2 Un Américain à Paris パリのアメリカ人

スペイン。

バスク地方のロマンチックな避暑地、サン・セバスチャン。


ピレネー山脈の両麓に位置し、ビスケー湾に面してフランスとスペインの両国にまたがっているバスク地方は、古よりそこに住んでいたバスク人が独特の文化を育んできた異国情緒あふれる地域だ。

欧州の他の地域とは異なる言語を持ち、街中の表示にはスペイン語や英語、フランス語と並んでバスク語が見受けられるのも、この地域ならではの光景だ。


マドリードを寝台列車が発車するのは、21時。

一晩列車の中で過ごし、モダンな建物が点在する芸術都市ビルバオで朝を迎える。

一時下車しての市街観光後は再び列車に揺られ、昼前にはバスク地方のロマンチックな避暑地、サン・セバスチャンに着いた。

その日は、20時に列車に戻るまで自由行動となる。


世界有数の美食の街として知られる通り、小さなパンの上に肉や魚介類などを乗せて串を刺す、スペインを代表するグルメであるピンチョス発祥の地のバル巡りや、バスクの伝統文化の一つでもあるシードレリアなど、食を楽しむ事については申し分ない。

ディーンと蓮は、連れ立ってバルを梯子して昼食を取る。

その後はレトロな雰囲気が漂う街を散策し、夕食は蓮がネット仲間から仕入れた情報の地元民イチ押しのレストランにてバスク料理のフルコースを堪能する。

地元産のワインも豊富で、いくつかグラスで試したこともあり、店を出た時には蓮の頬もだいぶ赤みを帯びていた。


店で意気投合した地元民から聞いた近道だという石畳が続く裏通りを使い、列車の待つサン・セバスチャン駅を目指して歩きながら、すっかりご満悦の体の蓮が小さなため息を漏らした。

「でも、せっかくスペインに来たのに、本場のフラメンコが見られないのは残念でした」

「フラメンコと言えばアンダルシア地方が盛んだからな。それに今の時間帯では、そうした店もまだ開いていないだろう?」

「夜のバルも、開くのは8時頃ですもんね。いくら次はパリまで行くからって、集合時間が早すぎますよ」

酒のせいか、いつもより素直に本音を漏らす蓮を、ディーンが鼻で笑う。


「それにしても、ダンスとは縁のなさそうなお前が、フラメンコに興味があるとは意外だな」

小馬鹿にしたからかい口調に、途端に蓮がムッとした顔を向ける。

「言いましたね。こう見えて、オレだってワルツくらいは踊れますよ。寄宿学校では必須だったし、ちゃんと単位も取れました」

そう言うと、強引にディーンの右手を取って体を寄せる。


一瞬、ディーンは周囲へと視線を走らせるが、構わず蓮はステップを踏み始めた。

だが、「1,2,3。1,2,3……」と小声でカウントを取りながらの素人臭さと、数回のステップでディーンの足に引っかかって転びそうになり、とっさに腰を支えたディーンから失笑が漏れる。

「お前、それでよく単位がもらえたな。俺が教師なら、即刻不可を言い渡すぞ」

手で目元を覆いながら肩を震わせて笑う男に、蓮がムッと頬を膨らませる。

その頬が朱に染まっているのは、アルコールだけのせいではない。

「貴方の背が高すぎるんですよ。この体格差なら、まるでオレがペアの女性役じゃないですか。色々とリードしにくいんです」

だが、いつもはここで終わるはずの文句も、ほろ酔い気分が後押ししてか挑戦的な会話が続く。

「そういう、ディーンはどうなんです? そんなに言うなら、ワルツくらいは踊れるんですよね?」

「仕事絡みで当然踊れる。何なら、1曲相手をしてやるぞ?」

その上から目線な紫の瞳に、蓮の緑の瞳に負けん気の強い光が灯った。

「言いましたね。これでヘタクソだったら、眼鏡秘書や銀髪マッチョにバラしちゃいますからね」

「望むところだ。――なら、何か3拍子の曲でも歌え」


そうして、紳士の礼で挨拶し、恭しく蓮の右手を取る。

その指先にチュッとキスを贈る金髪の美丈夫のスマートなイケメンぶりに、一瞬見惚れた蓮が慌てた。

「オレ、女性パートなんて踊れませんよ」

「大丈夫だ。基本が少しでも分かっていると言い張るなら、俺のリードに任せろ。とにかく、列車に戻るまで時間が無い。何でもいいから早く歌え」

帰還時刻の制約と、背中に回された大きな手の感覚に、仕方なしに残った片手をディーンの首筋に回せば、ディーンの唇の端が僅かに上がる。

その意味ありげな笑みを無視して蓮が口ずさみ始めたのは、寄宿学校での課題曲のワルツのメロディ。

「ズン・チャ・チャ……」と口ずさみ始めたそのメロディは曲名も知らないが、試験前に猛特訓したこともあり、記憶に刷り込まれていたものだ。

当時は、自分より背の高い女子達を相手に四苦八苦しながら踊ったのを思い出した。

普通は男性の腕に左手を置くものなのだが、蓮の腕に手を乗せると自分達の腕が張り出し過ぎて綺麗に見えないと言い張り、彼女たちは無遠慮に小柄な年下男の首や頭の後ろに手を置いていた。

つらつらと苦い思い出に浸っていたものの、ダンスが始まった途端、蓮は目を瞠った。


ポージングと予備歩行の後は、ナチュラルスピンターンにリバースターンと、初歩中の初歩的なステップで優雅に滑るようなダンスが始まる。

慌てて足元へと視線を落とすが、絡みそうになる蓮の足を巧く避けて、ディーンは華麗にワルツのステップを刻んでいる。

しかもステップの難易度はどんどん上がっていく。

背に回された大きな手が、背を押す力加減で方向を示す。

リードも完璧だ。

顔を上げれば、余裕の紫の瞳とぶつかる。

「――どうだ、参ったか」

そんな勝ち誇ったようなひと言に、ダブルリバーススピンのステップで遊園地のコーヒーカップのようにクルクルと二人で回りながら、蓮は緑の瞳を輝かせて満面の笑みで答えた。

「すごいよ。こんなに上手に踊れたの、初めてです。――楽しい」

それまでの舌戦も忘れてすっかり上機嫌となった女役に呆れつつ、男役の口元にも柔らかな笑みが浮かぶ。

「そろそろフィニッシュだ。――ちゃんと決めろよ」

そして最後は、女役が身体を反らしてのポージングでピタリと止まる。

しかも、気を良くした蓮が必要以上にのけ反るものの、それを背に回したディーンの手がしっかりと受け止めた。


「――これ、列車の中でも出来るのかな? 後で試していいですか?」

目を輝かせての張りのあるテノールボイスからの呼びかけに、ディーンは呆れた声で返事を返す。だが、その口元には揶揄ではない笑みが残っている。

「まだ俺を躍らせる気か? どうせ、酔っぱらった勢いで言っているんだろうが、帰れば速攻で寝るくせに」

「寝ませんよ。オレには、今日一日のデューディリジェンスの報告を書く作業が残っているんです。どこかのお気楽なオーナー様とは違うんですよ」

「おい。まさかそれは、俺のことを言っているのか?」

「ご想像にお任せします。あとは、一切ノーコメントです」

「言わせてもらえば、蓮。普通のオーナーは、デューディリジェンスには参加しない。つまりはそれだけ、俺が仕事熱心だということだ」

「でも、いつも貴方は仕事を忘れて旅行を満喫しているじゃないですか」

「白状したな、ガキ。やっぱり、どこかのお気楽なオーナーとは俺の事なんだな」

「オレはそんなこと、ひと言も言っていませんよ。言いがかりは止めて下さい」


そんな、二人の喧々諤々な戯言が遠ざかっていく。

だが、その背を物陰に隠れて見送っていた30人以上の男達は、一斉にため息を吐き出した。

「――俺達は、ああいうのを明日からも見続けるのか? 一体、ベルリンまでは、あと何日あるんだ?」

身を潜めて監視していた黒い影達の、そのうち一人が漏らした呟きに、生真面目そうな声が答えた。

「今回はこうして影から護衛するのが我々の仕事だ。今さら文句を言うな、ジャクソン」

その説教じみた言葉に、すかさず反論が返る。

「あたしは、こういうお気楽な仕事も結構いいと思うけどね。それに、坊やの楽しそうな顔は、荒んだ心への一滴の潤滑油。癒しそのものさ」

仕事中にも関わらず、「あたしの崇める宗教では、ワインは水なんだよ」という屁理屈を並べ、すでに2本目のワインボトルを空けた赤毛の女がケラケラと笑った。

「とにかく、これから我々も分散してパリへ移動する。列車を護衛する奴らは気を抜くなよ」

スチュワートの言葉を最後に、その場に居た者達は一斉に行動を開始した。



一方、別の方向から二人のダンスを見つめていた男も、ひとつ深いため息をついた。

「――何なの、アレ? 彼の秘書は、仕事でヨーロッパに来るって言ってたんだよね? 二人とも遊んでいるの?」

正直すぎるコメントに、「何をおっしゃいます」と傍らに控えていた男は柔らかな笑みを返した。

「あれが世に言う、リア充でございますよ」

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