第4回 野球がしたいです。

 翌日の日曜日。

 昨日と同じ時間に起床、朝食を済ませ、洗濯のすんだ昨日と同じユニフォームに袖を通す。

 すぐそばでブランケットにロールされて眠る妹に配慮してゆっくり襖を引き、リビング兼ダイニングの空間に出た。

 昨日と比べ残業で未だ父親が不在なのと、今日はゲームでなくイヤホンを直結させて母親が目を瞑り流行りの歌を聞いてるのを除けば、絵面的にあまり大差はなかった。

 食器をシンクまで運び、踵を返しそのまま玄関へと向かった。

 玄関先のスタンドからバットとグローブを引っ張り出す。

 ドアノブに手を掛けようとした所で、またもやさっきまで向こうで音楽を聴いていたはずの春海が出張って来た。

「今日も練習なの?」

「う、うん。試合が近いから、しょうがないよ――――モガッ」

 今日も盛大にタオルを顔に投げかけられるハメになった。

 昨日投げて寄越したものとは少々異なり、赤みの強いトイピンクとは対照的にやや紫懸かった感じのブライトピンクであった。

「またタオル忘れてる。それと、ハイこれ」

 覆いかぶさったタオルを顔から剥がすと、五千円札が差し出されていた。

 断る間も無く、春海が畳みかけてくる。

「雄馬。今日も野球の練習に行ってくるんなら、終わった後でいいからスーパーで牛乳買ってきて。お母さん、今日亜季をかかりつけの小児科の先生の所まで連れて行って、おたふくかぜのワクチンを打ってもらいに病院に行かなきゃならないのよ。で、昼間はお母さんたちいないから帰ってきてお腹空いたら冷蔵庫を開けなさい。昨日のステーキの残り汁で、ガーリックライス作っといたからチンして食べなさいね」

 わかった? と。

 若干強調した言い方で、春海は言葉を締めくくった。

「はあい、分かったよお母さん」

 そんな母親を前にして、有無を言わさずに了承させられたのだった。

 

☆☆☆☆☆☆


 学校のピロティの中に入ると、すでにおっさんが身体を伸ばして待っている最中であった。

 おはようおっさん、と。

 雄馬が声をかけると、両膝を屈伸しながら応じる。

「オイッス、雄馬。肩の調子はどうだ。練習、大丈夫なのか」

「うん。処置はきちんとしたし、昨日みたいな痛みや腫れとかも今は無いから」

 ホラ、と右肩を回し己が息災ぶりを明らかにしていく。

 ちなみに、逆の左手には来る途中で立ち寄ったコンビニで購入した昨日と同じスポーツ・ドリンクのペットボトルが一本。

 それと、肩の痛みが再発した際に使う湿布がワンセット分レジ袋の中でいっしょに収められていた。

「じゃあおっさん、早く練習しようよ」

「別にいいけど、来てそうそうやるのか。体操とかしなくて大丈夫かよ」

 おいおい、と逸る雄馬を制しながら気に掛ける。

 対して、怪訝そうに見るおっさんにハキハキとした口調で大丈夫と言い切った。

「ここに来るまでに、とっくに身体は温まってるから。そんなことよりおっさん、グローブ持ってきてる?」

「わ、わかったって。グローブなら、あっちに置いてある。今取ってくるから、あんまし俺を急かさないでくれ」

 練習用マットレスの上に置いたグローブを取りに行きながら調子が狂うな、とおっさんは思った。

 おっさんが用意している間に、雄馬もさっそく準備に取り掛かった。

 レジ袋をピロティの支柱のひとつに立て掛け、左手にグローブを嵌め同じく持参した軟球をそれで掴んだ。

 空いた右手で自らも所属している少年野球団・定陵ゴールデンフェネクスの意匠が刺繍された黒いキャップを被りなおしていく。

「――――よし!」

 雄馬が元気よく帽子を被りなおした直後。

 持参したグローブを左手に嵌めた状態でおっさんが彼の元にやって来た。

「とりあえず、グローブはこのとおり着けてきたぞ」

「こっちも整ってる。じゃあ、早速……よろしくお願いします」

 ぺこりと一礼しながら、グローブで挟んだままな軟球を差し出した。

 突然の要求に少し黙り込むと、おっさんは軟球とそれを差し出している雄馬の顔を何度も見比べながら真意を問うた。

「よろしくって、もしかして、それは俺から投げろって言ってるのか」

「そりゃもちろん。だって、おっさん昨日言ってたよね。野球の楽しみ方を教えてやるって」

 腑に落ちない気もしたがそう言ってしまった手前、今さら覆すこともできない。 渋々、軟球を受け取りせめてもの抵抗として軽くとぼけて見せた。

「そんなことも言ったかなあ」

「言ったよ。それに、元・高校球児だったとも僕はきちんとこの耳で聞いたんだから」

「……なんで、お前そんなにやる気に燃えてるんだ」

「だって、こうして元・高校球児の人に直接野球教えてもらえるなんて思ってもみなかったんだもん。今朝起きた時からずっとワクワクしてて、ここまで走って駆け付けてきたんだ」

 鼻息も荒げ、力説する様子を前に引け目を感じたおっさんは一旦断りを挟んだ。

「おいおい、俺をあまり買いかぶるなって」

「ようし。この暑さに負けないよう、気合い入れて望まなくちゃ!」

 真夏の太陽のように熱く煮えたぎったハートを掲げて、雄馬はこれから始まる練習に猛烈な期待を寄せる。

「だめだこりゃ」

 それを受け、完全に馬の耳に念仏と化し燃えに燃えている彼におっさんは至って冷静に呟いた。


☆☆☆☆☆☆


「よし、どんと来いっ」

 拳を握り固めた右手を、グローブ越しの左手の平に二回叩きつける。

 叩いた時の乾いた音をピロティ中に響かせながらしゃがみ込みグローブを前に構える雄馬。

 その、雄馬が見据える10m先には、同じく左手にグローブを備え取り留めも無く突っ立ったおっさんがいる。

「張り切ってるなあ、大分」

 手渡された軟球をグローブに収めたままで、まるで他人事のように呟いた。

 ふたりが並び立つ間には、絶妙な温度差が横たわっている。

 しかし期待に胸を躍らす雄馬は、そんなことは見当もつかない。

 元気に手を挙げて、自分の延長線上に立つおっさんに向けて声を張り上げた。

「じゃ、お願いしまーす!」

 それを見てから、やれやれとため息混じりに軟球を右手で握り始める。

 身体を横向きに変えると振りかぶって、投げた。

 パシッ。

 軽い炸裂音とともに、軟球はまっすぐ弧を描いて雄馬のグローブに収まった。

「ナイスキャッチ」

 おっさんから受け取ると、雄馬はすっくと立ちあがりボールを握るとフォームを整え、素早く投げ返した。

 おっさんは手慣れた感じで、向かってきたボールのタイミングに合わせてグローブできっちり挟み取った。

「おっ、ナイスボールだ」

 小学生の割りにキレ味ある球を投げた事に、素直に感心した。

 軟球をグローブから右手に持ち換えると、先ほどの要領で再び雄馬目掛けて投げ返した。

 雄馬はまたもやしゃがみ込んだ体勢で、返された球を手中に押さえこむ。

 最初に返球した時と同じくまた立ち上がると、こんどははるか先にいるおっさんを前に半身になって向き合った。

 そして、軟球を3本の指を駆使して握り緊めると、左足を高く上げてから強く踏み込むのと同時に勢いよくおっさんの元へ投げ放った。

 咄嗟に、おっさんがグローブを構えた左手の甲に片方の右手を添える。

 次の瞬間、構えたグローブに投球が空砲を放った様な力強い音を立てて収まった。

「うおお、またキッツいの投げてきたもんだな」

 予想だにしていなかった威力におっさんは、唸ったと同時に顔をしかめた。

 反射的に止めた際の衝撃が、鮮明な形で左手に残り続けている。

 そして、咄嗟にその後ろで添えていた右手はグローブと左手を貫通して衝撃伝わり少し痺れていた。

 細く長いため息を吐き、溜まっていた熱を放出するように右手を上下に揺さぶる。

 それから指を2、3回握ったり放したりを繰り返すと幾分かマシになったような気がした。

 改めて軟球を手に取り、投げようとした。

「あっ、しまった」

 本来の投球のタイミングからやや早まる形で、球がおっさんの手からすっぽ抜けてしまった。

 やや中途半端な力投だったので、球が進むにつれてみるみる失速していった。

 そして、距離にして半分行くか行かないかのあたりで地につくようになり、てんてんと転がっていってしまう。

 やがて球は勢いを失い、最後は雄馬のスパイクのつま先をちょんと突き、反動で力なく跳ね返ると彼の足元でピタリと止まった。

「済まん雄馬。いやあなんせ久しぶりに球ァ握ったもんだから感覚を取り戻すのが大変でな。今度は気を付けてやるから、あとそれからさっきみたいに強い奴は無理して投げなくてもいいぞ。あんなの投げ続けたら、せっかく治した肩をまたいわしちまうぜ」

「………………。」

「おい、どうした。黙りこくったまま、足元のボールをただ見つめてさ」

 そう言われ、雄馬は徐にボールを拾い上げる。

 すると、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。

「――――がう」

「あん? 今ァ、何て言った?」

 耳元に、グローブごと左手を持ってきて改めて聞くことにした。

 すると先ほどとは打って変わりはっきりした口調と十分な声量で異を唱えた。

「思ってたのと、違う。これじゃあ、ただのキャッチボールじゃないか」

「まあ、キャッチボールだしな」

 さもありなん、と悪びれもせず言い切る。

 それに業を煮やした様子の雄馬が、大声を上げておっさんを追及しだした。

「おっさんさあ、僕に言ったよね? 大船に乗ったつもりでいろって、俺が本当の野球の楽しみ方を教えてやるって」

 ピロティ内部で、怒りを孕んだ未成年の主張が響き渡ってくる。

 だが、一切動じることなくおっさんは至って冷静に対処していた。

「だから、キャッチボールは楽しいだろって」

「僕は、キャッチボールがしたいんじゃない。野球がしたいんだよ」

 スパイクで地団駄を踏み、いかにも憤懣ふんまん方無かたないという思いをあからさまに見せつけた。

 それに何とか答えようと、おっさんは頭の後ろを掻きながら次の事を言及し始める。

「それならそうと聞くが、今ここに俺ら含めて何人の人間が居やがるんだ」

 何人、って。

 急いでピロティの隅々を見回していった。

 目につくのは、等間隔で配置されているピロティの柱と備品倉庫に昨日は散々お世話になった薄汚れた白いマットのみである。

 そして、この場で人という人は、自分を除きおっさんただひとりだけだ。

 解析が終了した後、雄馬は自信満々で言い切ってみせた。

「ここには、僕とおっさんのふたりだけだよ」

「じゃあさらに質問。野球は1チーム何人だっけ」

 考えるまでも無い問いかけを立て続けにお見舞いされて、思わず『はあッ⁈』と声を荒げる雄馬。

 憤りをなんとか抑えて、声を震わせながら丁寧に答えた。

「そんなの、決まっているじゃないか。9人だよ9人。相手チーム含めて計18人で互いに3アウトずつ攻守交替し合って、裏表合わせて全18回戦い抜いた後でその総合点数を競い合う。それが野球でしょ」

 気持ちが入り過ぎたあまり、言い切った後で息切れを引き起こす。

 一方でそんな彼を意に介さない様子で一言、イグザクトリーと軽く相槌を打ってから淡々とおっさんが講釈を垂れだした。

「相手チームはともかくこちらの面子が9人いて初めて野球のチームというのは成立するんだ。なんで9人もいるのかは、ポジションの全9つにそれぞれの役割が適当に振り分けられているからなんだ。投手ピッチャー捕手キャッチャー。内野は一・二塁手ファースト・セカンド、間に遊間手ショートを挟んで三塁手サード。それから外野の左翼手レフト中堅手センター、最後に右翼手ライトといったのが揃って初めて守備が完成する。それに引き換え、ここにはまだスタメンにすら上がったこともない控えの投手がひとり。さらに、かつて球児だった経験のあるただのおっさんがひとりいるだけときたもんだからハナシにならない」

 釈迦に説法、という言葉がしっくりきた。

 とはいえ、正しいものの見方でもあるため無碍にはできなかった。

 追い詰められた雄馬はいよいよ、最後の抵抗で意地を見せた。

「ふ、二人でだって野球の練習はできるよ」

 しかしそうは問屋が卸さない、と。

 容赦なく、抜かりなく、大人げなく、一切合切の甘えを許すまいと無情な言葉でばっさり切り捨てられた。

「いや、無理だね。せいぜい二人だけでやろうとしたら、さっきみたいにキャッチボールを延々と繰り返すか。それか、お前が持ってきたバットを使ってお前にフライ獲りの練習をさせるくらいが精々関の山だ」

「………………。」

 反論する気すら失せた雄馬である。もはや彼には、ただ押し黙って冷たいコンクリートの床に目を遣り、心底で精々いじける事しかできなかった。

 いくら無理無理と言っても、先にそのことを持ち掛けてきたのはそっちじゃないか。

 期待させるだけ期待させておいて、都合が悪くなると平気で期待を裏切るというのは、大人の常套手段である。

 いくらこちらにも都合よく勝手な期待していたという非はあっても、それを見事裏切ってみせるのは絶対に是ではないはずだ。

 嘘つきは泥棒の始まりと昨夜、亜季は声を大にして教えてくれたが正直泥棒されたほうが幾分かはマシだとさえ思えた。

 心を盗まれるより、心を壊されるほうがよっぽど辛いことだと雄馬は痛い程理解した。

 暗く沈んで、地蔵のように立ち尽くす雄馬。

 それを見て、ハッとさせられるおっさん。

 しまった、子供相手に少々言い過ぎた。

 こんなだから、ネェちゃん共に言い寄られもせずバレンタインでチョコのひとつも貰えないんだなあと、極めてくだらない思い当たりで自らの愚かさを再確認するのだった。

 先の険悪な空気を振り払うがごとく咳ばらいをして、しかしなんだとここへ来て譲歩の構えを見せる。

「意見の食い違いはあったようだが、俺がお前に野球の楽しみ方云々について持ちかけたのは紛れもない事実だ。大口を叩いた手前朝三暮四なんてのは都合がよすぎるし、ここは大人としてきっちりケジメをつけないといかんな」

「……おっさん」

 白々しいよ、と心の中でおっさんに対しひとり毒づく。

「なあ、雄馬。お前の少年野球団、平日練習はいつやってるんだ?」

「練習なら、月から金まで放課後にいつもやってるよ」

「うむ、なら昼過ぎってことだな? なんとかなるかもな」

 意味深そうに、顎にそっと右手を添え天井を見上げながら考える仕草をおっさんは取っていた。

「ど、どうすんのさ」

「明日からこっちに来て、お前らと野球の練習につきあってやるよ。おれが手取り足取り野球のいろはを叩き込む」

「おっさんがいいならそうしてほしいけど、でも大丈夫なの? 僕ら子供と違って大人には仕事ってもんがあるんだろう。まさか、仕事抜け出して練習に来るってわけ?」

 仕事に追われまくっている父親を想像して、雄馬は居ても立っても居られなくなる。

 そんな彼の不安を和らげるように、猫なで声で応じた。

「ああ、心配しなくても大丈夫だって。システムを上手く利用すれば仕事もしながら、お前たちの練習に付き合えるから万事順調に事は運ぶ。なあに、こう見えても俺は立派な仕事に就いてんだい。それくらいなら、多少の融通は利くさ」

「本当かよ」

 仕事すっぽかしながら、自分達の野球の練習につきっきりでいても問題の無いシステムの利用の仕方ってどんなものなんだろう。

 もしそれが、実際にありえるのなら、どうして自分の父親はあんなに身を粉にしてまで働かざるを得ないのだろう。

 雄馬の謎は、深まるばかりであった。

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