四 彼女の後ろ姿

「はっ、はぁっ、はあっ、はぁ……」

 目を覚ますと、何故か部屋にいた。自室のベッドの上。あれ、さっきまでリビングにいなかったっけか。記憶が曖昧だ。俺は今まで何してたんだ、どれくらい寝てたんだ、というかさっき見ていたのは夢? なんか大事な夢だった気がするんだけど一部が上手く思い出せない。そして名前はやっぱり思い出せない。勉強机の上の壁に掛かっている時計を見ると、時刻は七時半。朝、か?

 コンコンコン。控えめに鳴らされたノック音とともに母さんが入ってくる。

「あれ、目覚ました! だ、大丈夫なの?!」

「……大丈夫って、何が?」

「あんた、昨日の夜あのあと熱出して倒れたのよ。八度くらい」

 え、マジか。なんも覚えてないんだけど……。父さんと話したくなかったのしか覚えてないんだけどな。そんだけストレスだったってことか。我ながらやばいと思う。

「あ、そう、それでお父さんには言っといたから。信じては無いみたいだったけど、お前の負担になるならもう話しかけない、だってさ」

 意外。病院に連れてくとかするんだと思ってた。自分が正しいと信じて疑わない人だからこそ、俺の言うことには耳を傾けもせず、問答無用に精神科とか連れてかれるんだと思ってた。

「昨日は熱出してるし、言攫の雨のこともあるから今日はもう休みなさい。学校には連絡しておいたから」

「ありがと……アッ、そうだ、母さん、名前を思い出す手がかりが分かった!」

 そう、今思い出した、夢の内容を。俺はあの場所に行ってあの子を探しに行かなきゃいけない。

「ほ、本当に……? 危なくはないんでしょうね?」

「危なくはない、多分。俺が変なことしなきゃ大丈夫だと思う。だから、行ってくる」

「待ちなさい、熱あったんだから、行くにしても明日にしなさい」

 母さんがこんな真剣な顔をして怒るのも珍しい。だからこそ反抗は出来なかった。

 俺はその日は大人しく寝て、日が変わるのを今か今かと待ち続けたのだった。


 ***


 一日が経過した。現在午前10時。日が高くなってきて暑くなってきた。気温は27度。段々と秋の空気になってきているのだろうか。まだまだ暑いは暑いけれども。そして俺が今歩いているのは、夢の中でお姉さんに手を引かれて登ったあの山の森林公園。よくよく考えると年上のお姉さんにこの歳で手を引かれてたってのは衝撃的。恥ずか死ぬわ。

 それにしても……、スニーカーで歩いても結構しんどいのに、夢の中で彼女はローファーで歩いてたんだから驚く。Tシャツが肌に張り付く、湿度が高い。登れば登るほど、不快感と恐怖が増していくのは何故だろう。段々と霧が山を覆ってきたように思う。あれ、これ雨降るのか? 折りたたみは持ってきているけれど……ちょっとヤバイかもしれない。というか今は少し雨がトラウマになりつつあるから、もう今日は諦めて帰ろう。そういう訳で、俺は来た道を戻る。中腹の公園の広場まで出てしまえばそこからバスが出ている筈だ。とにかく、中腹を目指さなければ。

 俺は急ぐ。走って走って走って……そして足がもつれて転んだ。いってぇ。誰も見ていなかったから良かったものの、クラスメイトなんかに見られた日には終わりだな、なんて。そんな事を考えていないとまた一昨日のように、恐怖に埋め尽くされて震えが止まらなくなりそうなのだ。今にも雨が降り出しそうに重たい色に染まった雲が迫ってくる。急げ、雨が降る前に!

 なんとか雨が降り出す前にバスに乗り込むことが出来た。しかし――、このバスは家の方へは行かない。家の最寄り駅の方でもなく、隣町に出る。そこは昔俺が幼い頃に住んでいた場所だ。懐かしい気がする。引越しをしたのは小学生になる前だったか。住んでいた団地が劣化で壊されるとのことで、引越しを余儀なくされた。当時妹が産まれたばかり。将来二人とも大きくなったら狭くて生活出来なくなる、というのもあって、祖母の住む隣町へと引っ越すことになったのだ。小さい頃しか住んでいなかったけど俺にとっては大事な場所で、なんだか懐かしいと思う。

 ――それにしても、なんで大事な場所なんだったか。あまり覚えていない。これももしかして雨に流されたのか? 一種の記憶喪失のようでもあり、神隠しのようだとも思う。記憶の神隠し。なんだか不気味だけれどないとは言い切れない。そもそもこんなこと、誰が信じるってんだよ。名前なんて忘れないだろ普通。精神的な問題だとかで片付けられたくない。誰かのせいにしていないと自分を保っていられない。名前が失くなるというだけでこんなにも不安定になるのか。俺はここまで弱い奴だと思ってなかったぞ。

 バスは昔住んでいた家の近くの駅に停車した。ここからだと……電車で5駅くらいで家かな。一応お金はそこそこ持ってきているから普通に帰れる筈だ。きっと大丈夫。雨が降りそうなのは変わらない。でも少し――魔が差したんだ。少し駅のまわりを見て歩きたくなった。まぁ雨が降ってくる前に帰ってくれば大丈夫だろう。

 駅の周辺はガラリと変わった。それもそうか。あれから10年以上は経ってるもんな。そりゃ変わる筈だ。ド田舎で何もなかった駅前にいくつか店が出来ている。わざわざここまで来たいと思えるほどではないが、近くに住んでいたら使いやすいんだろうなぁ、という店の数々。変わったなぁ。しかし、裏の商店街の方はほとんど変わっていない。それがなんだか落ち着きをもたらしてくれる。商店街の中心に遊具が少しあって、小さい頃はそこでよく遊んだ。誰と遊んだかは忘れてしまったけれど、俺はこの遊具から落ちて怪我したりもしたなぁ。懐かしい。

 しかし、湿度はどんどん上がっていく。雲の色もどんどん黒に近付いていっている。これはそろそろ帰らねば。駅前までは五分くらいで戻れるだろうと思った次の瞬間、一昨日のような激しい雨が降り出した。傘傘傘! リュックの中をゴソゴソと探る。でも傘は出てこない。もういい、パーカー被って走ろう! バシャバシャと出来ていく水溜りを蹴散らし、スニーカーはビチャビチャになるけど構わず走った。走ってなんとか駅前の交差点まで戻ってきた。ああ、はやく信号よ変わってくれ。この前も赤信号で待っていた時に降られたんだ。思い出すだろう?

 その時俺は、赤信号の反射する先――交差点の向こう側に、どこかで見たことのある真っ黒のセーラー服を見付けた。あ、あれは! セーラー服の少女はどんどん遠ざかってゆく。

「待て!」

 赤が青になった瞬間、走って彼女を追いかけたんだ。何処だ此処。小さい頃に来たことがある気がするけれど、この辺はあまり来ていない筈。知らない道を走っている。彼女は50mくらい先を走ってるけれど、その距離は中々縮まらない。

 住宅街を抜けて、一気に視界が開けたとき、俺がいたのは懐かしいと感じる川沿いだった。くるり、と黒セーラーの彼女は振り返る。

「久しぶり、だね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る