第8話 社会人の日常

 夏のイベントに向けての準備でせわしないオフィスだが、経理事務のわたしにはそれらの準備に係る請求書や相談事は回ってくるものの直接的な関係がないので、基本的にイベントとはあまり関係ない仕事をしている。

 オフィスの休憩室に設置されている自動販売機の電子マネー決済機が反応しないという報告が上がっていたため、取り急ぎそれについて業者さんに連絡を入れて、午後には修理に来てもらえる手筈になった。今日は総務が有休をとっているので、そういったこともわたしの仕事になっている。

 それから、請求書に印字された山のような数字と格闘しながら、月末の締めをやっつける。月末に金曜が当たると、なんていうか一週間の疲れに足して締め作業があるので、心がちっとも休まらない。


「ああー」


 お昼、事務所の近くの弁当屋さんで昼食を調達して休憩室でため息をつくと、一足先に休憩に入っていた営業の男性社員が目を丸くして聞いてきた。


「なんですか、昼間っから辛気臭い……」

「こら」

「あっ」


 わたしをからかおうと言葉を紡いだ彼を、そのとなりに座っていた女性社員がたしなめた。彼も、その意味に気づいたようで慌てて口をつぐむ。

 どうせ変に気遣われているのだ、婚約破棄されたかわいそうなわたしは。

 気遣いはありがたいものの、いつまでもいつまでも腫物に触るような対応だと、仕事でお疲れだからと言ってため息のひとつもつけないのは面倒だ。かといって、実は年下の御曹司との偽装結婚が決まって、その上馴染みの飲み屋のバーテンダーに求愛されているんです、というワイドショーにも受けないようなネタを提供するのも気が引ける。

 そして何を隠そう、今のため息は忙しすぎる仕事が原因ではないのだった。


「ごめんなさい、もう気にしないで。あんまりわたしも気にしてないから……」


 気にしてないはさすがに嘘だが、今はそれよりも大きな懸案事項ができてしまったことは間違いない。

 しかし、そのことを説明できないので、強がりにしか見えないだろうとも分かっている。さてどうしたものか。

 けっこう、社内でかわいそうな女扱いされるのも疲れたし、二ヶ月も経ったのだからいい加減話題も沈静しているかと思いきや、大会社の中規模事務所ということで、順繰りにわたしの話は伝わっているらしく、普段あまり接点のない人と廊下ですれ違った際に興味津々といった目で見られることも少なくないのだ。

 そして、わたしは一応結婚の報告をしていた上司に「婚約が解消になりました」としか伝えていないのに、いつの間にやら尾ひれがついて泳ぎだし、最新の噂話では「女癖の悪い彼が会社の偉い人の娘に手を出してしまって責任を取らざるを得なくなり婚約破棄された」ということになっているらしい。

 噂話なのに真実にかなり近い。笑えない。


「で、でも、白石さんみたいな美人とせっかく結婚できるっていうのに破棄するなんて、よく分かんない男もいたもんですね~」


 フォローのつもりがまったくフォローになっていないのだが、彼はそこには気づいているんだろうか。

 とりあえず愛想笑いで返して、弁当のふたを開ける。鶏のから揚げを箸で刺して口に入れる。行儀が悪いが、今はそうしたい気分だった。

 いずみくんのことを考える。

 だいたい、人のことを散々馬鹿だのあほだの、あんたなんか客じゃないだの馬鹿だのなんだの言っておいて今更好きですなんて、そんな都合のいい話があるかってんだ。

 わたしの何がそんなに好きなのか、聞くのを忘れたな、と思う。今週末どうせまたあそこに行ってしまうんだ、からかいついでに聞いておこう。

 弁当を食べ終えて、しっかりきっちり一時間分の休憩を取りたかったものの、何せ婚約解消したことを報告してからのみんなの視線が痛くて、わたしは休憩室でまったく憩えなくなっていたので、ロッカールームの体調不良者用のベッドに向かった。

 腰かけて、スマホをチェックすると、迷惑メールのほかに通知が二件。ラインを開く。


『七緒ちゃん、日曜日デートしませんか!』

『七緒さん、日曜日バーに来ますよね?』


 この、お誘いのたった一文で、ふたりの性格が驚くほど対照的なのが分かってしまうのがすごい。

 片やわたしにお伺いを立てている無邪気な感じ、片やわたしが来ることを勝手に決定事項にしている俺様な感じ。

 三瀬くんは、なぜかわたしとの接触に積極的だ。ダミーの結婚相手なのだから、契約なのだから、そんなまめに連絡をしてくる必要もないし、デートなんてもってのほかだと思うのに。

 ただまあ、向こうも偽装結婚してほしいから必死なんだろうなとは思う。なんせ、わたしは彼に、きみのことをもっと知ってから本契約がしたい、と言ったのだから。

 そしていずみくんに関しては、わたしのことを好きな理由が判明するまでは絶対に彼の好意を認めない方向である。

 そして気づく。どちらも日曜日にわたしと会おうとしていることに。

 翌日が仕事なのに飲むのはきついから三瀬くんを取ろうかと一瞬思うものの、しかしいずみくんがわたしを好きな理由も聞きたいと思う。

 簡単なことだ。バーで三瀬くんと会えばいいのだ。

 三瀬くんは、お互い好きな人がいたら円満離婚でも不倫でも、と言っていたくらいだし、わたしのことを好きだって言う男がいたって気にしないだろう。

 ふたりに返信を打って、何気なく時計を見る。


「やばっ」


 昼休みに出てきた時間から、一時間が経っていて、歯磨きをする時間は残念ながらなさそうだった。ばたばたと持ち場に戻り、それでも一応上司にお伺いを立ててみる。


「すみません、歯磨きだけしてきてもいいですか」

「ん、いいよ。好きなだけ磨いておいで」


 最近四十肩がつらいらしい上司のジョークに見送られ、わたしは昼休みを少しオーバーして歯を磨くことを許された。

 日々の仕事はまあまあ忙しいけど、サービス残業はないし、こういう些細なことでもうちの会社はそれなりにホワイトだなあと感じる。給料だって悪くないのだし、この間わずかながらベアもあったし。

 転職前の仕事場はマジでブラックだったからな。転職の準備や面接時間を捻出できたのが奇跡だった。今同じことをしろと言われたらたぶん、体力が持たない。

 トイレの鏡の前でしゃこしゃこと磨きながら、日曜か、と思う。

 ここ数日でさまざまなことが起こりすぎて、正直元婚約者のことをあまり考えなくて済むようになっているのは大変にありがたい。その点では三瀬くんといずみくんに感謝である。

 歯磨きしている、鏡に映った自分の顔を見る。不細工とも言わないが、美人とも決して言えないよな、と、先ほどの営業の男性社員のフォローを一蹴する。少なくとも、せっかく結婚できるのに、と言わしめるほどの美女ではない。

 これで顔が絶世の美女なら、いずみくんに見初められたのも納得できるんだけど、とひとりごちる。


「はあ、分からん……」


 午後、仕事をしながらも、結局わたしはここ最近のモテ期(と言ってもよいものか微妙だが)がどこから来たのか、という謎を持て余すのであった。


 ◆

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