第19話 会いたくなったよ

 ドアを開けると、先客がいた。


「七緒ちゃん」

「お疲れ様」

「いや、そっちこそ……」


 仕事を終えて来たらしい玲生くんがスーツ姿で、カウンター席に腰かけていずみくんと喋っている。なんせ今日は金曜日だ。それにしても、いくら立地が悪いからと言って金曜にこの客入りは、ない。


「ど、どうだった?」


 不安そうな顔で、玲生くんが聞いてくる。となりのスツールに腰かけて、いずみくんにベルベットハンマーを頼む。


「ねえ、七緒ちゃん」

「…………駄目だった」

「えっ」


 玲生くんといずみくんが、目を丸くして首を傾げた。それから、各々心配そうに身を乗り出してくる。


「……まともに話し合いにすらならなかった。なんかもう、いいやって思って、そのまま帰ってきちゃった」

「……」

「……七緒さんは、それでいいんですか?」


 いい、と言い切ってしまうには、生まれてから母親と過ごしていた三十年という時間をなかったことにするには、まだ、わたしは思い切れない。

 分かり合えないし、わたしのことを理解する気もないみたいだけど、大学進学まで一緒に暮らしてそれなりに仲の良かったはずの彼女を、簡単に切り捨てることはできないのだ。

 帰りの新幹線で、母親との思い出がたくさんたくさん、よみがえっては消えていった。

 ピアノを習っていて、アップライトピアノを買ってもらってそれで一生懸命練習していたこと。課題曲をきれいに弾きこなせるようになると、手放しで褒めてくれた。

 中学校三年生のときに父親の転勤が決まって、制服がかわいいからという理由で成績的に無茶をしようとした高校は受験することができなくなって、それでも転勤先で母親が、かわいい制服の高校を一生懸命探してくれた。

 いざこうして決別すると、いい思い出ばかり浮かぶなあ、としみじみ思う。

 寛人のときもそうなんだ。あんなにひどい別れ方をしたのに、思い出すのは楽しかったことばかり。

 人間の脳は、必要以上に傷つかないようにそういう仕組みになっているのかもしれなかった。


「よくは、ないけど……。……なんかさあ、お母さんがわたしのことを結婚させたいって思って説き伏せるのと同じようにさ、わたしだってわたしの気持ちを認めてもらいたくて必死になっちゃって、堂々巡りなの」


 いつかは分かり合えるのかもしれない。でもそれはきっと、今じゃない。もう、こればっかりは時間が解決するかもしれないししないかもしれない、としか言えない。


「だから、距離を置くことにした」


 ふう、と短くため息をついて笑う。なんとも言えないような顔をして、玲生くんが言葉を選ぶように小さな声で聞く。


「七緒ちゃんは……もう、結婚しないの?」

「うーん、今はいいかな。恋愛も疲れたし、しばらくは」

「そっか……」

「いずみくんお酒まだ?」

「うるせえ今つくってるよ」


 シェイカーを振りながら言い返される。この態度、いよいよわたしは客ではない……。

 シェイカーの中身をグラスにそそぎながら、いずみくんが何かに気がついたようにわたしを見た。


「ショートカクテルですね」

「そうよ、今日はお金落としてあげる」


 いつもロングカクテルとピクルスを注文して何時間も粘るわたしを見慣れていれば、先週今週にかけての散財は彼にとって驚くべきことだろう。先週の暴飲は寛人のせいだけど、今日は。


「今日は、わたしの卒業式」

「そつぎょうしき?」

「母親の支配からの卒業」


 玲生くんが、きょとんとした顔をしたあとで、ほほえんだ。


「尾崎豊みたい」

「もう三十歳なのにね」


 にやりと笑い返す。たぶん、支配からの卒業というフレーズと尾崎豊は結びついたものの、それとは別の曲のタイトルにまでは意識が及ばなかったようで、怪訝そうな顔をした玲生くんの手元の飲みかけのカクテルグラスに自分のそれを寄せる。グラスを持ち上げて、軽くふち同士を合わせる。


「そっか、七緒ちゃんも、親の抑圧があるんだねえ……」


 その、何気ない呟きを聞いて、わたしはすっかり記憶のかなたに追いやっていた、偽装結婚の話を不意に思い出してしまった。


「……その後玲生くん、婚約者とはどうなの?」

「どうもこうも、七緒ちゃんの話が出た途端婚約破棄だよ」


 へへへ、と得意げに笑った彼に、勝手に顔が青ざめていく。


「え? 親御さんにわたしのこと話したの……?」

「七緒ちゃんのことは喋ってないけど、結婚したい人がいるんだよねって」

「それって、まだ偽装結婚の話生きてる、ってこと……?」

「ふふふ」


 わたしがここに来る前に、すでに何杯か飲んでいるらしい玲生くんがほんのりと頬を染めて意味ありげに笑う。背筋が凍る。カクテルの味が分からない。今わたしは何を飲んでいる? ベルベットハンマーだ。コーヒーリキュールの味、オッケー大丈夫。いや駄目。


「ちょ、嘘でしょ、待って」

「玲生」


 カウンターの向こうで、いずみくんがたしなめるように玲生くんの名前を呼んだ。ちらりとそちらに目をやって、わたしを見て、首を振る。


「無効だよ。婚約破棄になったし、目的のひとつは達成されたわけで……、婚約者のほうはさ、ご両親も俺との婚約に乗り気じゃなかったから、煙が立った瞬間トンズラ。まあ、かわいそうなのは俺に振り回されたうちの両親くらいかな」

「乗り気じゃなかったの?」

「うん。俺が、その子がいるのにほかに好きな子とか彼女とか隠してなかったから、娘を大切にしてもらえないって思ってたんじゃない?」


 そういうものなのだろうか。そして、玲生くんはほんとうにそれでいいんだろうか。


「俺は七緒ちゃんが好きなんだって言ってるでしょ、だから、いいんだよ」


 カウンターの上に置いた手に、玲生くんの手が重ねられた。細い指だけど、骨ばっていて男らしい。


「なんか……玲生くんはわんこみたいだと思ってたけど」

「ひどい」

「手はちゃんと男の子だねえ」

「……!」


 なぜか玲生くんが勢いよく手を引いた。あっけに取られて彼のほうを見ると、顔を真っ赤にして、触れていた手を守るようにもう片方の手を重ねている。


「七緒さん、そいつ、そういう褒められ方慣れてないんだよ」

「……? そうなの?」

「なんせこの女顔でわんこな性格なもんで、男扱いされてこなかった」

「へえ」


 目の前に生ハムの皿が置かれた。頼んでないぞ、と思い視線を上げると、いずみくんがほほえんだ。


「卒業祝い」

「……いずみくんがこういうことするときって、何か企んでる気がする」

「俺を何だと思ってるんですか、失礼な」


 厚意をありがたくいただくことにして、わたしはまだ照れている玲生くんを放って、カクテルを一気にあおる。すかさず、バーテンダーのお叱りの言葉が飛んでくる。


「それ、アルコール度数高いんですけど」

「大丈夫!」

「七緒さん、飲みすぎて大丈夫だったこと一回もないでしょ」

「だ~いじょうぶだって」


 生ハムにフォークを伸ばすと、その手を両手で掴まれた。玲生くんだ。

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