2 魔法使い

 自然に彼女といるようになった。最初は煩わしく感じていたが、勝手についてくるぶんには口出しをしなかった。そのうち、不思議と今までの嫌な気持ちがどんどん消えていった。理由の一つは、彼女との成績競争に対して諦めがついたことだ。

 彼女は授業中碌にノートを取らなくても、内容を大方記憶できるという。実際にノートを見せてもらったが、板書を写していない部分がちらほら見られただけでなく、隅っこは花や鳥の落書きでいっぱいだった。もちろん授業で教わった部分を塾で補っているかもしれない。それでも、私を競争相手として考えてもいない彼女に対抗心を燃やすのは馬鹿げているように感じた。

「あんたって天才だよね」

 ノートを読み終わって、ため息をつきながら彼女に返したことを覚えている。

「どうして?」

 彼女は憎らしくも、無邪気に首を傾げて私に聞いた。無論私は答えなかった。


 高一の夏、期末試験を受けたあと彼女と共に帰り道を歩いた。と言っても、彼女が勝手についてきただけだが。猛暑で汗だくになりながら、私たちは駅に向かった。駅の真正面には涼しそうなカフェがあり、ドアの横に季節限定のアイスを紹介する看板が立てられていた。

「アイス奢るよ」

 暑さにやられたのか、試験からの解放感で頭がおかしくなったのか、言葉が脳を経由せずに言い放たれる。

「え?」

 いつもは彼女に対して関心がなさそうな私がいきなり奢るなんて言い出したから、さすがの彼女も足を止めて、横にいる私を驚いた表情で見た。

 自分でもびっくりした。確かに期末試験が終わったから、自分へのご褒美を買おうとは考えていたが、彼女のぶんまで買う義理がない。彼女の存在は私にとって友達から程遠いちっぽけなものであるはずだ。彼女を喜ばせる必要性が全くなかった。

 何秒かの沈黙を経て、彼女は嬉しそうに笑った。その髪を耳に掛けながら、

「お金はいいの。一緒に行こう!」

 と私の腕を引っ張って、カフェに向かう。私は腕を引っ込めようとしたが、彼女の握る力が強くて、結局そのままカフェの中に連れていかれた。

 彼女はホワイトチョコ、私はストロベリーのフレーバー。二階の窓側に向かい合って座った。

「趣味が案外女の子なのね」

 私のピンク色のアイスを見て、彼女はいたずらっぽい笑顔になった。

「味が好きなだけだし、女の子とか関係ないじゃん」

 私はスプーンでアイスを掬って口の中に入れながら、反論する。彼女はまだニヤニヤしている。

「友達と食事するのは初めてでしょう?」

 テーブルに手をついて、失礼な質問をしてくる。私はきょとんとした。図星だから。いや、彼女は友達ではないので、図星ではないけれど。

「いつあんたと友達になったの?」

 トゲトゲしく反応すると、彼女はアイスを一口食べてから目をぱちぱちさせて、

「じゃあ、今から友達になろう?」

 と言った。

「そうやって友達になるもんなの?」

「あなたの場合は正式にアポイントメントでも取らないと、なってくれそうにないからね」

 てへへと笑う彼女に対して、私は大きなため息をついた。アポイントメントを取ったところで、彼女が特別な存在になる訳がないからだ。


 夏休みのある日、私と彼女はT大のオープンキャンパスに参加した。もちろん誘ったのは彼女だ。私を外に引っ張り出す理由として、このチョイスはうまいと思う。もしこれがショッピングとか遊園地とかなら、私は即時に断っていただろう。

 敷地内、生い茂る木々の間から青空が覗く。風が吹くと木漏れ日の模様が地面に波打ち、その上を彼女は軽やかなステップを踏んで歩いていく。人と人の間をうまくすり抜けて、彼女の後ろについていきながら、珍しく私から話し掛けた。

「そういえば、あんたは何学部志望?」

「私?」

 彼女は振り返って、拍子抜けした顔で私を見上げた。私は頷いた。

「あんたの成績なら医学部も簡単でしょう?」

「うーん。あなたは?」

「法学部。研究もこの分野だし」

 私の発言を聞いた彼女は無言で、じっと私の瞳に視線を定めた。彼女に見つめられるのは居心地悪い。自分が見下されているような感覚になる。顔が無駄に綺麗だから、なおさら劣等感を覚える。目を逸らした。すると突然、彼女は小さな声で呟いた。

「だったら、私も法学部に入ろうかな」

「は?」

 私は立ち止まって、肩くらいにある彼女の顔に再び視線を戻した。

「いや、決めていなかったの? 候補も?」

「うん。特に興味がある学問がないの。だから、あなたみたいに一生懸命になれるのは羨ましいよ」

 彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。きっと私を褒めたつもりなのだろう。しかし、彼女の言葉は私の胸の奥底に突き刺さった。口が先走る。

「違う」

 私はぶんぶん頭を振った。初めて彼女にこんな大袈裟なリアクションをしたと思う。

「私は別に、法学が好きだからじゃ……」

 途中まで言って、口をつぐむ。これ以上私の本心を他人に見せるのが怖くなった。私は顔を素早く彼女から背けた。何でもない、と言って、波模様の木漏れ日に向かって再び歩き出す。

 幸い、彼女は余計な詮索をしなかった。


 二人で法学部の模擬授業を聞いたあと、大学を一通り回った。何よりも気になるのが、荘厳な雰囲気を醸し出す広く美しい図書館だった。中に足を踏み入れると、洋風の壁に沿って本棚がずしりと並ぶ光景に目を奪われる。

 私は息を呑んだ。

「本、読むのが好きなの?」

 彼女はそんな私の様子を見て、聞く。

「本を読む習慣はない。すごく綺麗だから驚いているだけ」

「うん、綺麗だね」

 彼女も静かに図書館を見渡した。大学の入り口あたりと違ってそこまで人が集まっていないため、日常風景に近い光景だった。大学生たちがランプの側で勉強していて、空間全体が外の喧騒から隔絶されている。

 しばらく呆然と立ち尽くして図書館の一部となっていた私たちだが、やがて踵を返し、扉から出ていった。

「ここにどうしても入りたくなったな」

 ぼそりと呟く。

「綺麗なものに弱いのね」

 彼女は愛嬌のある笑顔を私に見せた。あながち間違いではないので、まあね、と小声で答える。

 校門を出たあと、私たちはドリンクを買って、近くの公園のベンチに腰掛けた。彼女はストローでホワイトモカを少しずつ啜る。前回のアイスに引き続き、今回もホワイトチョコのフレーバーだ。

「ホワイトチョコ甘くない?」

 私はホワイトチョコが苦手なので、眉をひそめて聞いた。

「甘い」

 当たり前の返答だった。

 私たちは木陰で風に吹かれながら、光と影に彩られた向こう側の商店街を眺めていた。セミの鳴き声がする。夏を告げる心地いい音だった。手に持ったカフェラテをストローで掻き混ぜていると、私は突如話の続きをしようと思った。話というのは、模擬授業の前にした、法学部を志望している話だ。となりに座る彼女の顔を見た。彼女は私の視線に対して首を傾げた。

 私は本心をさらけ出すことがとても怖いけれど、何だか話さなければいけないような義務感が胸のどこかにあった。背中の上に堆積していった重みを、誰かに取り除いてほしいのかもしれない。彼女に軽蔑されることも耐え難いが、この場で護身のためにつけていた仮面を――何にも興味がなく、人に冷たく当たり、捻くれたことしか言わない自分を――維持する方が嫌だと感じた。

「私は、別に法学が好きだから法学部を志望した訳じゃないんだよね」

 彼女はストローでモカを吸い上げて、動じずに私の話を聞いた。微風は彼女のサラサラした黒髪を揺らす。

「小さい頃から、大手企業の顧問弁護士になるように言われてきた。自分は別に勉強が好きな訳でも、研究が好きな訳でもなくて、ただそうすると親と先生が喜ぶから、その通りにしてきた」

 今まで固く閉ざした栓を久々に回したからか、色々な感情が一気に込み上げてくる。私は、特に親しくもない他人にそんな身の上話をする自分が気持ち悪い。なのに、素直な気持ちが口からポロポロとこぼれ落ちていく。

「全部褒めてもらいたくてやってる訳で。ほら、私って嫌な性格してるじゃん? だから人に好かれることがあんまなくてさ」

 私は他人に話すのに適切な部分だけを取り出すように制御を試みたが、全部さらけ出したいと願う心には抗えなかった。だから、彼女に聞かれてもいいような軽い口調を心掛けた。何の重みもなく、簡単に流されて、どれだけ記憶力に優れた彼女でも忘れてしまうほどの。

 彼女の顔を見る勇気がない。困らせてしまったかもしれない。大して仲よくもない人間にいきなり打ち明けられたところで、返す言葉がないのは当たり前なんだ。それでも私は彼女に聞かずにはいられなかった。私なりに、縋りたいものがそこにあったのだと思う。

「何で、私と友達になろうとしたの?」

 質問が口から滑り落ちたとたん、確実に黒歴史になるだろうな、と背筋がゾッとした。

 静寂が訪れる。いや、セミがミンミンミンミンとうるさく鳴いているけれど。そんなにうるさく鳴くのなら、私の声を覆い被せて、誰にも聞こえなくしてしまえ。妙な間を空けないでほしい。早く、何か言ってほしい。できれば私を嘲笑って、気持ち悪いと蔑んでほしい。人に好かれたいという願いを、ボロボロになるまで踏みにじってほしい。そうしたら、またいつものように仮面をつけて生きていくことができる。私はこんな惨めな気分にならなくて済むのに。

 耐え切れず、顔を上げて横にいる彼女の表情を見た。その顔つきを知った瞬間、私はまるで解析でもされているかのような息苦しい感覚になる。彼女の瞳は深い。神妙な表情から、感情が読み取れない。どうして何も答えてくれない。どうぞ笑ってよ、と皮肉めいた言葉を放とうとした。しかし、口を開く前に、彼女の声がしたのだ。

「私はあなたのことがすごく好きだよ」

 彼女は微笑んだ。とても自然で、慈悲深さを人に感じさせるような微笑み方だった。

「頑張り屋で、ツンツンしているけど優しくて、すごくかわいい」

 呆気に取られた私などお構いなしに、彼女は怒涛の勢いでペラペラしゃべり始める。

「そう、しかもしっかりしているからお姉さんにほしいの! でも、何だか世話焼きたい気分にもなっちゃう。うんうん、これから時間があったら一緒に渋谷に行かない? かわいい服選ぼう。それで、代官山のカフェでケーキを食べよう。そう、あそこの本屋さんすごく素敵なの。もし今日まるごと暇だったら、夜もうちに遊びに来て! 誰もいないから、おやつ食べながら音楽とか聴こう! あっ」

 呆然と彼女を眺める私にやっと気づいたのか、彼女は突如口を止めた。私は固まったままだった。何秒か互いの顔を見合ったあと、彼女は髪を耳に掛けながら、てへへと恥ずかしそうに俯いた。

「ごめんね、つい興奮しちゃって。話してくれてよかった、だって私、前からすごく友達になりたかったんだもん。えっと、何で友達になるかって話だっけ? うん、だって気が合うって直感で思ったの! ……迷惑?」

 小声で、彼女は私を見上げて聞く。不思議な気分。いつも劣等感を覚えてしまうその顔を初めて素直に純粋に、綺麗、と思えた。私は今までの自分がとても馬鹿らしくなった。同時に、胸の中が清々しくて爽やかで、ワクワクしているのを見つけた。こんな自分は初めてだ。でも、不思議なことに、彼女が差し伸べてきた手を取るのに迷いがない。

 私は立ち上がる。そして、今まで誰にも掛けたことのない言葉を口にする。

「遊びに行く?」

 彼女は目を見開いた。私は恥ずかしさを我慢して、言ってみる。

「めっちゃ暇だから。服選ぶんでしょ?」

 彼女はぽけーと私を見上げていたが、やっと状況を飲み込んだのか、強く明るくうんと首を縦に振った。


 結局彼女の家には上がらなかったが、渋谷で洋服を選び合ったあと、代官山のカフェでケーキを食べて、素敵な本屋で雑誌を語り合った。彼女と駅で別れたとき、人生で初めて誰かと次のお出掛けを約束しながら大きく手を振った。あのときの、胸に充満した温かい気持ちを鮮明に思い出せる。私はその日明るい私になれた気がする。友達ができた気がする。

 思えば簡単な話だったのに、どうして自分は思い悩んでいたのだろう。私は彼女が掛けてくれた言葉が嬉しかったのだと思う。まるで魔法みたいだった。こんな私を好きでいてくれる人が存在するなんて。もしこれが魔法なら、彼女は私を牢屋の外に出してくれた魔法使いだ。

 だから、私は嫌悪していたはずの彼女が、周りの誰よりも輝いて見えるようになった。

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