第4話 あめおとこ

 仕事を終えてさあ帰ろうとしたときに窓の外を見ると、ぱらぱらと雨が降っていた。


「げっ」


 思わず窓にへばりつく。まだ大雨ではないが、雲の様子を見るに通り雨ではなさそうだ。

 折り畳み傘をロッカーに置いていたかもしれない、と一瞬思ったけれど、そういえば金曜に不意の雨に降られて折り畳み傘を使用して、そのまま自宅の玄関で開いて乾かして、今日持たずに出てきてしまった。

 油断した。

 会社から駅までは徒歩五分ほど。そして、自宅最寄り駅には駅ナカにコンビニがある。


「よし、走ろう」


 そう決めて、荷物をまとめて席を立つ。


「お疲れさまで~す」

「白石さん傘持ってんの?」

「走ります!」

「ええ~」


 同僚に笑われながら退勤する。

 月曜から雨に濡れるなんてこんな憂鬱、あるか?

 うんざりしながらエレベーターを待ちながらスマホを開く。このエレベーター、三基あるくせにビルが二十階建てのためなかなか来ないことで有名だ。

 玲生くんから鬼のようにラインが届いているが、全部既読無視している。なんか、この辺がわたしの弱さだよなあって思う。

 未読無視すればいいものを、ブロックすればいいものを、読んでいるよという態度だけはとっている。

 いずみくんはもともとまめなほうじゃないので、あまり連絡はこないが、やはりこれも既読無視している。

 二週間、シャントに行っていない。

 そんないずみくんから、今日はメッセージがきていた。


『雨降ってるけど』

『傘持ってるんですか』


 なにこのしょうもないメッセージ。

 わたしは小学生なのか? いったい何を心配されているんだ、三十路の女が、五歳年下の男に。

 そして実際わたしは傘を持っていない。なんだこのみじめさ。

 深々とため息をついて、二分くらい待ってようやくやってきたエレベーターに乗り込む。

 返信するべきかしないべきか、悩んだ。悩んだけど、今まで「今週来ませんでしたね」とかそういう系のを無視していたのをいきなり世間話だけ反応するのはちょっとな、と思ってやめた。

 スマホのへりを顎に当て、目を閉じる。

 このままふたりを無視していたってなんの根本解決にもならないことは分かり切っている。

 いつかは向き合わなくちゃいけない。このままうやむやにするのは、一番駄目だ。


「とは言っても~」


 ひとりぼっちなのをいいことに、下降していくエレベーターの中で頭を抱えてうだうだと身体を揺らす。

 今日は、珍しいことにどの階でも引っかからないで、一階までスルーで到着する。

 エレベーターを待って乗っている間に、雨脚は少し強まってしまったらしい。ガラス戸の向こう側はちょっとこのまま出て行くのをためらうレベルだった。

 とは言っても駅までの道にコンビニはなく、どうしようもない。


「……どうしよ」


 この雨に濡れたあとで電車に乗るのが耐えられん。しかし、このままここでうだうだしていたら、もっと雨脚は強まる可能性が高い。

 今しかない。

 そう決意して、ガラス戸をくぐった途端。


「やっぱ傘持ってないじゃん」

「…………なんでいるの」


 壁に寄り掛かってこちらを見ているのは、いずみくんだった。あきれたように顎を上げてこちらを見ている。


「今日シャント定休日なんで」

「いやそういうことじゃなくてさ」

「……二週間も顔出さずに、ラインも返事ないし」

「それは……」

「玲生に聞いたよ」


 軽くため息をついて、広げた大きな黒い傘でわたしの頭上を覆う。


「とりあえず話はあと。まさかと思うけど、ここまでさせて濡れて帰るつもりじゃないですよね?」


 いやさせても何もあなたが勝手にここに来たんじゃないですか。

 とは、もちろん言えないで、わたしはおとなしく傘の中に入ることにする。いずみくんと傘にふたりで入る気まずさと、びしょ濡れになって満員電車に乗って冷たい視線を浴びる気まずさを天秤にかけた瞬間、後者にものすごい勢いで傾いたので。

 男性の傘の中でも大きいサイズのそれの下で、それでも身を寄せて歩き出す。

 傘の中では相手の声が一番きれいに聞こえるって聞いたことあるなあ、とぼんやり思っていると、いずみくんが口火を切った。


「玲生に聞いた。七緒さん、またしょうもないことで悩んでんだって?」

「しょうもなくないし!」

「しょうもないことだよ。俺たちのことを中途半端にもてあそんでるのが忍びないだの言ってた、って。玲生から聞いた通りならな」

「……その認識で間違いございませんが……」


 いずみくんの声は普段から芯が太くよく通るが、今日は特にノートルダム大聖堂の鐘みたいによく届く。パリ行ったことないけど。

 わたしの声も、いずみくんにきれいに聞こえているんだろうかと、ふと思った。


「しょうもないことだ」

「だからさあ」

「俺たちが、自分で自分のケツも拭けねえお子さまだとでも思ってんのか?」

「……」


 いずみくんがその切れ長な目でちらりとわたしを流し見て、また逸らす。

 そういう言い方は狡いと思った。そして、その言い草こそこどもだと思った。


「あのねいずみくん、その言い方が、こどもなんだよ」

「……」

「きみたちのこと、自分で自分の責任を取れない馬鹿だとは思ってない。でも、ふたりがわたしに振り回されることをよしとしたところで、わたしの罪悪感はどうなる? そこまでの責任を、きみたちは取れるのか? 取れないよね?」

「…………」

「ふたりをフッたとしてもどうしたとしても、わたしには振り回してしまった罪悪感が残る。それは誰にも責任を取れない、わたしの問題だから。……だから、その罪悪感が大きくならないうちにふたりから離れるのは、駄目なことなのかな」


 頭の中を整理しながらしゃべっていて、ああそうか、と気づいてしまった。

 わたしはこの楽しくも後ろめたい状況から逃げたいのだ、と。

 三十歳になって、ふたりの男に求愛されて困っちゃう、うれしい、だけで終われないことに、気づいてしまった。

 これがわたしがハタチの頃なら今より罪悪感はぐっと小さかったはずだ。

 良くも悪くも、わたしは大人になってしまっている。


「…………七緒さんの言いたいことは分かりましたよ」

「……」

「たしかに、俺たちをどっちも選ばないとしても、どっちかを選ぶとしても、そりゃあひでえ罪悪感だとは思う」

「……」


 低い、落ち着いた声が、ぽつりぽつりと心のうちを吐露していく。


「でも、俺も玲生も、生半可な気持ちであんたを好きなわけじゃない。選ばれても選ばれなくても、後悔するような恋はしてない。もし選ばれなかったときに、無駄な時間を過ごしたなって思うような恋なら、とっくに手も出してる。チャンスは何度でもあったしな……」


 生々しいな。

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