4 外出

 彼女を連れて、街灯が点き始めたばかりの街をゆっくりと歩いた。空は前月に比べ暗くなるのが早く、既に夜空手前の紺色になっていた。普段外に出ないぶん、彼女は街の景色に心が躍るようだ。

 パスタでいいか、と彼女に聞くと、大きくうんと頷かれた。彼女は水色の靴でステップを踏みながら前へ進む。今にも年幼い少女のようにぐるぐると回り出しそうだ。私は手をポケットに入れて、見守りつつ歩く。橙色の灯る商店街へ軽やかに向かう彼女の姿は、芸術作品からそのまま出てきたようだ。ああ、この瞬間、東京が薄暮れのウンテルデンリンデンになったみたい。

 冷たい空気の波が押し寄せて、沈んだ緑の枝葉を震わせる。夜風に吹かれて綺麗に乱れる髪を手ぐしで整えながら、彼女は目を細めた。

「寒いか?」

 彼女は少し肌寒いと答えたので、私はコートを脱いで彼女の肩に掛けた。ぎゅっと大きめなコートの前裾を掴む彼女。雪白なセーターと味気ない黒コートの組み合わせが違和感を醸し出している。私のコートの中で小さく縮こまる彼女の姿に、異様な満足感、所有欲が満たされる。彼女は私を見上げて、あったかい、と囁いた。

 レストランに着き、特に待ちもせずに席に案内された。肩を並べて、腰を下ろす。まだそう遅くないからだろう、小さい子連れの客がちらほらいるだけで、全体的にレストランは空いていた。

 メニューを渡された彼女の視線は、アラビアータとカルボナーラの間を泳ぐ。しばらく迷っていたようだが、

「決めた」

 と両手を合わせながら、弾む声で見上げてきた。私は待機していた店員に向かって小さく手を挙げた。先に彼女に注文させる。

「カルボナーラ一つお願いします」

 彼女は柔らかい微笑みを口元に浮かべた。店員はせっせとメモに注文を書いていく。それを待ってから、私は注文した。

「アラビアータ。あと、デザートのパンナコッタ一つ」

「デザートは単品でよろしいですか?」

「ええ」

 書き終わると、店員はメモとペンをポケットにしまい、この場から離れた。彼女は私の腕をちょこんとつつく。

「デザートを一緒に食べよう」

「君が食べればいい」

 私は彼女から目を逸らして、棚に収められたワインボトルを眺めた。少し間を置いてから、

「キザか?」

 と聞く。顔を彼女の方に戻すと、彼女は首を一生懸命横に振っていた。

「そんな訳ないじゃない。優しい人ね」

 彼女は口角を上げる。ちぐはぐに傷口を縫い止められた彼女の唇を見て、押し黙ろうとした。しかし、許されないと分かっていながら、やはり先程の発言が気になる。

「優しいって、正気か?」

「至極正気よ」

「それじゃあ、もうとっくに正気じゃないでしょう」

 私は自嘲気味に、正気じゃない人は一人で十分だ、と呟いた。いいや、むしろ私は至極正気なのかもしれないね、とも言った。

 彼女はちょっと悲しそうな顔をした。

「あなたはどうして自分を低く評価するの」

 その声は微かに震えていた。


 パスタを待っている間、私はもごもごと大学の講義や出来事を彼女に話した。自分から話題を提供するのは、何だか照れ臭い。彼女は持ち前の相づちを打ちながら、時々質問をしたりして、にこにこと私の話を聞いてくれた。恋人との食事で押しつけ憲法論の是非を語るのは我ながらどうかと思うが、口下手な私を受け入れて、気にする様子がかけらもなかった。

 授業を受けていないはずなのに、彼女は法学に造詣深い。昔に読んだ書籍に書いてあったと本人は言っているが、ピンポイントで核心を突く彼女に、私はまたもや天才という言葉を思い出した。

 カルボナーラが来るまでずっと話していた。こんなに喋るのは久しぶりだ。彼女は嬉しそうな面持ちをしている。心を開いて話すのが苦手なぶん、嬉々として耳を傾けてくれる人がいるなんて、妙な気分になる。とっくに道から外れた自分でも、やり直せるんじゃないかとさえ感じてくる。変な期待はよくない、と自分を心の中で戒めた。しかし、それでも私は可能性を見出さずにはいられなかった。

 アラビアータも来た。好きなだけ食べていいよ、と彼女の前に差し出す。

「じゃあ、少しだけ交換しよう」

 彼女もカルボナーラを私の前に置く。当人は考えてもいないだろうけれど、彼女が口につけたパスタを食べることに、邪な感情は確かにあった。実際、元の味より何倍もおいしく感じてしまう。そんな自分が気持ち悪くて仕方ない。もっとたくさん気持ち悪いことをしてきたのに、と心の中で自嘲するしかなかった。

 彼女はおいしそうにアラビアータを食べている。口周りに赤いソースがつくのを眺めては、ペーパーナプキンで拭いてあげた。彼女は割りと多くアラビアータを食べた。その遠慮しない態度を嬉しく感じる。同時に、私が望んでいることを見通してこなす彼女に対して、胸の奥がじんと痛む。既に手綱を握っているのだから、彼女は私を手中に収めることに尽力しなくていい。それを彼女も分かっているはずなのだが、きっとその習慣を止めることができないのだろう。

 二人ともパスタを食べ終わった頃、パンナコッタが出された。彼女はデザートを見て、ぱあと笑顔を咲かせる。彼女以外の人間を「馬鹿馬鹿しい、誰にもいい顔をする」と見下してきたが、私の感性は彼女だけを贔屓してしまうようだ。喜ぶ横顔を素直に、かわいい、と思った。

 このとき、

「あーん」

 パンナコッタを掬い取ったスプーンが突如私に差し出される。目の前は、太陽のような笑顔。私は焦って周りを見渡した。人がどんどん増えていって、先程までぼうと立っていた店員も今は忙しそうに歩き回っている。

「君だけが食べればいい、人目につく」

 私の反応に対して、彼女は小犬のようにしゅんとした。

「どうしてもダメ?」

「そりゃ」

「どうして?」

 こう言われては拒絶しづらいので、

「じゃあ、普通にスプーンを渡して」

 と彼女に指示した。まだ反抗されると考えたが、意外にも、素直にスプーンを私に握らせてくれた。食器に張りついたままの体温が手に触れ、胸が鳴る。

 私はスプーンを口の中へ運んだ。濃厚な牛乳の香りが一気に広がる。正直全部食べてしまいたいくらいだが、この気持ちを顔に出さないよう我慢して、パンナコッタを彼女に返した。まるで子リスのように、大切そうに一口、一口とパンナコッタを食べていく姿。富裕な家庭でも食べ慣れてはいないのか、と頬杖をつきながら彼女を観察した。

 彼女は食べるのが下手みたいだ。またもや白い物体が口の周りについたので、私は新しいペーパーナプキンを引き出してパンナコッタを拭いてあげた。滑らかな黒髪を耳に掛ける彼女は、恥ずかしそうにてへへとごまかし笑いをした。

「これから寄りたいところがあるんだけど、いい?」

 さりげなく聞いてみる。もちろん、断られる理由はなかった。

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