第4話 力んだ腕の拍子抜け

「……もういいよ」


 いくら自問自答したところで、結局わたしは彼のうつくしい顔に絆されてここまでついてきてしまったようなものだ。どう言い訳したところで、わたしは彼の顔面に負けたのだ。

 どうせわたしは、顔面の点数次第であばずれにでも尻軽にでもなる現金極まりない三十路だったってことだ。

 もう腹をくくるしかない。


「ええい、恥を捨てろ」


 結婚の絶好のチャンスを逃した三十歳の女に、いったいどんな羞恥心があるというのか。部屋で待っている彼をリードして喘がせるくらいのことはすべきである。がんばれ七緒。負けるな七緒。

 と思って服を脱いで気がついた。

 今日の下着はリラックスモード全開な、気の緩んだワードローブの中でも一番気に入っていないやつであるということに。

 いやもう下着って言うのもおこがましい、これはカップつきキャミソールである。肌着である。

 基本的に休日に、バストメイクの技で劣るようなリラックスな格好を推奨しているのが失敗だった。バスローブの下にカップつきキャミソールなんてつけている三十路の女を見て、彼はどんな気持ちになるだろう。

 いや、彼がどんな気持ちになるかというよりも、わたし自身が男性の前でこの肌着を身に着けているという事実がいただけない。わたしのプライドは正直なところ富士山くらいでっかくて高い。

 しかし今更着ていないブラジャーについてどうこう言っても仕方ない。こうなったらノーブラでバスローブをはおるしかない。

 シャワーの湯加減を調節し、丁寧に、吐かれた胸元を洗う。ジュニアスイートのアメニティのボディソープはいい匂いがする。なんか悔しい。

 初夏の夜は蒸し暑いので、ほんのり汗ばんだ頭もしっかり洗って、万全の態勢で洗面所の鏡の前に立ち、軽く全身のチェックを済ませてバスローブをはおる。

 スキニーのデニムだったのでTバックをはいていたのは不幸中の幸いと言うしかない。


「……」


 そう……っと鍵を開けて、バスルームのドアを開ける。ここからは、彼がいるソファの様子は見えづらい。

 物音ひとつ立てないつもりの繊細な足さばきでソファに近づきつつ声をかける。


「あの、シャワーどうぞ……?」


 彼だって、水をもらって口をゆすいだとは言えシャワーを浴びたいだろう。そう思って声をかけるも反応がない。不思議に思って抜き足差し足で素早く近づき背後からソファを覗き込む。


「うそ」


 ぐうすか。そんな音がぴったりなくらいに気持ちよく、くうくうと眠っている。

 がくりと足の力が抜けて、その場にへたり込んでしまう。ソファの背もたれに縋りつき、深々とため息を吐き出す。

 なぜか、決意してバスルームを出たときよりも、心臓が激しく鼓動を刻んでいるのだ、情けないったらない。この拍動は、なんだよかったびびらせやがって、というやつだと分かるから。

 そのまま心臓と呼吸を落ち着かせようと胸を撫でていると、んん、と彼がうめいた。そっとソファを覗くと、寝返りを打って落ちそうになっている上に、腕が胸を圧迫して苦しそうである。

 ソファの正面に回って、腕をどけて身体をソファの奥にやんわりと押しやる。再びうめいて、それから心地よい寝息を立て始めた。

 ベッドのリネン類から、ブランケットを引きずり出して、男の腹から下半身に掛けてやる。

 一通り仕事を済ませたあとで、ふと気づく。

 わたしはこの、一夜をともにしようとした男の名前すら知らないのだ。


「あほらしい」


 実にあほらしい。自分があほすぎる。

 シャワーを浴びたことで、酔いはすっかりさめたはずだ。心臓のはたらきもおさまってきて、ようやく気持ちが冷静になってくる。

 未だほてっている頬ですやすやと眠っている男の、幼さの残る端正な顔立ちをじっくりと観察する。

 見れば見るほどいい男だ。雑誌の表紙から飛び出してきたかのような垢抜けた透明感のある傷ひとつない肌に、まるで絹糸みたいなきれいな栗色の髪の毛。きちんと行儀よく整列した顔のパーツひとつひとつがきっちりと細部まで完璧で、ああ神様はわたしを適当にこねくり回している横でこの男の造形を丁寧に丁寧に作りこんでいたんだなあ、と思ってしまうほどだった。

 いや、わたしの片手間とも思えない。ほかの人間をほったらかして神はこの男をいじくり回していたのだろう。そう確信する。それほどの男前だった。

 そんな、神様にほったらかされたわたしは、さてこれからどうするかと思案する。

 とりあえず吐瀉物まみれの服はクリーニングに出さねばなるまい。と、そこまで考えて青くなる。

 わたし、結局どう転んでも家に帰れなくないか。

 だってここから出ないとクリーニングには駆け込めない。ここを出るには服が必要だ。服は吐瀉物まみれのこれ以外にはバスローブしかない。


「マジかよ詰んだ」


 思わずひとりごち、けれどなんとなく据えた臭いのする服に袖を通す気にはなれなくて、お気に入りのワンピースじゃなくてまだましかなあ、なんて自分を慰めつつ、わたしは目の前ですやすやと寝ている男を恨めしく眺めていた。


 ◆

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