2章 古代~アケトアテン

知らない場所

 意識がゆっくりと登ってくるのを感じて、うっすらと目を開けたらいつもの色が視界を包んでいた。じっとその色を見つめ、私の部屋の色だと認識するのにそれほど時間はかからなかった。


 頭上から目覚まし時計が弾けんばかりの音を鳴らして鼓膜をこれでもかと叩き続ける。煩さに顔を顰め、ベッドから手を伸ばして叩くようにして時計の音を止めた。朝の気持ちの良い静けさが戻ってきたのを感じて、またベッドに縋りつくようにして二度寝を開始する。今日は何日だっただろうと眠気に浸った鈍い思考を巡らせて、突然はっと飛び起きた。


 今日、平日だ。学校。


 がばりと掛け布団を押しやって起き上がり、時計を鷲掴むと針は8時半すぎを示している。学校は9時からだ。あと30分しかない。


「弘子、いい加減起きたらどうなのー」

「お、起きる!!」


 下から聞こえてきた呑気な母の声に慌てて返事をして、ベッドから飛び出した。急いでタンスから服を取り出して素早く着替えると、櫛で髪を整えながら必要最低限のものを荷物に押し込んで部屋を飛び出し、階段を勢いよく駆け下りてリビングに向かう。

 途中のキッチンに料理をする母の姿が見えた。


「お母さん、おはよう!」

「はい、おはよう」

「私、朝ごはんいらない!!ごめんね!!食べてたら遅刻しちゃう!」


 母の背中に叫び、そのままリビングを通り越して玄関のドアに向かって突っ走る。

 朝食を食べていたら完全なる遅刻だ。ただでさえ今から出て間に合うのか分からないのに。


「弘子?何に遅刻するの?」


 ドアの取っ手を掴んだ矢先、母の声が私の動きを止めた。


「メアリーと何か約束でもしてるの?勉強会?映画?」

「え、学校に」


 そんな間抜けな私の声を聞いて、母がお腹を抱えて笑い始める。


「嫌だわ、寝ぼけてるのね。今日は学校休みでしょ?」

「……や、すみ?」

「そうよー。今日は金曜じゃないの」


 イスラム教の影響で、この国の金曜日は休みと決まっている。日本でいう日曜日が金曜に当たるのだ。最近は宗教への信仰心が欠如しているせいもあって、日曜日が休みというお店も多いが、学校は国の宗教を優先して金曜が休みだった。


「何だ、どうした?朝から賑やかだなあ」


 父がのんびりと部屋から出てきて、私と母を交互に見やって笑う。寝起きなのお父さんはパジャマ姿のままだ。


「弘子がね、今日学校だと勘違いして、『朝ごはんいらない!』って叫んで外に出ようとしたの」

「それは傑作だ。さては寝ぼけてたんだろう」


 父は大げさに笑い出して身体を反らせる。


「相変わらず落ち着きないんだからなあ、弘子は」


 今度は誰だと声のした方を見上げると、上の階から軽やかなステップで良樹が降りてきていた。

 この人、いつの間にエジプトに来たのだろう。全く記憶にない。


「そのまま学校まで行ってたら、もっとウケたのに。おばさん、どうして教えちゃうんですか」

「そう言われてみればそうよね、教えなければ良かったわ」


 けらけらと笑うものだから、だんだん腹が立ってくる。良樹は私の失敗をこれでもかって言うくらい笑う。それはもう幼稚園の時から変わらない。


「もういいでしょ!笑わないでよ、もう」

「さあ、弘子、こっちにきてごはんしっかり食べなさい。今日はたくさん歩くんだから」


 召し上がれ、と母が私の席にこんがりと焼けたパンと目玉焼きを置いた。綺麗に焼けたベーコンの香ばしい香りにお腹がなりそうだ。


「あれ、どこか行くんだっけ?」


 玄関で履きかけていた靴を脱ぎつつ、何か予定なんてあっただろうかと首を傾げる。記憶になかった。


「また忘れたのか?忘れん坊」


 良樹が口端を上げて嫌味を飛ばしてくる。ねめつけてやっても、言い返せないのだから仕方がない。


「嫌だわ、弘子、本当に大丈夫?お父さんと約束してたじゃない、今日はルクソールの遺跡めぐりについていくって」


 母の言葉に、どくんと胸が鳴った。

 一気に埋もれていたような記憶が甦る。


 ルクソール。そこで大変な目に合わなかったか。

 声が聞こえて、足が勝手に動いて、意味さえ分からない言葉を叫んで。あの黄金の光に包まれて、古代みたいな場所に落ちたのではなかったか。


「おじさんの案内なんて、本当に楽しみです。期待してますよ」

「任せとけ!俺の案内は凄いぞ!専門だからな」


 何事も無かったように、父と良樹の会話が弾む。それどころか、全部夢だったかのような雰囲気だ。家族の居る場所に私はいる。家の玄関に立って、リビングで笑い合う両親と良樹をぼんやりと眺めている。


 あの巨大な神の像も、腰巻をつけた古代兵士みたいな人たちも。女の人の棺も、あの褐色の人も。あの時見たものは何一つない。そうだと知って、泣きたいくらいに嬉しくなった。


 夢だったのだ。金色の光も、その先にいた褐色の男の人も。全部、夢。


 そうだ。あんな怖いことが現実にあるはずないじゃない。夢でないはずがない。夢などに本気で怖がっていた自分が哀れになってくる。


「弘子、いつまでそこに突っ立ってるつもり?早くこっち来てごはん食べちゃいなさい」

「食べる!」


 嬉しさに勢いよく家に上がる。

 良かった。家族の姿をこうして見ていることが、声を聞いているという事実が、とても嬉しい。


「ほら、急げ。お前の分まで俺が食っちまうぞ」

「食べたら引っ叩いてやるから覚悟しなさいよ」


 笑いながら椅子に座る良樹に叫ぶ。私たちの掛け合いに父が笑う。でもそんな良樹のからかいさえ、父の小さな笑顔さえ嬉しい。当たり前が有難い。

 ほっとして、家族の居る場所に走ろうと右足を動かしたと同時に、いきなり腕に強い衝撃を感じた。


『──アンケセナーメン』


 身の毛が弥立つのを感じ、まさかと思って後ろを振り向く。そこに見えた光景に背筋に悪寒が走った。


「ああっ!!」


 恐怖に悲鳴が漏れる。褐色の男の人の腕が私の腕をがっしりと掴んでいた。褐色に映える黄金の腕輪が眩しいほどに煌めいている。

 あの人の腕。間違いない。夢の中に出てきた人の腕だ。どうして、こんな所にあるのだろう。

 夢だったはずだ。ここは私の家のはずなのに。


『……アンケセナーメン』


 再び響いた声に恐怖が走って反射的に顔を上げた。そこに浮かんだのは淡褐色の瞳だった。夢の中で見たあの瞳だ。その色の中に私を映している。恐怖に身を縮ませる私を。


 気づけばドアがあった場所に黒い世界が広がっていた。

 目が眩むほどの闇に満ちていて、ここに落ちてしまったら、もう二度と這い上がれないと思わせる色が蠢いている。


『甦れ……』

「や、いや!」


 相手の声を遮るように叫んだ。夢の中で、この声のせいで私は古代みたいな世界に落とされた。戻りたくはない。


「離して!離してよ!!」


 自由の利く片腕で、どうにかその手を引き離そう躍起になる。なのにびくともしない。ぴったりとくっついてしまっているように指ひとつ動かせない。折れてしまうくらいの強さで私の腕を掴んでいる。

 怖い。名も知れない何かが私の中で騒ぎ出す。


「やだ!!」


 その人は必死に抗う私を、その暗闇の世界に引きずり込もうとする。


『甦れ……』


 助けを求めようと、両親のいるリビングに目をやった。でも三人は楽しげに語り合いながら朝食を頬張っていた。まるで私のこの状態に気づいていないかのようだ。


「弘子遅いなあ。お父さん、食べ終わっちゃうよ」

「本当に遅いわねえ。靴脱ぐのにどれだけ時間かかってるのかしら」

「本当に食べちまってもいいのかー」


 呑気な会話をしている。そこからここが見えないはずないのに。私の恐怖に染まった声が聞こえないはずないのに。


「お父さん!お母さん!良樹!」


 こちらを向いてもくれない。

 どうして気づいてくれないの。私の声が、聞こえてないの。


「助けて!助けてっっ!!」


 あの時と同じように手を伸ばす。千切れんばかりに。家族に向かって。


 今更になって、あの時の記憶が脳内でありありと再生され始めた。お父さんとお母さんの唖然とした顔も。良樹が伸ばしてくれた手も。黄金の中に投げ出されて、気持ち悪い渦に飲み込まれ、流されたことも。嫌というくらい鮮明に。


「お父さん!!お母さん!!」


 気づいてくれない。私を見てくれない。


『──我が元に』


 ぐいと引かれて足を踏み外し、暗闇に落ちる。身体が傾く。


「やだ!!やめて!!!行きたくない!!」


 暗闇の先に浮かぶ家族が、どんどん遠ざかっていく。


「いやあああああああ!」


『──甦れ!!』


 地面が轟音を立ててうねり、明るい陽光の中で笑い合う3人の姿がやがて遠ざかり、暗闇に灯る一点の白になって見えなくなった。


 私はまた、引きずり込まれた。









 はっと目を開けると、自分の乱れた荒い息遣いがその空間に響いていた。黒い闇も、褐色の腕も、ない。いつもと同じ白い天井がある。


「……夢」


 ぽつりと自分の声が落ちる。汗が流れていく額に右手を当てて目を閉じた。


「……酷い、夢」


 目頭を押さえて、落ち着かせようと何度か繰り返し息をつく。本当に嫌な夢だった。今見たのも夢ならば、ルクソールに行ったことも夢だったのだろうか。


 頭が考えることを拒否しているかのように、どこからが現実でどこまでが夢なのか分からなかった。でも視界に広がるのは私の部屋の色で、私は自分の部屋に寝ていることに変わりはない。夢だったのだ。


「良かった」


 全身が鉛みたいに重く、頭痛が酷く響いている。本当なら、今すぐ起きて両親の姿を確認したいところでも怠くて起き上がる力が湧かなかった。

 家族には後で会おうと妥協して、ベッドに身を任せ、もう一度眠ろうと瞼を閉じる。


 それでも、ふと。


 すがりついたベッドの違和感に気づいてもう一度目を開けた。私の、ベッドではない。知っているベッドより硬めで、触り心地が全く違う。顔を上げてベッドを確認してみると、ベッドの周りを見たこともない黄金が飾っていた。


 白い天井と思ったものは、ベッドを包むようにただの白いベールのような布。どこかで見た天幕のような形をして私を覆っている。


「な、何これ」


 ベッドを装飾する黄金には見覚えのあるエジプトの神々が彫られていた。それはもう、父から嫌というくらい見せてもらった神様ばかりだ。


「……ここ」


 ベッドから飛び出し、天幕を抜け出て慌てて周りを見渡す。転びかけた足を踏みしめ、速まる鼓動が身体に響くを聞きながら自分のいる場所を確認した。


 愕然と身体が固まってしまう。知らない、広い部屋だ。単に広いどころじゃない。広すぎる。自分の部屋ではないことは一目瞭然だった。病院でも家でも学校でも、メアリーの家でもない。


 一体何を感じて私はここを住み慣れた部屋だと思ったのだろう。


「……ここ、何処」


 掠れた声が口から零れた。声の余韻が、空気に吸い込まれるように消えていく。


 とにかく部屋から脱出しようと、風が吹いてくる方向に走り出す。繋がっているもう一つの部屋に飛び込んだその瞬間、巨大な丸い柱と柱の間から赤い光が満ち、目に痛みが走った。


 あっと小さな悲鳴をあげて目を覆う。恐る恐る手を退けてみると、そこに広がっていたのはこの世の物とは思えないほど大きな夕陽だった。


 その壮大さに息を呑んだ。身体が震えた。思わず跪きたくなるほどの威厳を孕んで、私にその赤を惜しみなく降り注いでいる。


 何の曇りもない、澄んだ赤色。こんな太陽を私は知らない。これほどまでに澄んだ美しい太陽を、生まれてこのかた見たことがない。


でもこの陽の強さを、威厳を、私は知っている。かつて神と崇められた光。毎日のように見上げ、目を細めた光。


「エジプトの、太陽」


 怖くなる。同じ陽の強さなのに、その澄んだ色を、私は知らない。


 空気もあり得ないほど澄み渡っており、エジプトに充満する排気ガスの嫌な、それでも慣れ親しんだ臭いがない。だからこんなにも太陽が美しい。排気ガスに澱んでしまった大気ではないから。


 排気ガスのないエジプトの地域なんて無い。もし、そんなエジプトがあるとしたら、それは。


「……古代」


 自分の発した言葉を否定するように、頭をぶんぶんと振った。

 嘘だ。そんなはずがない。私は何を言っているのだろう。


 今ぽつりと零したことが本当だったとしたら、もし私は古代にタイムスリップしたということになる。そんな非現実的なことがあるはずない。


 車が全く走っていない、排気ガスの無い、澄んだ空気の地域があるのかもしれない。


 エジプトは地域によって大きな違いを持つ国だ。10年そこら住んでいても、住んでいるだけではエジプトのすべてを知ることなど無理な話だろう。


 例え様のない大きな不安に震え始めた時、両親とルクソールを回っていたことを思い出した。


 まずは落ち着いて、どこからが現実でどこまでが夢なのかをはっきりさせようと、改めて自分の服装を眺めてみる。


 グレーのワンピース。でも白い帽子がない。サンダルも履いていなかった。このままの服装でいるということは、ルクソールにいたことは夢ではなかったということだ。

 帽子は確か、KV62であの黄金の光が溢れた時にあるはずのない風によって飛ばされてしまった。ならば、あの黄金の光に引きずり込まれたことも現実。


 そんなはずない。信じたくない。


 どこにもやれない恐怖を感じながら出口はどこかと見回すと、最初にいた部屋にぽつんと立った木製のテーブルが目に入った。その上に見覚えのあるショルダーとサンダルが置いてあった。私の所持品だった。


 駆け寄るなりひっつかみ、急いで携帯を取り出した。とにかくお父さんたちと連絡を取って助けてもらわなければと、携帯を開けて見た画面に愕然とする。


「け、圏外……」


 電波がない。

 どんなに携帯を振ってみても、どんなに電波がありそうなところにかざしてみても、全く立たない。エジプトの砂漠の上だって電波があるのに。


 その場にへなへなと座り込んだ。


「おと……お父さん…」


 それでも、電話帳から父の電話番号を探して電話をかける。お願いだから出て、と何度も心で唱え続ける。


「お父さん!お父さん!!」


 いつもならすぐに出てくれるのに、何度も何度もボタンを押して耳に当てるのに、一向に繋がらない。通話中を示す音さえ流れてくれない。


「おかあ、お母さんは!」


 今度は母に。震える指をどうにか動かして、ボタンを押す。


「お母さん!!何で?どうして!?」


 それが駄目だと良樹に。それも駄目だとメアリーに。泣きそうになりながら、挙句の果てには学校にも。けれど、どれ一つとして私の助けを求める声を聞いてくれない。それどころか、通話ボタンを押した瞬間に切れて、たちまち待受画面に戻ってしまう。


「お父さん!お母さん!」


 私、変な所にいるの。よく分からない所にいるの。

 助けて。私の声を聞いて。


「お父さん!!お母さん!!」


 ひっくり返る寸前の声で家族を呼びながら、何度も何度も通話ボタンを押しては携帯を耳に押し当てる。それでも繋がらない。この世界に携帯が存在しない。携帯の存在が、否定されているような気がしてならなかった。


「どうして、どうして繋がらないの!!」


 目頭が熱くなって、どうしようもなくなって、足が崩れて床に座り込む。家族と繋いでくれない携帯を耳に押し当てたまま呼び続けた。


「ネチェル殿!姫様がお目覚めになられました!」


 求めたものとは違う声が背中にかかり、びくりとして振り向くと、知らない女の人が3人並んで嬉々とした表情で駆けてきた。慌てて体の向きを変えて身構える。


 真ん中に初老の女性、その両脇に私と同い年くらいの女の子が2人従っている。服はロングのワンピースみたいだけれど、私が知っているワンピースじゃない。これも壁画で見た服だ。


「お目覚めになられていたのですね。お呼びくださったらすぐに参りましたものを」

「でも本当に良かった!姫様が甦られて。古今探しても、お亡くなりになられてすぐ甦られた方なんておりません!」


 また姫。また甦り。耳が痛い。


「これで王家も乱れることはありませんわ」

「本当に!一時はどうなることかと!」


 王家?何を言っているのか分からない。この人たちは誰なのか。


 何故そんな恰好しているの。そういう趣味なのだろうか。『古代の衣装を着ちゃいましょう集団』のような。コスプレみたいな。


 でも趣味にしては懲りすぎている。趣味の範囲じゃないことは歴然だ。


「ファラオもそれはそれはお喜びになられて、民も心より喜んでおりますわ!」


 ファラオなんて言葉が存在するのは、エジプト王朝時代だけ。現代にそんな呼び名はない。


「死の世界というのはいかがでした?やはり心臓と真実の羽根を天秤に載せる審判をお受けになれたんでしょう?そこで天秤が釣り合ったから姫様は甦りになられた!」

「それはもう、姫様は王家のために尽くされた御方。釣り合わないはずがないでしょう!」

「本来ならば甦るのは何年も先だという話なのに!ファラオが神にお祈りになられたことで、同じ世代に姫様が甦られた!ああ、本当に凄いわ!!」


 唖然としている私を残して、三人は目を輝かせて興奮気味に話している。


 心臓やら天秤やら、真実の羽やら、何が何だか分からない。私は完全な置いてけぼりだ。

 言葉が通じることと、エジプト人特有の訛りがあることから、この人たちがエジプト人だと判断できる。顔立ちは若干違う気がするけれど、何よりも綺麗なほどの褐色の肌がそれを物語っていた。


「私共も甦りの瞬間をこの目で拝見させていただきたかったです!」

「皆の話だと、目を瞑ってしまうほどの黄金の光が現れて、そこからファラオの上に落ちてこられたとか!」

「それはもう神の御光だと誰もが悟るほど美しいものだったと聞いております!」


 黄金の光。やっぱりあれも夢ではないのだ。

 あの中で気持ち悪いほどぐるぐる回って、喉が枯れてしまうほど助けてと叫んだことは生々しく覚えている。


「本当に素敵ですわ!お亡くなりになられた時は皆絶望の淵にいましたのに……感激で涙が止まりません!」

「姫様、よくぞお戻りくださいました!」

「よくぞ、我らの元に!」


 いきなり泣き出したと思ったら、三人が私の前に平伏した。その礼に目を見張ってしまう。よくエジプトの町の中で見たイスラム教の祈りのようだ。


「あ、あの」


 悪い人たちではない、という自分の直感を信じて思い切って口を開いた。とにかく場所を把握しなくてはならない。

 太陽からしてここはおそらくエジプトだ。エジプトの地名なら大体把握しているから多分どこを答えられても大丈夫。誰かと勘違いしているようだから、違うことを説明して車を貸してもらって家に帰ろう。

 多分、王家の谷で迷子になって石油王か何かに拾われたのだ。


「何でございましょう、姫様」


 涙を拭いながら、3人が顔を上げる。


「ここは、どこでしょう……?」

「は?」


 きょとんとした視線がいきなり三人分突き刺さる。それでも出来るだけ心を落ち着かせて、冷静に言い直そうと口を開いた。


「……あの、ここはなんという地名ですか?」


 3人は不思議そうに顔を見合わせ、それから年配の女性が私を見た。


「ここは我が国の都、アケトアテンにある大宮殿に御座います」


 アケトアテンという名に目を瞬かせる。そんな地名は知らない。聞いたこともない。もしかしたらここはエジプトではないのだろうか。


「あ、あの……」


 続けて質問しようとしたら、若い女の人があっと声を上げた。


「ネチェル様、そろそろ姫様のお召し替えをなさりませんと」

「そうですわ、姫様がお目覚めになられたらすぐにでも大臣神官たちとの宴席を設けると、ファラオからの御達しもありますし」

「そうね。姫様、お召し替えを」


 3人の目が一糸乱れず私を捉える。


「おめし、かえ?」


 身の危険を感じて思わず後ずさった。


「左様です。お召し替えを。そのような面妖な衣では王家としての威厳がありません」


 私にとってはこれが普通なのに。もしかして、自分たちと同じ服を私に着せるつもりなのだろうか。


「しかしながら、死の世界に行かれると、そういう服を着せられるのですね。不思議な服ですこと」


 そう言った一人が私に手を伸ばす。


「やだ!!」


 伸ばされた手を弾いて叫んだ。


「嫌などというご冗談はおよしくださいな。姫様が復活なされたましたことを、神官たちに知らしめませんと」


「嫌よ!!触らないで!!」


 復活とか、甦りとか、姫とかファラオとか王家とか。

 もう分からない。何を古代のようなことを言っているのだろう。きっと変な集団なのだ。そうだ、古代であるはずがない。


「絶対に着替えたりなんかしないから!!」

「姫様、どうなされたのです」


 座ったまま後ずさる。今更、その変な格好をしている人たちに恐怖が走った。

 夕方という薄暗さも影響しているのかもしれない。伸びてくる手が、視界に浮かぶその顔が、幽霊のように見える。


「嫌よ!!寄らないで!!」


 携帯とバッグを胸に抱いたまま、三人から距離を置こうと必死になる。三人は唖然と私を見つめていた。

 嘘だ。お母さんはどこにいるの。お父さんは。

 まず、私は一体どこにいるの。


「私に触らないで!!!」


 ただ願う。これが夢であることを。その夢が早く覚めることを。


「何の騒ぎだ」


 飛んできた声に、びくりと背中が跳ねた。

 この声を私は知っている。心臓が止まりそうなくらい鳴り響くのを感じながら顔を上げると、あの女の人たちも背後に現れた人影に緊張の眼差しを向けているのを見た。

 黄金を身にまとった褐色の肌。深緑のアイラインに映えた、綺麗なほどの淡褐色の瞳。黄金の渦から飛び出した時に、私が下敷きにした人。


「ファラオ」


 私の前にいた三人が私への道を開け、床に顔をつけるようにして頭を下げた。

 敬意を向けられた彼は、ファラオと呼ばれるのに相応しい風格を纏っていた。首に、腕に、そして足元、そのすべてにはめた赤や青の舞う黄金は美しさと威厳を漂わせている。頭にはハヤブサだか、禿鷹だかがついた額当てがあり、腰巻も黒い帯が真ん中を走り、有名な唐草の絵柄が描かれ、より一層『偉い人』という印象を強調していた。


「アンケセナーメンが目を覚ましたというから来てみたが何だ。まったく支度が終わっていない」


 苛立っているのか、声音は低い。まとっている威圧は今まで張っていた声を失うほどで、思わず身を小さくしてしまう。


「も、申し訳ありませぬ!!」


 慌てて三人は頭を下げた。


「姫様が、どうしてもお召し替えをなさりたくないと仰せになられまして」

「アンケセナーメンが?」


 眉を顰めて、私に視線を投げてきた。剣先でも向けられた心地でバックを胸に抱き、身を固める。


「……何故、着替えぬ」


 サンダルの音を響かせて私に近寄る姿は、私の背筋にじわじわと恐怖を浮き立たせた。

 来ないでと叫びたいのに、信じられないほどの威圧感に言葉が出てくれない。喉の奥が痙攣したように震えている。


「おそらく甦りになられたばかりで気が動転していらっしゃるのかと……!!最高神官殿をお呼びするのは後日の方がよろしいかと」

「そのような勝手は許さぬ。時は一刻を争うのだ」


 黄金のサンダルを鳴らし、私の方へ歩んでくる。音が増すたびに、怖くて怖くて泣き叫びたくなる。


「よ、寄らないで!!」


 やっとのことで叫んでも、その足は止まらない。静かに、確実に、こちらへ近づいてくる。


「寄らないでよ!馬鹿っ!!」


 喚いた途端に腕を掴まれ、ぐいと勢いよく引き寄せられて、腕に走った痛みに顔が歪んだ。


「い、痛い!」


 目を開けると、黄金の舞う瞳が怖いほどに光って私を睨みつけていた。


「……今日の宴がどれだけ重要な意味を持つか、お前も知っているはずだ」


 囁くようでありながら、芯の通った声には口答えを決して許さない威圧感が含まれている。


「そのような変な服では王家の恥になる。お前が我儘を言うなど思いもしなかった。見損なったぞ、アンケセナーメン」

「だから私は」


 そんな名前じゃない。言い返そうと口を開く前に、加えられた力に声が滞る。


「何が何でも着替えさせろ。嫌だと抗おうとも逆うことを許す」

「ちょ、ちょっと……!」


 こちらの言い分に耳さえ傾けず、さっきの女の人たちに私を押し付けた。


「かしこまりました。少々お時間を」

「短時間で済ませよ」

「御意」


 彼女たちは私をがっしりと捕え、部屋の奥へと引きずっていく。


「い、いやだったら!!放して!放してよ!!」


 奥に別の小さ目の部屋ががあって、そこにぽいと放り込まれ、無様に顔を打ち付けて見事に転んだ。


「い、痛い……」


 身体を起こそうと腕に力を入れるや否や、後ろから抑え込まれた。


「な、何するの!」

「さあ、姫様、ご無礼仕ります!!」


 3人に囲まれ、6本の手が一斉に私に向かって伸びてくる。


「お召し替えをっ!!!」


 私の悲鳴が、部屋中に響き渡った。






 凄まじい乱闘の末、私は『お召し替え』をさせられた。

 召し替えられた私は、刃物で切られそうになった下着と、捨てられそうになったワンピースを胸に抱きしめて息を切らしながら蹲っている始末だった。

 勝手に服を脱がされるわ、裸見られて感心されるわ、全身をあちこち触られるわ、恥ずかしいを通り越して、いっそのことどこかに消えてしまいたい気分だ。


「ようお似合いです」


 警戒しながら自分の姿を見てみると、絹のような白い生地のワンピース状の服に、黄色の太い帯を腰にぐるりと巻きつけ、手首も腕も、金色の腕輪をはめ、頭にも黄金の蛇のようなものと花が飾られている。


「姫様、なんてお美しい!」


 お似合いかは分からないけれど、とにかく恥ずかしいということだけは確かだった。

 下着をつけていないから足の間が落ち着かない。これではスカートがめくれたら何もかも丸見えじゃないの。それに胸だって少し透けている気がする。そんな大きい訳じゃない、いやむしろ小さい方だけれど、ブラが無いせいでやけにスースーしている。気持ち悪い。


「支度は出来たか?」


 声が聞こえて、顔を上げるとあの褐色の人が立っていた。屈みこんでいる私を、腕を組んで偉そうに見下している。ごくりと唾を呑み、バッグと服をしっかりと抱き直して、その目を睨み返した。これが私のせめてものの反抗。


「ファラオ、まだお化粧が済んでいないのですが」

「時間が無い。このまま連れて行く」


 また褐色の腕が伸びる。素早く、警戒心剥き出しの私に向かって。


「嫌だって言ってるじゃない!!」


 向かってくる腕を払い、相手に向かって叫んだ。弾ける軽い音が響くと同時に、その人の眉が微かに顰められる。


「勝手に何するのよ!!あなたは誰!ここはどこよ!」


 何で、こんな目に。

 無理矢理着替えさせられて、どうして宴会だか何だかに連れて行かれなければならないのか。


「いい加減にせよ!!」


 いきなりの怒声に、間抜けな悲鳴を上げて身を縮めてしまった。


「生前のあの聡明さはどこへ行った!!あの冷静さは!一度死んで王族としての誇りを失ったか!今の王家の状況を知らぬわけではあるまい!!」


 私の腕を引っ付かんで、ぐいと顔を近づけてくる。


「な、何を……!!」


 聡明さ?冷静さ?王家の誇り?


 そんなもの知らない。私が持ってるはずもない。


「覚悟を決めよ!アンケセナーメン!私と共に交わした約束は偽りだったというのか!!」


 何を勝手に。何を好き勝手言ってるのか。

 この人となんて、約束どころか顔を合わせたこともない。威嚇して、いきなり人の腕を掴んで一体何様のつもりだ。腹が立って、その淡褐色の眼差しを睨みつけた。


「私、そんな名前じゃない!!」


 震えながら、目の前の人に向かって喚く。


「私はアンケセナーメンなんかじゃない!誰よ、それ!!知らないわ!」


 私の怒鳴り声に、相手は一瞬目を見開いた。周りにいた女の人たちも小さな悲鳴を上げる。


「私は工藤弘子!!日本生まれでエジプト在住、医学を学ぶ学生よ!!アンケセナーメンの甦りとか言ってるけれど、私は知らない!」


 褐色の腕を振り払い、視界が涙で滲むのを堪えて喚いた。


「私は弘子よ!それ以外の何者でもない!」


 私の名前は弘子だ。アンケセナーメンなんて変な名前じゃない。この人は人違いをしているだけなのだ。


「戯言を」


 彼は鼻を鳴らして冷笑する。


「幼い私に戯言を申すなと言ったお前が私に戯言か。聞いて呆れるな」

「た、戯言なんかじゃ」


 あまりに冷淡に笑われるものだから、言葉が濁った。


「ほどほどにしておけ。もう一度死にたいのか」


 冷たい目にぞっとして口を噤んだその瞬間、腕がすばやく伸びてきた。

 褐色の腕が絡みついて、私の腰を捕える。知らない感触にびくりと身体が固まった。


「や、やだ!!」


 腰に回る力に鳥肌が立つ。


「宴に向かう!」

「はっ!」


 乱暴に抱き寄せられた形で私は前へと進み出す。


「は、放して!嫌よ!私行かない!!触らないで!!セクハラ!」


 鞄を片腕に抱きしめ、もう片方で必死にその人の胸を叩くのに、びくともしない。強引に抱え込まれたまま知らない部屋へ続く道を行く。


「あなた何なのよ!!何だって言うのよ!!」


 勇まし過ぎるくらいの胸板をばんばん叩いて訴えた。

 どこに連れて行かれるのだろう。この人は誰なのだろう。もう、何が何だか分からない。疑問だらけで頭が爆発してしまいそうだ。


「黙れ。これ以上逆らえば無事に済むと思うな」


 獣のような淡褐色が動いて、私を捉える。その鋭さに一瞬竦みながらも、もう一度口を開いた。


「……こ、殺せるものならやってみなさいよ!でもそんなことしたらあなたは一生牢屋の中ですからね!」


 意味が分からないというように、その人は眉間に皺を寄せて私を見つめた。相手の眉間の皺が深い。


「分かってる?人の命を奪うことはいけないことなの!殺すと脅すことも!!そこら辺の小さな子供だって知っていることよ!」


 淡褐色が怒りに燃えたのを見た。恐怖が走ったと同時に、身体に巻き付いた腕が、呼吸さえできないくらい、腰を、身体を締め付けていた。


「や、やめ……」


 圧迫に、ぎりぎりと骨が悲鳴を上げる。そして目の前に浮かぶ彼は怒りを宿した声を発した。


「お前は私が呼び寄せた!ラーに祈り、オシリスに問いかけ、お前をこの世界に甦らせたのはこの私だ!お前も私の声に答えた、そうだろう!」


 意味が分からなかった。何を言われているのか、さっぱりと言っていいほどに理解できない。

 確かに、私はこの人に呼び寄せられた。それは声を聞いていれば分かる。その声を聞いて、あの黄金の中に引きずり込まれたんだから。そしてそれをこの人も認めている。でも、私は弘子であって彼が何度も叫ぶアンケセナーメンじゃない。

 絞り出す声も、微かにしか聞こえない。朦朧としてきて、頭さえ回らなくなってくる。


「歯向かうならば殺す。私が掟だ。すべてだ。……一度死んで愚者なったな、アンケセナーメン。以前はもっと賢かった」


 どうしてこんな目に合わなければならないのか。

 ここがどこなのかも、この人が誰なのかも分からないのに、何でこんな目に合わなければならないのか。貶されなければならないのか。

 苦しくて、苦しくて、抗う力さえもなくなってきた頃、声が聞こえた。


「ファラオ!」


 誰かがやってきて彼の意識が相手に移ったのか、やっと身体に巻きつく力が緩んだ。


「セテム、どうした」


 ゴホゴホと咳をしながら顔をあげると、真面目そうな顔をした人が立っていた。見た感じでは私と同い年ほどで、セテムと呼ばれたその人は恭しく頭を下げる。


「宴の席に神官、大臣、貴族の皆さまがお集まりになりました」

「すぐに向かう」


 抗う気力さえ残っていない私は抱かれたまま、知らない部屋に向かっているのをぼんやりと感じていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る