第三章 - 4 《黯い谷間 ~The Dark Ravine~ 》

 マズレヴィッチが六時に帰ってきて、工場の連中が、草が丘メドウ・ヒルのむこうの暗い谷間でヴァルプルギスの宴がおこなわれるだろうとささやきかわしてる、と言った。その谷間には、白色をした古い石が立っており、その周りでは妙なことに草木がまったく生えないのだった。

 ――H・P・ラヴクラフト『魔女の家の夢』




 手に手にたいまつやカンテラ、そして武器をもった村人たちの一行が、村を出て、草が丘メドウ・ヒルをのぼり始めてから、半時間もたたない頃だった。


 夜中にいきなり牧師さまが家々をまわったのだった。

 まわって必死に呼びかけた。

 魔女が出た。

 魔女が、うわさの怪物を、使い魔として連れていた。

 魔女はコーデリアだ。き遅れで得体の知れない、いつも一人でうろんな振るまいをしている、村はずれのコーデリアだ。


 セーラムの魔女裁判は、証拠がないととがめられ、魔女退治には物証が要求されるようになったが。

 今度はまさに証拠がある。村を荒らすうわさの怪物。それを使い魔にしている。これ以上にたしかな証拠があるだろうか。


 その怪物が、三年前に産み落とされた異形のものであろうと、誰も口にはしなかった。

 しかし、その「父親」を首吊り人の丘ハングマンズ・ヒルで処刑したことは、この場の誰もが思い出していた。

 邪悪なものを産み出した男を処刑したのなら、同じものを召し使う魔女も、殺さねば。

 魔女は災厄を運んでくる。天候が荒れ、不作になり、病がはやり、フランス兵やインディアンが攻めてくる。

 みんな、みんな、魔女のせいだ。

 先頭に立つ牧師が煽るまでもなく、この場のものたちの心はすでに一つになっていた。忌まわしいほど一つだった。


 そうして手に手に武器を持ち、明かりを掲げ、草が丘メドウ・ヒルをのぼり始めて、半時間もたたない頃だった。

 不意に、夜空の雲がとぎれ、銀の炎のような満月が、あたりを照らし出したのだ。

 か細い道がぐいと曲がって、こんもりと盛り上がった地面の上へと伸びている。

 そこに、黒い影がひとつ、立ち尽くしていたのだった。


「コーデリアだ!」


 不意にだれかが声をあげた。

 いかにも、はるか丘のうえに立っていたのはコーデリアだった。

 しかしこれがコーデリアなのか。村のものたちは皆たじろいだ。

 あれがあの、黙りこくって、おどおどしたコーデリアなのか。

 数十もの視線を受けて、たじろぎもせずに立っていた、

 こちらをしかと見据えているのが、離れていても感じて取れた。


 数人のものは、ぞっと体を震わせた。

 表情などは見えないほどに距離がはなれているはずなのに。

 彼女が笑みを浮かべているのが見えたように思えたのだ。

 先頭に立って凍りついていた牧師もその一人だった。

 白い顔がますます青白くなって、脂汗が額をぬらした。


「魔女だ!」


 誰かの叫びに、牧師の体はようやく強張りから解き放たれた。

 解き放たれてよろめいた。


「殺せ!」


 よろめいたのを隠すように、牧師は大きな声で叫んだ。

 しかしその時、コーデリアは右手のほうへ走り出していたのだった。 


「逃がすな!」

「追うんだ!」


 声はあがれど、それからしばらく、男たちは動けなかった。

 男たちのひとり、トーマスに至っては、腰をぬかしてへたり込んだ。

 コーデリアと歳が近く、彼女をよく知っていたというだけではない。

 彼女の背後に、見上げんばかりに大きなマリア様セント・メアリーのお姿が、なぜか闇夜よりまっ黒く、そびえていたように見えたのだった。


 


 草が丘メドウ・ヒルの追跡行は遅々として進まなかった。

 コーデリアを追い始めてすぐ、月が雲に隠れてしまい、夜闇をおしての追跡行となったのだ。

 たいまつやカンテラのとぼしい明かりをたよりに、闇夜の丘をゆく道のりは、予想したよりけわしかった。

 草むらに行く手をはばまれ、坂をずるずるすべり落ち、くぼ地や小川に足をとられた。

 たまに雲間から月の光がもれることがある。そんな時、かならず前方にコーデリアが立っているのが見えるのだ。もしも彼女の姿を見失っていたならば、その時点で、牧師をのぞいて追跡をやめていただろう。

 魔女退治の集団心理は、いまや急速に萎えていた。


「なあ、牧師さま。ちょっと待ってくだせえよ」


 誰かが言った。


「俺たちぁあ、ひょっとして、騙されてるんじゃないんですかね。

 あの女ぁ、俺たちを誘ってるようで気味がわるいや」


「怖れにとらわれるな!」


 牧師はすぐさま切って捨てた。


「魔女とはいえ小娘だ。こんな野原のただ中で、何もできるわけがない!」


 牧師の叱咤に応える気配はすくなかった。

 この丘で、妖しいものがね回っていたといううわさは、すでに村中の知るところとなっていた。

 ここは魔境じゃないんだろうか。この闇のなか、悪霊や妖精が、あの女の味方をして、俺たちに呪いをしているんじゃなかろうか。

 そうだ。牧師さまの話だと、あの女にはあいつが付いているんじゃないのか。

 角とヒヅメと手をもった、けものとも人ともつかない、片目のつぶれたばけものが。


「牧師さまぁ。あの女が、あのばけものとつるんでるってのは、本当なんですかね」


 セプティマスの爺さまが、おずおずとながら確かめた。


「真だ。地獄から産み落とされたばけものと魔女だ。関りのないはずがないだろう」


 牧師の額には脂汗がながれていた。


「なら、あのばけものも、どうにかした方がいいんじゃねえですかい。

 あのコーデリアだけで大した真似ができるとも、わしゃあ、どうにも思えねぇ。どこかであの……ウシみてぇなばけものに襲われたら、そっちの方が危ねぇや」

「間違えてはならん。真に危険なのは、主からたまわった魂を、悪魔にわたした魔女のほうだ」


 牧師のあやふやな論法は、村人たちを説得しきるには足りなかった。

 この段におよんでも村のものたちは、あのばけもの、人がけものに産ませたという異形の存在を直視したくはなかった。

 まず最初に埋葬地ベリインググラウンドのかたわらの家を改めよう、と言い出すものがいなかったのも、冒涜的なばけものに対したくなかったからだった。

 内気で頼りなさげなコーデリアを捕えるほうが、与しやすそうだからだった。


 しかし闇夜の丘での追跡行の、予想外の困難さに、考えは逆転しかけていた。

 あのばけものなら、自分の「祖父」の暮らす家、埋葬地に戻ってくるのではないのだろうか。

 それならば、この暗い丘から引き返して村に戻ればいい。埋葬地の家の前で、待ち伏せでもすればいい。

 気の早いものは、元きた道のほうに目を向け始めた、そのとき。


「おっ、おい! あいつが何かしているぞ!」


 すべての視線は、ふたたびコーデリアへと戻った。


「なにか持っていやがるぞ」

「いや、掲げていやがるんだ」


 ふいに、おおきな悲鳴があがった。

 一つではない、いくつもあがった。


「あっ……ありゃあ……!」

「骨だ! あの女……を掲げていやがる!」

「あっ、ありゃあ……子供のだ!」


 いつの間にか、コーデリアは、さっきよりずっと、こちらへ近づいていた。

 そして両手をあげていた。何かをたかく掲げていた。

 月光がそれを照らしていた。それは小さな骨だった。

 手のすっぽりと収まりそうな、赤んぼうの頭蓋骨だった。


「魔女だ……! 妖術だ!」


 牧師の大声に続いて、村人の声が怒涛のように押し寄せた。


「子供をさらって食い殺したんだ! キザイアみてえに!」

「あのを、妖術のまじない道具にしたんだ!」

「俺たちに、いや、村に呪いをかけるつもりに違いない!」


 ふたたび、月が雲にかくれた。

 コーデリアは身をひるがえし、また走り去るようだった。


「逃げたぞ!」

「そうだ! この丘を越えた先にゃ、あの谷があるじゃねえか?

 悪魔や魔女が集会に集まるってぇ、白い石のある谷だ!」

「あの女、あの石のところで、妖術をつかう気だ!」


 月光のなかで見た、おどろおどろしくも忌まわしい光景に、全員の頭は沸きたった。

 その頭からは、もはや半獣の怪物など、まったくもって消し飛んでいた。


「逃がすな! 探せ!」

「殺せ!」


 みなの目に、ふたたび、恐怖と逆上、そして熱狂の炎が燃えあがった。

 火と武器を掲げ、彼らはまた丘を進み始めたのだった。




 雲は去り、月は傾き、いつしか東の空が群青色へと変わりつつあった。

 青く深い、あかつきの空に、乙女座がのぼりつつあるのを見て、コーデリアはひととき、足をとめた。

 一晩じゅう、村のものたちを引きつけながら逃げ回った、その足はもうぼろぼろだった。

 足の皮がまるごと剥けたのではないかと思えるほどに痛んでいた。肉をやぶって足の骨が突き出るのではと思うほどにずきずきとした。

 それでも心は不思議なほどにはずんでいた。こんなにはずんでいいのかと、罪の意識を覚えるほどにはずんでいた。

 はずんだ瞳におとめ座は、澄んできよらに輝いていた。大好きだった乙女座が、こんなにきれいに見えるのは、ここ数年はもちろんのこと、生まれて今まで覚えがなかった。

 かたわらに倒れ伏している牛飼い座など、もはや気にもならなかった。


――あの子は、無事に逃げたわよね。


 つぶやこうとして声は出なかった。口も、のども、鼻の奥まで、からからに乾き、引きつっていた。息をするたびにすべてが痛んだ。

 目もひりついた。頭も痛い。おなかは吐き気がするほどに空で、下腹も引きつるように痛んでいた。

 こんなひどい有様で、よく一晩じゅう、おとりの役を果たせたものだ。それがとても可笑しくって、乾いたのどから笑いがもれた。


――聖母さまが、まもってくださったのかしら。


 あるいは、この子がまもってくれたのか。

 汗ばみかぶれた右手に握った、小さなをやさしく見つめた。


 自分が姿を現しても、村のみなを引きつけられるかわからない。

 そのためには忌まわしい魔女を演じなければならない。

 そのために、わが子のむくろを掘り出した。を持った怖ろしい魔女に、村のみなは引き寄せられた。あの子のことは頭のなかから消えてしまったようだった。


――ごめんなさい。


 くずれかけた小さなに、何度目かの言葉をつぶやく。


――そして、ありがとう。

  あなたが手伝ってくれたから、あの子は無事に逃げられたわ。

――私は――お母さんは、これからは、あなたとずっと一緒にいるわ。

――二人で、一緒に眠りましょう。


 そう思った瞬間、頭に割れるような痛みが走った。

 いや、本当に割れたのだろう。血がだらだらと、顔を垂れるのがわかった。

 コーデリアの頭を打ったその石は、いきおい余って近くに立った白い石にぶつかって、谷間に音をひびかせた。


「やっと追いつめたぞ、魔女が!」

「お、おい! ここは、あの……魔女が集会をひらくって谷だ!」


 悲鳴と怒号が巻き起こる。

 それでわかった。ここは、草が丘メドウ・ヒルの向こうにあるという、暗い不毛の呪われた谷だ。

 悪魔の石碑だとかいわれる白い石が立っていて、石のまわりは悪魔の呪いで草一本も生えないという。


 かつて村でそんな話を聞いたときは、丘のむこうに地獄そのものがあるように思え、怖ろしくて耐えられなかった。

 けれど、今、そのただ中にいるというのに、コーデリアは恐怖も嫌悪も感じなかった。

 むしろまるで、落ち着くところに落ち着いた、そんな気すらしたのだった。


――私はもう、ほんとうに魔女になってしまったのかも知れないわね。


 そんな考えが浮かんできても、やはり何とも思わなかった。

 姦淫かんいんの罪が露呈すれば、魔女として吊るされる。さんざんおびえてきたことが、はるかに遠く感じられた。

 傷みきっていた足が、朽ちるように地面に倒れる。

 胸のなかのすべてが、吐息といっしょに吐き出される。

 おし寄せ自分をとりかこむ、足音と怒号だけが聞こえていた。

 農具で叩かれ足で蹴られ、そんなことさえ、何とも感じていなかった。

 彼女が感じているのは、呪われた土のつめたさと、手中にいだいた小さなの放つぬくもり、

 そして、黒い聖母さまセント・マザーが、自分を迎え入れるかのように腕を広げているのがわかるだけだった。


 やがて、びしゃりと何かがかかった。

 臭いで油のようだとわかった。


 ついで、とても明るい光が、全身をつつんだ。

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