第2回 おっさんとの出会い

 雄馬が野球の練習と騙って、マンションから飛び出すように出発してから約15分。

 そう遠くない距離を歩いた先に彼が日頃から通っている市立・定陵小学校の校舎にたどり着いた。

 それから雄馬は、小学校のグランドに向かうや否やその場でランニングを開始した。

 一周につき約300mを、一定の間隔で走り込む。

 呼吸の仕方もただ吸って吐くだけでなく二回吸って二回吐く方式に切り替えてただひたすらグランドを駆け回った。

 彼はそれから、ひとり大粒の汗を流しながらえんえんグランドの上より息を弾ませ続けた。

 そして、ランニングをやり始めてから20分ほど。雄馬はグランドそばに設けられたピロティの中で、ささやかな休息を取り始めた。

 今朝、母親から直接持たされたタオルで体中の、主に顔や首、上半身にかけて流れた汗を隈なく拭っていった。

 吹き抜けの作りになっているピロティの中を通った風が、練習で茹だるほど上昇した彼の体温を静かにそして確実に冷ましていく。

 えも言えぬ清涼感に身を包まれた雄馬は、それから、ここへ来る直前に立ち寄ったコンビニで購入したスポーツドリンクをレジ袋から颯爽と取り出した。

 ふたを開けて口をつけ、左手を腰に当てるとそのまま勢いよく飲み始めた。

 ゴクリ、ゴクリと嚥下するたび、ペットボトル内の飲料水はみるみる減っていった。

 このままもう一気に飲み干してしまいたかったが、後々のことも考え流石に自重した。

 結局、雄馬は買ってきた500mlのスポーツドリンクを半分以上飲んでからボトルを置いた。

 水分補給もそこそこに、雄馬は汗で濡れそぼったタオルを右の掌に巻き付け始めた。

 巻いたタオルをしっかり握ると、今度はそれを上から下へ思いっきり振りかぶった。

 パァン、という炸裂音がコンクリート張りのピロティ全体に響いた。

 何度もタオルを振りかぶると、そのたびに音がピロティの中でこだました。50回も振りかぶるとさすがにタオルも乾きかけてきたため、またそのタオルで体を拭いだす。

 タオルに濡れ具合が蘇ると、雄馬はそれを右から左の掌に巻き改めさっきの要領で振りかぶりを続けた。

 この後雄馬は、これを右・左ずつで計3セット繰り返した。

 やがて振りかぶりが終わり、彼の汗を吸い続け文字通り彼に振り回され続けた濡れタオルは、あっという間にくたびれたのだった。

 振りかぶり続けた成果で肩も温まると、雄馬は納得した様子で持ってきた自前のグローブを左手に装着した。

 タオルからボールに持ち替え、フォームを整えると、次に雄馬は左足を前に踏み込むと同時に勢いよく右手から投げ放った。

 投げられたボールは、ピロティの柱のひとつにぶつかった。

 ボールは柱に叩きつけられたと同時に強い衝撃音を放ち、反動で雄馬の元へとゴロになって戻ってきた。

 返球をグローブで受け止め、再び右手で握りフォームを整えてから、先の柱目がけて強く投げ込まれていった。

 そして、さっきと同様けたたましく柱に命中した後反動で彼の元へ転がっていきグローブで確実にキャッチされた。

 顔から汗が滑り落ちていくも、それに雄馬は気に取られることなく投球練習を続けた。

 ボールを投げては受け止め、投げては受け止め……。ただひたすら一心不乱になってボールを柱へ当て続けた。

 しばらくして投球を開始してから、右手だけですでに100球近く投げ込んだことに気付いた。

 無機質で堅牢なはずの鉄筋コンクリート製の柱も雄馬が切れ味鋭く投げ続けた結果、最初と比べ命中した部分が明らかに黒く変色をきたしていた。

 さすがにバテてきたか、雄馬も段々息を切らして投げるようになった。

 右腕は疲労の蓄積で乳酸がたまっており、右肩はすでに悲鳴をあげていた。

 だが、雄馬は自らの肉体に反してさらに強くボールを投げにかかった。

 歯を食いしばり、尻をキュッとひきしめ、なおのこと右腕を酷使する。

 それでも、雄馬は繰り返しの投球で根をあげた身体を心の中で鼓舞し、批評し、叱咤し、激励してまでなおのこと空元気で挑み続けた。

「ま、まだまだっ。まだ、投げられるっ」

 無理からの強がりな言葉が、彼以外誰もいないはずのピロティにてひとり響き渡った。

 全身の穴という穴から汗が滝のように噴出し、目が血走り、呼吸が乱れ、喉が渇き、とうとう自慢の黄金の右腕から痺れを感じるようになり力も伝わりづらくなってきた。

 しかしどれだけ身体を動かそうが、雄馬は頑なに休むことを考えなかった。

 むしろ、是が非でも身体を動かし続けて一秒でも正常な思考に落ち着こうとするのを、本能で拒絶しているのだ。

 いったい何が、彼を極限状態にまで駆り立てようとしているのか。それは、やはり彼がこれまでに過ごした環境や経験がそうさせているに違いない。

 常日頃から不仲に陥っている、両親。時に喧嘩に発展し修羅場に巻き込まれないよう妹の亜季ともども寝室の毛布に包まり嵐が過ぎ去るまで震えて待った思い出。そして、父親の一方的な都合で転校させられ、そのたびに涙を流して別れを惜しんでくれた各転校先でできた友達の悲痛な表情。

そんな諸々の悲しい記憶を、雄馬は無意識に避けようとしていた。

 少しでも遠ざけようと雄馬は必死になっているのである。

 あるいは、むしろそんな不甲斐ない出来事を糧に自らの怒りに変え、怒り狂ってすべてをボールにぶつけ我を忘れ現実逃避しようとしているだけなのかもしれない。

 彼はもはや、自分でも何がしたいのかわからなくなった。

 もうどうでもよかった、何もかもが。

「く、くそっ。くそっ、くそっ、こんなはずじゃあ」

 苦悩に喘ぐ己に立ちはだかり続ける現実という名の壁。

 残酷に、そして容赦なく己に真正面から突き付けられる、真実。

 やり場のない感情の中で逃れられようのない現実と真実を前に、むき出しとなる感情。それは、ただの純粋な意地であった。

 次で最後だ、と雄馬は悟った。

 右腕に力が入らなくなってきたのをここへきてようやく実感したのである。

 今一度最高で最後の投球をするべく力なく右手で持たれているだけのボールに、なけなしの怒りを込めていく。

 静かに目を閉じて、一度だけ深呼吸した。

 そして、思いっきり振りかぶって……投げた!

 だが、思いもよらぬ出来事が雄馬に降りかかってしまう。

疲労が蓄積した右手では十分な強さでボールを握ることができなかった。

 すると、柱へ目掛けまっすぐ全力投球したはずのボールは投げる途中ですっぽ抜けてしまった。

「し、しまった……」

 思いがけない事態に、舌を巻いた。

 しかし、一度放たれてしまったボールは急には止まってくれない。

 雄馬によって強く送り出されたそれは、ぐんぐんと距離を伸ばしていきあっという間にはるか遠くにまで飛んで行ってしまった。

 力投も空しく、ここぞとばかりに振り絞った最後の力に引っ張られ雄馬はそのまま地に突っ伏した。

 冷たいコンクリートの床の上で四つん這いになったまま、もう一度ボールに視線を送った。

 瞬間、雄馬はその光景に目を見張った。

「ま、まずい。そこはっ……」

 推進しているボールのその先には、体育の授業で扱われる備品が収納されている備品倉庫がそびえている。

 ボールが、そのまま倉庫に直撃してしまうのは自明の理だった。

 ましてや倉庫の出入り口であるガラス戸に当たれば、大惨事になってしまう。

 運よくガラスを避けたとしても、辺り処が悪ければガラスにひびが入ってしまうかもしれない。

 力尽き、もう自分ではどうしようもないという状況。

 きれいな弧を描き、備品倉庫へまっしぐらなボールを前にして、雄馬はとっさに左手のグローブで視界を覆い隠した。

「も、もうだめだっ」

そして、ボールは慣性の法則に従い倉庫に直撃し、瞬間ガチャンとガラスの割れる音が―――—しなかった。

 かわりに聞こえてきたのは、鋭く倉庫へ向かって行ったはずのボールがにぶつかった、パシッという実に乾いた音だった。

「……え?」

 雄馬が顔からグローブを離して、先の音のした方を見た。

 なんと、備品倉庫の前に見知らぬおっさんがひとり突っ立っていた。

 右手をチノパンのポケットに入れたまま左手を倉庫の前に差し出していた。

 そして、その差し出された左手の中には、雄馬が先ほど来すっぽ抜かしたあのボールが握られていた。

 定陵小学校のピロティ内において、沈黙が舞い降りた。

 雄馬はただ口をあんぐり開けて目の前の状況を理解できぬまま、相変わらずコンクリートの床に跪いていた。

 一方で、雄馬にとっては突然の救いのヒーローとなって現れたおっさんも先ほどの体勢のまままんじりともしなかった。

 あいかわらず片手でボールを鷲掴んだまま、涼しい顔をして倉庫前でひっそり佇んでいる。

 この沈黙を真っ先に破った勇者。それは、おっさんのほうである。

「よう、このボール君のかい」

 初対面にも関わらず、いたってフランクに話しかけにくる。

 顔を彼へ向け、これ見よがしにボールを掴んだ左手を高く掲げて見せた。

 遅れて雄馬も、答える。

「は、はい。僕が投げました」

「ふ――――ん」

 深く納得した様子で、おっさんは身体の向きも雄馬に向けだした。

 そして、そこでようやく雄馬は目の前のおっさんの全体をちゃんと目の当たりにできた。

 おっさんの髪は頭頂部が禿げかけ、襟足はまあまあ伸びていた。

 白のタンクトップとその上から薄い水色の生地に紺色の細かいチェック柄が刻まれた木綿のシャツを羽織っていた。

 下は茶色のチノパンで履物は黒の健康サンダルという出で立ちである。

 さすがにこれには雄馬も、不審に感じた。

 どんな経緯かはわからないけど、自分を窮地から救いだしてくれたことには違いない。

 だが、それにしたって信頼感を寄せようにもこうも全身から不信感を醸し出されている様では、やはり手放しでは喜べない。

 自分を取り巻いている現状に際し考えあぐねていると、おっさんは徐にポケットから右手を引き抜いた。

 そうっとサムズアップしてみせ、笑みを浮かべた。

「君、ナイスボール」

 ……どうやら、悪い人ではなさそうだ。

 現時点で、このおっさんについてわかった事はそれだけだった。


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