退けられたボールは最終的にその一階の教室の外側に設置された蓮のビオトープ池に着水したのだった。

 かくして、織田と雄馬との間に繰り広げられたまさに伝統VS刷新の体を為した戦いは最終的に1―2xという結果により幕を閉じたのだ。


☆☆☆☆☆☆


「よっこいしょ、と」

 特大のホームランを打ち放った雄馬は、その後のセオリー通り忠実に一~三塁を周りとうとう本塁への帰塁を果たした。

 まるで雄馬本人を勝利の女神が祝福してくれているかのように、火照った彼の頬を風が撫でつけた。

 風の音しか聞こえないグランドにて、雄馬は堪らず振り返る。

「おつかれ」

 試合を終えたばかりな彼を真っ先に迎えたのはキャッチャーマスク及びミットを外した監督の畑であった。

「ど、どうも」

 いきなりテンパってしまった彼の肩を抱きながら、マウンド上で膝から崩れ落ちガックリと項垂れる織田の元へ共に連れてきた。

「もう終わったぞ。織田、お前の負けだ」

 畑の放ったその言葉に、織田は耳に氷が突き刺さったような顔で振り向いた。

 目に生気は無く、淡水魚のようにパクパクと口元を動かしながら声を振り絞った。

「負、け? 俺が。負けたんですか? 俺、負けちゃったんですかぁ?」

「お前も見ていただろうが。いい加減認めたらどうなんだ」

「……ああ、そっかあ。負けたんだ俺」

 織田はグローブも何もない、空手をただじっと見ていた。

 何もない。

 何ももっていない。だって、自分は負けてしまったのだから。

 いや、そうじゃない。

 考えてみれば、最初から手には何も持ってはいなかったのだ。

 己のプライド。

 思い出。

 ゴールデンフェネクスへの熱情とお世話になった数多くの先輩方への恩。

 それらは全て、砂粒に代わって手から漏ってしまった。

 どれだけかき集めて丁寧に救い上げたつもりでも、指の先から零れ落ちる。

 そして、零れ落ちたそれはグランド上の褐色の砂と同化してしまい分からなくなった。

 もう一度、じっと手を見てみるとそ所々にてここにあったことを匂わす、その痕跡があるだけだった。

 それを実感した直後、顔面にサッカーボールを見舞った時のようなツーンとくる痛さが鼻腔にて広がる。

 呼吸も荒くなり、徐々にしゃくれ上がると織田の目元から熱い物がこみ上げてきた。

 マウンドにて、零れ落ちたそれはじわっと浸透していきいくつもシミを浮かび上がらせる。

「涙が」

 ポツリと雄馬が告げると、織田は突然堰を切ったように泣きじゃくり始めた。

「ごめん、なさい。先輩……お、れ。守れ、なかった。先輩が、大好、きだった……野球チームを、守られ、なかった。ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 肩を何度も上下に揺らす様子を、一塁から高橋が悲痛そうに見届けていた。

「織田ぁ……!」

 途中から見ていられなくなったあまり、下へと俯いた。

 潮時だ、と畑はそれまで雄馬の形に回していた手を解いた。

 そこから少し離れたところで、チーム全員に声が伝わるように大きく声を張り上げた。

「今日はもうこれで終わりだ。今日の練習はもうないから、もう、お前たちは帰っていいぞ。いや、もう帰れ。とっとと着替えて各自家に帰ってくれ。以上――――全員解散!」

 突然の終了宣言に、チーム全員が全員の顔を見合わせた。

 当然腑に落ちなかったが、まあ監督がああも言ってるんだからと納得したチームメイツは各自撤収を開始した。

 そして、ほぼ全員が更衣室へと移動したことを見届けた畑は、未だグランド上にて取り残されたふたりを見遣った。

 情けなくもマウンド上で四つん這いの姿勢で泣きじゃくる織田。

 そんな織田主将を何とも居たたまれない思いで見つめる雄馬。

「えと、主将?」

 あのう、と口を開いた所で織田が待たれいと言わんばかりに阻んできた。

「この状況でお前はいったい何を吹き込もうとしたんだ。お前もとっとと帰れ」

「あ、いや、ただ」

「ただ何だ?」

「あまりに辛そうだったから、つい」

だらぶつ馬鹿者。親切の押し売りなんかするんじゃない。いいから、帰れ帰れ。後の片付けは俺がやっておく」

「わ、分かりました」

 じゃあ、と散々帰るよう要求してきている畑に従い、一礼をした後更衣室へ向かって歩き出した。

 背中に畑監督からの熱い視線と、織田のむせび泣く息遣いとを一身に受け重たい足取りでひたすら帰路へと前進する。

 そんな雄馬の胸中は、一言で言えば大変複雑なもので満ち満ちていた。

 今日の主将との戦いで、雄馬は理屈ばかりが正しいとは限らないということを学んだ。

 いつの間にか入道雲は立ち消えてて、空には曇り一つない晴天が広がっていた。



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