第1話

 夢であると思っていた血が、斑点に自分の手を汚していることを知る。現の中、自分の鼻から垂れる血を、細い指で拭った。羚はそうして、寝ぼけた眼を血で汚した。


「羚? 起きてる?」


 一言、あいが言った。彼女は少女らしい可愛げな声を鳴らす。扉の向こう、ベットの惨状を知らぬ彼女が、ドアノブに手をかけた音が聞こえた。


「もう、勝手に入るよ――――えっ」


 時間差を置いて、彼女は羚の顔を見ると、小さく悲鳴を上げる。羚はそんな彼女の青ざめた顔を見て、にっこりと微笑む。言葉を置いて、首を傾げた。


「やあ、愛」


 いつも通りの朝を装って、羚は未だ垂れ続ける鼻血を掌で受け止め、扉までを歩く。愛の赤い瞳と、流れる金糸に向かう。


「――――!」


 いつもは明るく返してくれる愛は、引きつった笑みで、羚を両手で拒絶した。きょとんとしながら立ち止まる羚に、愛は叫ぶ。


「母さん! 羚が血だらけ! 死んじゃう!」


 バタバタと足音を立てて、母の元へ走り行く彼女の背を、羚は見て、微笑んでいた。臓腑が痛むわけでも、吐き気をも要しているわけでもない。要は、ただ、鼻血がだくだくと出続けているだけである。

 羚は一般的な同年代、否、人々とは少し違い、何処か、感覚と思考が、常日頃鈍い所がある。特に苦痛に対して、非常に鈍感であった。周りが思っていることを察する能力にも欠落があると言われて、定期的にケア施設に通った。

 ただ、これは生まれついてではなく、医者が言うには、彼が三年程前に遭った、交通事故に起因するという。


 ふと、羚は部屋の隅に飾った、一輪挿しの造花と、その隣にある写真を見た。そこには、六歳程の羚と、その母である稲荷山いなりやま輝夜かぐやが写っている。これを撮ったのは、羚の小学校の入学式の時である。それから一年と半分が経ったくらいの時、羚の七歳の誕生日、羚と輝夜は、自宅近くで大規模な交通事故に巻き込まれている。

 当時の記憶が無い羚には、その時何があったかは分からない。だが、母の葬儀に出て、周囲の話から、自分が親族の一人もいない天涯孤独の身であり、遺産の一つも持たない、育てても利益の一つもない子供であるということは知っていた。

 その羚を私が育てると、身を挺して拾い上げてくれたのが、輝夜の友人である柳沢やなぎさわ玲子れいこである。彼女は夫と離婚し、二人の子を育てるシングルマザーであるが、それと同時に、芸歴三十年という女優であり、羚を拾い上げたのも、世間からの声を求めてではないかと、当初は言われていた。

 ただ、共に暮らして三年経つ今では、羚自身の目にはそんな玲子の考えなど見られず、寧ろ、親友の形見として心底大切にされていることが、何となくわかっていた。そんな玲子の娘である愛は、羚と同じ日に生まれたということもあって、生まれた時からの付き合いがあり、今では、羚に世話を焼く、幼馴染以上の関係であった。


 その愛の出す騒ぎに、玲子より先に、愛の八歳上の兄、想夜そうやが駆けてくる。文系大学生らしい、それなりに華奢な体つきだが、その体重に、廊下には足音が響いた。


「うっわ、羚、どうした、寝不足か」


 彼の赤い瞳が丸く輝く。愛と似たそれは、的確に羚を捉えて、驚きを隠さなかった。


「わかんない」


 無邪気にそう答える彼に、少し呆れた表情になった想夜は、やれやれと言った顔で、羚にティッシュペーパーの束を押し付ける。


「上の服脱いで、止まるまで押さえてろ。布団は俺が片付けておいてやるから、リビングで座っててくれ」


 想夜の言葉に頷いて、羚はガっと服を脱ぎ捨てる。上半身を肌着だけにすると、薄い紙を大量に顔に持って、歩き出した。

 頭は痛くは無い。フラフラするのは寝起きだからである。廊下を歩いていると、騒ぎを聞きつけた玲子が、羚がリビングに達する直前で、羚の肩を持って迫った。


「ちょっと羚君! 大丈夫!?」


 若々しい女声で、前の見えにくい羚の目の前を陣取る。羚はその彼女を見て、ふがふがと鼻を鳴らした。


「ごめんね。寝不足だね。昨日は収録あったから遅くなっちゃったからね、もう少し寝てても良いのよ。神社は明日もやってるから」


 羚の頭を撫でつけると、そんな弱々しい演技染みた言葉を玲子は吐いた。その美貌故、彼女がすることは全てが演技にも見える。しかし、それが本心であることは理解していた。


「ううん、もう目が覚めてるし、ちゃんと命日にお参りしたいから、血が止まったらもう行きたいな」


 そう言って、羚は紙の束を一度下げて、玲子に笑いかける。

 羚が寝不足だなんだと言われているのは、今日が新年一日目であり、昨日が大晦日であったからだ。玲子は生放送のテレビ番組の収録で遅くまで帰らず、子供三人はそれを待って随分遅くまで待っていた。大学生である想夜はまだ大丈夫だったが、年越しと共に齢十つとなった羚と愛の方は、どうもそうとはいかなかった。玲子が帰って来た頃には、二人は眠そうにリビングの机に突っ伏して、何とかカフェオレの僅かなカフェインで目を覚ましていた状態であった。それを見て、神社への初詣を、一度眠った、一月一日の昼にしたのである。


「……そうね、じゃあ、血が止まったら言ってちょうだいね。私、お化粧直して来るわ」


 玲子が少し悲しそうにそう言った。羚の命日という言葉に、反応したのだろう。羚と愛の誕生日である今日は、玲子の親友で、羚の母親である輝夜の命日でもある。身寄りのない彼女は、生前からの希望で神社で葬儀を行い、神社の傍の霊園に眠っている。柳沢家と羚にとっての初詣は、法事のようなそれも兼ねていた。


「母さん、今日クリーニングやってないから、羚の布団、風呂場で水に漬けとくから。帰ってきたら忘れないでね」


 羚の部屋からひょっこりと出てきた想夜が、向かう玲子にそう言った。


「はーい。お兄ちゃんよろしくねー」


 あまり家事能力のない玲子は、自分で凡そのことが出来る想夜に、洗濯等を任せ、自室での化粧に勤しむ。若干の溜息を吐いて、想夜は巻いた布団を風呂場まで運んだ。

 そんな様子を見ていると、リビングの扉が開き、愛がその隙間から羚を見ている。羚はそれを見て微笑んで、紙の束を顔から外した。


「愛、もうすぐ神社に行けるよ。待っててね。おせち、早く食べたいね」


 散文的に話す羚に、愛はぶすっと頬を膨らませる。


「そんなの良いから、早く血を止めなさい」

「もう止まるよ。大丈夫だよ、愛」


 心配しなくても良いよ、と、羚が付け足すと、愛は羚の片手を取って、リビングのテレビの前まで歩いた。広いリビングには、ふかふかの敷物と、クッション、大きなテレビがある。羚は点いていたチャンネルの様子を見て、笑む。


「今年はニュースをいっぱいやってるんだね」


 新年おめでとうございますという掛け声は、あまり聞こえない。そこにあるのは、騒々しいニュース速報ばかりである。


「日本刀と銃で人が殺されて、毒ガスが撒かれて、建物全部爆発したんだって、近所の駅前のデパート」


 キッチンで一人、ホットミルクを用意する愛が淡々とそう言った。


「凄い、外国の映画みたいだね」


 羚は鼻に紙を詰めて、そう笑う。それは酷く他人事で、さもどうでも良いようであった。


「あ、犯人逃げたって。死体の中、頭潰されちゃったのもいっぱいいたってさ」


 テレビの流れる情報の波を、羚は反芻する。少し、クスっと笑ったようにも見える。愛はレンジをチンと鳴らして、温まったミルクを机に置いた。コトンと音がして、羚はその傍の椅子に座る。


「あ、鼻血、止まったみたい」


 独り言のように、羚はそんな事を言って、笑う。血だらけの羚の顔を見た愛も、目を細めて、カップの中の熱い牛乳を飲んだ。家の周りで、消防車と、パトカーと、救急車の音が鳴っている。きっと、駅前のデパートに行くんだと、羚と愛にはわかっていた。

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