第17話 洞窟の中

  *

最初に思い浮かべたのは、昨日訪れた闇市の露店だ。肉や野菜を焼くための炭をうちわで煽ぎなから、中から追い出されたように飛びちる火花についつい目をつぶってしまう光景。

スラム街に僕―レイン・フォルディオが足を踏み入れてすぐ、それを惹起させる木を焦がしたにおいを嗅いだ。

昨日に比べ、随分とにおいが立ち込めているものだ。確かに、今は店を開き始める時間だろう。炭の機嫌が良くなったばかりなのかもしれない。


(いや、違う)


煤が塗りたぐられたかのような薄汚いレンガ造りの家々。それが立ち並ぶ細い道のりの角を曲がるごとに、鼻奥をすぼめるような焦げ臭さだけが目立ち始める。これは、炭のにおいなどではなく、単に木を焼いた臭いであることが分かった。

―火事か?

しかし足を止めて四方を見渡そうとも、4・5階ほどの高さがある屋根たちの隙間からは立ち上がる火の手も黒煙も見当たらない。僕はさほど自信があるわけでもない嗅覚だけを頼りに、スラムの奥へと進んでいく。


咳を拗らせたくなるにおいにも、鼻が馴れてきたころだ。

まるで本棚に敷き詰められた広辞苑の一冊が抜き取られているかのように、ぽっかりと、建物のひとつ分が無い空き地を見つけた。

左右の建物は空き地に面する壁を焦がし、空き地には触れた箇所から欠けこぼれそうな、かつて家だった黒いものが折り重なっている。


目に見える煙もなく、その様子を立ち止まって見つめる者もなく。ただ、かつての営みの残滓がその残骸から少しばかり汲み取れるだけ。

一体、どのような人物が住んでいたのだろうか。

闇市で出会った、ローブを頭まで深く被り顔を隠した老婆が思い浮かんだ。彼女は、どのようにして。これを前に先のことを憂いたのか。少なくとも、闇市に露店を広げているのは、惨状に対し座りこけたままにならなかったからに違いない。


「ん?誰かいるのか?」


視界の端で、崩れかけた支柱の影より何かが揺れた気がした。

目を凝らさなくても、筆先のような形をした薄い鼠色の『ふわふわ』は確かに視認できる。

はて。どこかで見たような気もしなくはない。


「…尻尾か?」


「誰もいないの!」

「いないの~。」


「いや、それなら返事するなよ…」


幼児特有の中性的なふたつの声と、片や強気ながらもう片方はのんびりとした、そんな独特な語尾に合点した。あの半獣の双子だ。いつの間にやら感じていた強張りが、身体の奥へ吸われるように抜けていく。


「こんなところで何をしているんだ?」


「お絵描きなの!」

「なの~。」


優しい言葉尻を意識しながら、彼らの方へと僕は近寄る。触れば崩れそうな黒い瓦礫に身を乗り出し、その陰を覗いてみた。灰を被ったか、身体と毛並みの至るところが煤だらけの双子が、クレヨンでせっせと何かを描いている。

ははあ。これには見覚えがある。多少形は異なるが、先ほど噴水の前で衛兵と必死にブラシをかけた、あの落書きではないか。


「おい、お前たち。さては噴水の前の落書きはお前たちの仕業だなー?」


「ぎくっ!」

「ぎくぎくっ!」


とても正直な反応に思わず笑いが込み上げる。想像通り、彼らだったか。さて、どうしてやろうか、少し脅かしてみては可哀相か。ここは優しく注意してやる程度がいいのかもしれない。彼らの、子どもと小動物というふたつの愛らしさに、自然と笑みを含んで言った。


「駄目だぞ、街中に落書きは。」


「ううー。バレちゃったの…」

「なの~…」


「…?」


その声には力が全く籠っていなかった。

そればかりか、手を止めて僕を仰ぎ見る双子の目には光の一切が写らず、瞳孔が開きかけている。


空気が変わった。


小さな手に握られた欠片のようなクレヨンが醸す無邪気さは、双子の冷めきった表情に打ち消されている。これに比べれば、昨日の僕を襲ったチンピラの力をちらつかせた凄みは断然チャチなもの。


これは殺意なのだ。


そう直感した僕はいつの間にかひどく浅い呼吸をしていた。これが緊張であることに気が付いたのは、その呼吸に声を乗せるのに時間がかかったからだ。


「……昨日、本を取り返してくれたの、君たちだよね?それに免じて、このことは誰にも、言わないでおいてあげるよ?」


なぜだろう。こんな交換条件のような言い回しでなく、自然にお礼を言いたかったのに。高まる心拍がそのような防衛本能のようなものをスイッチさせた。

それが、結果的には良かったのかもしれない。双子の下がりきった口角に再び生気が戻り始めたように見えた。


「誰にも言わないの?」


「あ、ああ。もちろん。」


「衛兵さんにも?」


「当然。」


「騎士団さんにも?」


「約束するよ。」


「ふぃりっつ、にも?」


「うん。………え?」


「おい!そこのお前!何をしている!ここは立ち入り禁止だぞ!」


加速した鼓動が収まり始めていた心臓を跳ね上がらせたのは『フィリッツ』の名前が出たからか。それとも僕の背中に衛兵の怒鳴り声のような声が浴びせられたからなのか。

直ちに背後を振り返り、彼らの制服である茶色いレザーベストを着た衛兵に、すいません、すぐ出ます、と声にならない声で返したつもりだ。


「約束なの。」

「なの~。」


待て―と振り返って制するよりも早く。耳元で囁かれたかのような優しい声を残して、半獣の双子はその場より姿を消していた。

足元には、いびつな線と図形が重なった、不思議な落書き。それでもなぜか、全体を見据えると極度に安定したバランスのあるものに見える。

まさかこれはフィリッツに繋がる手がかりになるのでは、という考えが内心に留められたこそ、これを衛兵に話すわけにはいかなくなったのだ。


「まさか、彼らの主人っていうのは…」


追うべきだ。まだ近くに居るはずだ。しかし、それを忘れるほどの驚きをまだ受け止めきれていないのだ。

落書きの傍に転がる、破片となるほどまでに使われたクレヨンを見て思い出す。

奴隷にクレヨンを買ってあげるような主人。僕は彼らが、幾分恵まれた奴隷なのだと感じていた。

となると、フィリッツの人物像は途端におぼつかなくなる。

懸賞金がかけられるほどの凶悪な指名手配犯で、人相もすこぶる悪く、ウェスピンを魔物で襲わせるやもしれない危険人物。

本当に、そうなのだろうか。僕はいつの間にか、考えることを始めていた。



  *

「リリちゃんは筋がいいのう。スケルトンの関節も、いくらか狙えるようになってきたではないか。」

「いえ…これでも、結構外すんですよ?特に思いっきり突こうとした時なんか、ブレブレで。」


私、リリーシャ・フォルディオは、ネクロマンサーのナナ・フェインさんと共に、帰りの森で野菜を収穫しつつダンジョンへ踏み入る準備をしていました。

そんな準備もいよいよ終盤。昼夜多数のアンデッドを相手にしたお蔭か、なんと2日で槍さばきもまともになってきたのです。


「そろそろ、ダンジョンへ挑戦してみるかのう…ウチも入ったことないんじゃ。怖いのう…」

「大丈夫です!私も精一杯援護しますし、『すけさん』も『かくさん』もいますから!」


ナナさんの両隣りで、すけさんとかくさんはアウアウとうなずきます。この二方はナナさんがいつも頼りにしているアンデッドです。生前はかなり優秀な冒険者だったそうで、ナナさんがおおざっぱな指示をすればフルオートでオーダーをコンプリートするスーパー従者なのだそうです(ナナさん談)。

ナナさんのお気に入りだけに、身なりもちゃんと整えています。防腐剤を毎日浴びているらしく、少し臭いますが、腐敗も少ないです。二人ともそれぞれ白と黒の凹凸ないつるりとした仮面を被り、身体は頭ごと黒いローブを纏っています。一瞬見た限りではアンデッドに見えません。どちらかというと、てるてる坊主のような。見慣れなければ不気味な黒ずくめですが。

アンデッドに抵抗のないナナさんですか、そういうところを見ると人を恋しく感じているのかもしれませんね。


「うむー。善は急げ、じゃ。そうと決まれば早速行くのじゃ!」

「はい!」


高く陽が昇っているはずの昼下がりでも、背の高い森の木々に阻まれた日光は木洩れ日となって僅かに注がれる程度。畑は木々の拓けたところに作られていますが、それ以外はいつも薄暗いです。

それでもナナさんは、100年以上もここで生活しています。そんなナナさんの永遠の中では、私は僅かな時を過ごすお客さんでしかないのかもしれないですが、彼女の良い思い出となれるように頑張ってみたいのです。



森の奥地へ進むにつれ、植物の生態が目に見えて変わってきます。渦を巻いたツタや赤く光る花粉を吹かす花、背丈ほどもあるキノコなんかは繊維の筋がよく見えて気持ちが悪いです。

そういった特大の植物もある中で、我々が踏みしめる雑草は膝下の高さくらいしかありません。

帰りの森の旺盛な植物には歩きにくさを感じていたのですが、ここまで来るとまるで別の森であるかのよう。植物も生えない過酷な環境であるボロス山と森の北側で接しているのがその原因でしょうか。すくすくと育っている植物は生命力が強く、それ以外は養分をとられ小さくまとまっているように見られます。なんだか生えそろわない毛並みのような、不安定なところです。


「リリちゃん、敵じゃ!」

「え、え。どこですか!?」


ナナさんはとても目が良いです。彼女の指さす、はるか遠方の木々の影にアンデッドの姿を捉えました。私からすれば、落ちているたったひとつのどんぐりを枯葉の隙間から瞬時に見つけるくらいに難しい。

もちろんアンデッドもこちらにはまだ気が付いていない様子。


「かくさん。弓であいつを撃ち抜くんじゃ。」


黒い仮面のアンデッド―かくさんは、背中の弓矢を素早く番えます。背を少しばかり逸らせて構える姿を見て、私は彼…いや、彼女に少しの胸のふくらみがあることに気が付きました。


「かくさんって、もしかして女性なのですか?」

「なんじゃ今更。そうなのじゃ、ウチと同じ立派な、れでぃ、なのじゃ!」


顔は仮面、頭や身体をローブで隠していると性別すら分からないものです。実は長髪の美人だったりするのでしょうか。私も髪が長いので、もしアンデッドでなければお手入れの仕方などを聞いてみたいところだったのですが。


はにかんだナナさんの背後で、かくさんは一寸のブレも無く矢を放ちます。穂先が風を切り、ツタと葉の隙間を抜け、アンデッドの眉間に吸い込まれていく。森の中での遠距離狙撃、これがどれほど難しいか素人の私でも分かります。


「これ、私いらないんじゃ…。」

「何を言うんじゃ、リリちゃん。ダンジョンの中は入り組んでいると聞く。迷路のような道や洞窟のような道、狭い場所は広い場所より多いらしいんじゃ。かくさんは近距離戦があまり得意じゃないからのう。それにうちはリリちゃんがいないと寂しい。」


あーもう、かわいい!

頬を膨らませて私の裾を握る彼女は、本当に愛らしいです。頭を撫でても怒らないでしょうか。いえ、いえ。迂闊な行動でミスを犯すのは私の悪いクセでした。


「ナナさん。アンデッドが現れたということは、ダンジョンも近いということでしょうか?」

「そうじゃ。昼間から歩き回るダンジョンの魔物。これが証拠。うむ、道はこっちであっていたようじゃな!」


先ほどのアンデッドが倒れた位置まで来たところで、何やら地面が背丈よりも幾ばくか高い位置まで隆起し、山となっている場所が見えました。その近くで木々のいくつかが根ごとごっそり抜けて倒れているところを見ると、その小山は地面が急に盛り上がってできたものなのだと想像ができます。

近くまで寄ってぐるりとその小山を回ってみると、確かに人が2人ばかり手をつないで入ることができそうな広さの穴が空いているではありませんか。


「中は暗そうじゃのう…。暗いところは苦手なんじゃ。」

「大丈夫です、光魔法で照らしますよ。それに、私がついてますから!」


うむうむ、とナナさんは私の背後に隠れていきます。正直、私も怖いのですが、アンデッドよりも大きなアルマロンを相手にしたこともあるのです。このくらい、大したことはないのです。


「中に入りますよ。『フラッシ』!」


呪文を唱え、槍の穂先に白い光を灯します。これで目先3メートルくらいは見えるでしょうか。暗所に住む魔物は光を目指して襲い掛かって来るので、槍の穂先を灯せば初撃を与えやすいのです。しかし眩しいので、なるべく穂先を下げ、それでいて刃こぼれしないよう地面に擦らず進みます。

これがなかなか難しく、ロウさんに教えてもらってから何度も練習しましたが、たまに地面を削ってしまいます。

ダンジョンはしばらく下り。一本道が続きます。蹴っても砂がほとんど飛ばないような、固めの地面です。まさに洞穴。土のにおいが後ろを歩くすけさんの腐臭に若干勝ります。

視界が悪いだけに、そんな嗅覚や次第に遠くなる木々のざわめきに意識が向いてしまうものです。

それからどれくらい潜り続けたか。下りばかりの地形なために、余計な力が入っていた足の甲の筋肉が強張り始めた頃でした。


「あ。…あれは明かり…ですかね?光が差し込んでいます。」

「なんじゃと?」


私達が歩いてきた道の先に、何やらぼんやりと光が漏れています。

まさか、誰かのかがり火?そう思ったのですが、なにやらその光は青白く、まるで教会のステンドグラスに光を通したかのような印象。

私は灯していた穂先の光を消し、少々早足に進みます。ナナさんも走るか走らないかの瀬戸際で私について来ている模様。

警戒よりも、未知の何かへ期待する気持ちが私の中で昂っていました。


「こ、これは…!」

「ま、眩しいのう!」


私達は、一際拓けた場所に出ました。レイン様の屋敷の庭ほどに広いそこは、地面も壁も、空色の水晶でできていたのです。そして何より驚いたのは…


「あれ…空……?」


天井は、吹き抜けになっていました。といっても、切り立った水晶の壁が遥か上方まで伸びており、手をかざすと人差し指一本分くらいの直径にしか空は見えません。それでも、その分厚い曇り雲がわずかに風に流れていることが目を凝らすと分かります。

それに、この壁の高さは私達がダンジョンを下ってきたよりも遥かに高さがあります。考えられるとするなら、森に面したボロス山の下まで潜っていた、ということでしょうか。


「…なあ、リリちゃん。今日は晴れてたような気がするんじゃが。曇っておるな。しかも雨が降りそうな色の濃い雲。」

「まあ…そうですね。山の天気は変わりにくいと言いますし。ここ、多分ボロス山の下ですよ。」

「なるほどのう…。うむ…洗濯物、干したままだったわい…。」


しばらくの沈黙が流れましたが、この水晶の煌めきと神秘的な景色が全てを誤魔化しました。


「この水晶、高価なのでしょうか。」

「どうかのう。世俗には疎いから分からんわい。ただ、簡単に削れるとは思えんのう。」


槍の穂先でつついてみると、耳奥を揺さぶる痛快な高音がこだましました。確かに強度はそんじょそこらの氷やガラスとは比べものにならなそうです。


「先へ進みましょうか。ここからは結構、広い道が続くみたいです。」


私達が入ってきた小道の隣には、巨大な洞窟が口を開けていました。天井のいたるところから水晶が巨大なつららのように伸びており、落ちてこないか心配に思えてしまうほどです。

実際に、水晶の破片が洞窟には大量に落ちていました。


「こんな頑丈そうな水晶の破片でも、剥がれ落ちたり風化したりするんですね…。」


私は手ごろなサイズの水晶の破片を手に取り、背負ったカバンへ仕舞います。ふとナナさんの、片眉を少し曲げた表情が気になりました。


「どうかされましたか?」

「いや…、ふうむ。なんでもないわい。それより、洞窟の奥に魔物がいそうじゃ!本番はこれからなのじゃ!」


そうでした。私達の目的は『ダンジョンの魔物をできる限り減らして帰ること』。物見遊山に来たわけではありません。食料を入れたカバンは重いですが、なるべく深くまで潜って魔物を討伐するには野宿も辞さない構えです。


私は槍を、すけさんは剣を構えて洞窟を進みます。かくさんは背後を警戒しつつ、いつでも矢を射ることができる状態。ナナさんは目を凝らして索敵に集中。

万全の構えです。


ですがそれだけに、私は後に後悔するのです。


もっと余裕をもって臨むべきだったと。

あの時、ナナさんの感じていた違和感に気が付いていれば。

洞窟と、吹き抜けの間と、水晶を、もっとよく観察できていれば、と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る