7  彼の未来 彼女の将来

 発達障害が明るみになってから、八坂に対する反応が変わり始めた。目立たない存在だったはずが、学校中に障害者であることが知れわたり、一気に有名人となってしまった。

 由比らのように、今までと変わらず接する人。障害者であることに興味を持ったのか、今まで接触したことがなかったけど話しかけるようになった人。やはり障害には抵抗があり、余計に距離を取ったり冷たい視線を送る人。様々な反応が出始めた。

 しかし八坂は気にしていない。元から打ち明ければ嫌な反応をされることは分かっていたし、その経験は数え切れないほどある。人それぞれの価値観があり、障害をどう捉えるかはその人しだい。自分の考えを押しつける必要はない。そう考えている。

 八坂は、今までと変わらない生活を送っている。送るようにしている。だが、どうしても気になってしまうことができた。

 優愛と二人でいると、どこからともなく、お似合いだね~!いいなあ、私も彼氏欲しい!などの、冷やかしや羨望のような声が聞こえてくるようになった。今までにない注目のされ方であり、八坂は正直とても恥ずかしかった。無論、優愛も同じ気持ち。

 やはり高校生は、障害という小難しく、他人事と捉えてしまいがちなことよりも、恋愛という取っつきやすく、誰もが興味のある話題のほうが早く広く伝わった。

 恥ずかしさは拭えないが、八坂にとっては障害よりも優愛との関係に注目されたほうが気楽だった。だからこの状況を、甘んじて受け入れることとした。


 高校二年生の時間が残り少なくなっていく。三年生になれば、大学や専門学校などの受験を控える受験生か、就職先を探す就活生になる。

 優愛は将来のことを考えていなかった。目の前のことに一生懸命になってしまい、その先を考える余裕は彼女にはなかった。さすがに焦りを感じ始め、とりあえず周りの人たちの意見を片っ端から聞いて回ってみることとした。

 優愛がよく行くカフェに八坂と入る。優愛は、いつもの抹茶ラテのホットを注文する。八坂は抹茶ラテを飲んだことがなく、興味を示したが、いつも通りのブラックコーヒーのホットを注文した。

 このカフェに一緒に行きたかったと嬉しく話す優愛に、八坂は以前美緒に連れられて来たことがあるとは言えず、苦笑いのままカップを口へ運ぶ。

 軽く雑談をした後、将来についてどう考えているか尋ねた。八坂は再び苦笑いをし、少し伏せ目がちに考えるが真剣な表情になり、優愛に向き直る。

「ちゃんと話さないとって思ってたんだけど……」

 八坂は鞄から、以前大正寺谷先生からもらった、大学のパンフレットを取り出す。

「三重にある、清谷大学ってところがあるんだけど」

「えっ、三重?」

 驚きの声の優愛に、八坂は頷いてパンフレットを差し出す。

「ここに福祉の学科があるんだけど。ここ、受けようと思ってる」

「どうしてこの大学なの?」

「ここ、障害者に対して門戸を広げてるんだ。身体障害者のために敷地内全てバリアフリーだったり、入試の時は各障害に合わせて特別な受験方法が準備されてて。俺みたいな人の場合は、マークシート方式になってるんだ」

 八坂の話を聞きながら、優愛は何度も頷いた。

「そっか。そんな配慮があるところなんて、そうはないよね。よく見つけたね」

 パンフレットから顔を上げ、笑顔で八坂のことを見る。

「大正寺谷先生が紹介してくれたんだ」

「あの先生って、意外と面倒見がいいよね」

 頷く八坂。優愛はもう一度パンフレットに目を移す。三重か……遠いな。だけど……。優愛は一度口を強く閉じると、真剣な眼差しで八坂の目を見る。

「八坂くんは、この学校に行きたいんだね」

「うん。俺にとってピッタリだと思う。そこで勉強したい」

 八坂の真剣さが伝わり、優愛の相好が崩れた。

「そっか。じゃあ応援するね」

「……反対、しないの?」

「うん。そんなことしないよ。八坂くんのやりたいことだもん。邪魔したくないし……」

 優愛は小さく息を吐く。目を伏せて話を続ける。

「私は、お母さんのこともあるから関東近郊になると思う。離ればなれになるのは寂しいけど……」

 顔を上げると、優愛は目を細めた。

「新幹線とか乗り継げば、会いに行けるもんね!」

 破顔した優愛の顔を見て、つられて顔が綻ぶ八坂。彼女の笑った顔に何度も救われてきた。離れて生活するようになっても大丈夫。八坂は首を縦に振った。

「うん。会いに行くよ」


 教室の一角に集まる仲間たちに対して、優愛は八坂にしたように、将来のことについて質問を投げかけた。

「うちは英語好きやから、大学で勉強して、英語使う仕事目指すよ」

 三浦は笑顔でそう答えた。英語で学年一位になったこともあるため、その将来の選択は妥当だろう。優愛は目線を由比へと移す。

「由比くんは先生になるの?」

「うん。教養学部目指してる」

「中学の時から勉強できてたもんね」

 感心するように何度も頷く。由比は、中学時代から教師になることを公言していた。ブレずに努力し続けるところを、優愛は尊敬している。

「みんな考えてるんだね……」

 話を切り上げようとした優愛に、小金井は間髪を容れずにツッコむ。

「おい!俺にも聞けよ!」

「どうせ何も考えていないんやろ?」

 三浦のにやついた顔を見て、あからさまに不愉快な表情を返す。

「俺をみくびるなよ」

「どうするの?」

 ようやく優愛からの問いが聞こえてきた。小金井は胸を張って答える。

「花屋になる」

「は?」

 今まで黙って話を聞いていた八坂が、思わず声を出して疑問を呈した。声は出さないが、他の三人も目を丸くし、ぽかんとした表情で小金井に視線を向ける。

「俺の実家、花屋なんだよ。だからなんかプレゼントとかで必要になったら、俺に注文してくれよ。特別価格で提供してやるよ」

 小金井はウインクを決める。優愛は小さく唸り、近くにある椅子に腰かけた。

「みんな考えてるんだね」

 小さくため息をつき、呆れた表情で優愛を振り返る由比。

「もう二年も終わって、すぐに三年生だぞ。なんにも考えてないのはお前ぐらいだよ」

 うーんと再度小さく唸り、机に顎をのせ、目をゆっくり閉じた。


 理科室では、いつもの三人で昼食をともにしている。

「あたしは具体的に何したいかはまだ決めてないけど、とりあえず大学でいろいろ勉強して、自分を成長させながら、何か見つかればいいなって考えてるよ」

「え?てっきり美大に行くんだと思ってた」

「あたしぐらいの絵なら、書ける人はごまんといるから、あたしは埋もれちゃうのは目に見えてるよ。それに、絵なら趣味でも続けられるからね」

 美緒の言う通り、芸術の世界はとても厳しい。芽が出るのはほんの一握りだ。美緒は陽気でぽややんとしているが、現実をしっかり捉え、冷静に自分のことを見ている。

「私は公務員になるために、大学で勉強するよ」

「穂高は頭いいもんね」

 優愛は弁当に入っている唐揚げを掴み上げると、意味もなくそれを眺める。

「あたしみたいに漠然としてても、今の時期ならなんとなく考えるんじゃない?」

「由比くんにも似たようなこと言われた」

 苦笑いして、唐揚げを口へ放り込む。

「まあ優愛はやればできる子だから、今すぐ見つかんなくてもどうにかなると私は思うけどな……」

 目を伏せながら穂高は口を開く。優愛は黙ったまま穂高を見つめている。沈黙に気がついた穂高は、ゆっくりと顔を上げる。

「……どうしたの?」

「いや、さっき、私のこと褒めた?」

「え?」

「私、初めて穂高に褒められた」

 優愛はゆっくりと顔を綻ばせ、ふふっと小さく照れ笑いを浮かべる。その反応に穂高も照れると、耳を赤くしながら目を逸らす。

「別にそんなつもりじゃないけど」

「またまた~。素直じゃないなあ」

 美緒がにやにや顔で穂高の二の腕を肘でつついた。


 放課後、優愛は八坂と一緒に柿の木学園へと向かった。もう一人、今後のことを聞いておきたい人物がいる。

 学園のエントランスを通り、事務室前まで行くと、おしどりカップルだ!と、男の子の声が響いた。ぎょっとした二人は、声のした方向へと目を向ける。それと同時に、学園の子どもたち数人があっという間に二人を取り囲む。おしどりカップルのシュプレヒコールが行われた。

「ちょっとちょっと、みんなどうしたの?」

 顔を朱色に染めながら、子どもたちをなだめようとする優愛。しかしそれは逆効果となり、どんどん盛り上がっていく。

 意地汚い笑みでこちらを見据えている森内の姿を、八坂は見つけ、眉間にしわを寄せた。

「学さん!子どもたちになに教えてんの?」

「いやいや、楽しいじゃん」

 森内の返答を聞き、八坂は大仰にため息をついた。通路の向こう側に、通りかかったこころの姿を見つけた優愛は、子どもたちの群れをかきわけ、こころのそばまで小走りで近寄る。こころはいつも通りの愛嬌のある笑顔で迎い入れる。

「こころちゃんに聞きたいことがあるの」

「な、何?」

「こころちゃんは、学校卒業したら学園を退所するんだよね?」

 頷くこころ。

「卒業したら、何するかもう決めてるのかなって思って」

 優愛の問いを聞き、口角を上げる。

「そ、卒業したら、…学園の職員として、働くことになったの」

「え、そうなの?」

 こころはくしゃっと顔を綻ばせる。

「ま、学さんが紹介してくれて、すぐに決めた」

 こころの今後がどうなるのか、少し心配になっていた優愛は、嬉しい反面、少し寂しい思いも抱いた。


 優愛はため息をついて、足元に目を向けた。学園からの帰り道。隣を歩く八坂は、俯いた優愛の顔を覗きこむ。

「どうしたの?」

「あ、ううん。みんなちゃんと将来のこと考えてるんだなって思ったら、なんか、自分がどうしようもないなって感じちゃって……」

 顔を上げると、頬を掻きながら苦笑いで八坂へ視線を向ける。八坂はしばらくその顔を見つめると、目を自分の前方へと向けた、

「別に今、決める必要はないんじゃないかな」

 八坂の発言を聞き、小さく首を傾げる優愛。八坂は前を見据えながら続ける。

「みんながみんな、やりたいことを決めてから大学に進むわけじゃないと思うんだ。環境が変われば視野が広がるかもしれないし、いろんな人と会う機会があるだろうし。大学の四年間でやりたいことが見つかるかもしれない」

 八坂は微笑を浮かべる。

「何かをやるために大学に進むんじゃなくて、何がやりたいかを見つけるために大学に進んでもいいんじゃない?」

 八坂は視線を優愛へと向けると、優しい笑みで語りかける。

「高山さんなら、それでも十分やりたいことが見つかると思う」

 八坂の表情と声を受け取った優愛は、自分の顔が赤く染め上げられていくことを実感し、腑抜けた声とともに両手で自身の顔を覆う。

「え、大丈夫?」

 少し焦る八坂。優愛は覆ったまま、首を何度も横に振った。

「今の、凄いキュンとしちゃった」

「え?」

 八坂は呆けた顔になる。両手をどかし、八坂を見つめる優愛の顔は、ゆでだこのように真っ赤だ。

「八坂くんのそういうとこ、私を元気にさせてくれる。ありがと」

 八坂は思わず顔を背ける。

「あ、うん。元気になったんなら、よかった……」

 ぷっと優愛の吹き出す笑い声が聞こえる。八坂も小さく笑った。


 自宅で夕食をとっている最中、柄にもなく鼻歌を口ずさんでいることに気づいた優愛は、急に口をつぐんだ。しかし、感情は表に出てしまい、口元がにやついている。その様子を対面して眺めていた優愛の母親は、目を細めて口を開く。

「優愛。あんたもしかして……」

 優愛は顔を上げ、母親の顔を見る。

「彼氏できた?」

 思わず箸でつまんでいた白米を落とす。

「え、な、なんでそう思うの?」

「女の勘」

 あっさり言い切られ、優愛は目を伏せる。

「えっと……うん。一応は……」

 母親の顔が大きな花を咲かせる。

「あら本当?あんた初めての彼氏よね?よかったあ!このまま将棋と結婚するなんて言い出したら、お母さんどうしようって心配してたの。よかった。あんたもちゃんと普通の女の子だったのね。よかった。で、その子はどんな子?学校の子?クラスの子?」

 まるで思春期の女の子のように、いい歳した母親がはしゃいでいる。それに対しても恥ずかしくなった優愛だが、こうなってしまっては、話に付き合わなければこの状態を打破することはできない。

「クラスの子」

「やだ、青春!なんかお母さんまでドキドキしてきちゃった!今度その子、家に連れてらっしゃい。お母さんが腕によりをかけてご馳走作るから!」

「いやいや、なんで?」

「お母さんだってどんな子なのか見てみたいし。それに、未来の婿殿のことは早めに知っとかないと」

「未来の婿殿って、話早すぎでしょ」

 赤くなった耳を触りながら、優愛はため息をつく。あら、と声を上げた母親は、優愛に顔を近づける。

「早すぎってことは、いずれその子と結婚してもいいって思ってるってこと?」

 その言葉を聞き、顔がさらに熱くなるのを感じた優愛は、目を伏せて黙りこんだ。無邪気な笑い声を上げると、母親は優愛の頭を軽く撫でた。

「いつ招待するか決まったら教えてね」

 母親は上機嫌で台所へと向かっていった。

 優愛は、お母さんにかなわない。女手一つでここまで育ててくれて頭が上がらないということもあるが、一度言い出したらきかないのがお母さんなのだ。

 大仰にため息をつくと、落とした白米を拾い上げた。


 優愛には興味を持つようになったものがある。福祉についてだ。八坂の障害を知り、こころの障害を知り、施設に入らざるをえない子どもたちを知った。

 八坂と同じように、福祉系の大学に進学してもいいかもしれない。しかし知識がないため、福祉の領域に進んでもいいのだろうかと思っていた。

 通りを歩いていると、一人の男性が立っているのが目に入った。その人は杖を空へ向けて垂直に掲げている。よく見ると、視覚障害者が使う白杖であった。ずっとその場を動かず立つ続けているため、優愛は男性の前まで歩みを進めた。

「あの、何かお困りですか?」

「ええ。そうなんですよ。駅に行きたいのですが、方向が分からなくなってしまって」

 優愛の予想は当たっていた。こういう場面で声をかけるのは、とても勇気のいることだ。

「駅なら私と方向が一緒なので、ご案内しましょうか?」

「本当ですか?それはありがたいことです。ぜひお願いします」

「はい。……あ、その……」

 優愛は相手と自分の身体を見比べる。案内すると言ったが、どうすればいいのだろうか。

「どうやってお連れしたほうがいいですか?私、初めてでして」

「ああ。すみません。では……」

 男性は少し間を置くと、口角を上げて話を再開させた。

「私とあなたは身長差がありますので、私の左手をあなたの右肩にのせてもらって、連れていっていただけますか?」

「え?あ、はい。では……」

 優愛は男性の発言に引っかかったところがあったが、それを問うよりも言われたことを実行することを先行する。

「では、進みます」

 優愛は肩に置いた手が離れないよう、歩くスピードに注意しながら歩き始めた。

 しばらく進んだ後、さっき引っかかったことを尋ねてみた。

「あの、質問してもいいですか?」

「ええ。どうぞ」

「その、白い杖を持ってるってことは、視覚障害の方ですよね?」

「そうですよ。子どもの頃から視力が弱くて。今は両目とも光を捉えられるくらいです」

「なら、なんで私と身長差があるってことが分かったんですか?」

 見たところ、男性は180センチを超えているように見える。優愛との身長差は約30センチある。目が見えないのに、身長差があることにどうして気づいたのか。

「ああ。目が見えない分、聴力が発達してまして。あなたの声を聞いて、方向や位置を判断したんです。あなたの声は、私の耳よりもけっこう低いところから聞こえたので、差が大きいと分かったんです」

「へえ、凄いですね」

 優愛は感嘆の声を上げた。

「あなたにも体験できますよ。目を瞑った状態で、他の人から声をかけてもらうんです。それでどこから声がしたのかを当てる。みたいな」

「あー、いや。私は無理ですね」

 優愛は首を横に振りながら否定した。

「救急車の音も、車が見えるまでどこから来るのか分からないので」

「そうですか。その経験がありますね」

 男性は小さく笑った。人は良さそうに見える。優愛はもう一つの質問をした。

「私が声をかけた時、杖をこう、上に向けて掲げていましたよね?あれはどういう意味ですか?」

「あれは、困ってるから助けてくださいっていう合図なんです」

「そうなんですか。知らなかった」

「知らない人が大多数ですよ。……少しおかしいですよね。目が見える人へのSOSのサインなのに、その人たちが知らないのですから」

 笑い声も交えていたが、その声が寂しく聞こえた。優愛は一度ためらうも、意を決して口を開く。

「……あの、障害がある人にとって今の世の中って、生きづらい、ですか?」

 少しの沈黙が流れる。それは五秒ほどであったが、優愛にはとても長い時間に感じ、唾を飲みこんだ。

「……ええ。生きづらいですね」

 そう言い切られ、優愛は絶句してしまう。八坂もこころも、苦しい生活を送っていた。しかしその苦しさは、周りの理解があれば軽減することができた、もしくは経験することはなかったかもしれないことである。

「日本でも障害者に対する理解や配慮は、少しずつではありますが、広がってきています。でも、まだまだです。全く足りません。私が視覚障害者であることは、たいていの人は分かったはずです。でも、あなたに声をかけてもらうまでに、どのくらいの人が私の前を素通りしたでしょうか。点字ブロックの上に自転車を止めて私たちの道を阻んだり、クスクス嘲る声が聞こえたり。私たちは何も悪いことはしていないのに……」

 その光景は、容易に想像することができた。八坂のことを知る前の自分なら、声をかけていただろうか。もしかしたら、今までもこのような場面に遭遇していながら、無意識に見ないようにしており、気がついてさえもいなかったかもしれない。

 優愛は何も言うことができず、ただ男性の話を聞くことしかできなかった。

「だけど……」

 さっきまでの寂しい声色とは一転して、明るく聞こえた。

「悲観はしていませんよ。そうなれば、悪い方向にしかいきませんし。あなたみたいな人がいてくれるので、前を向けるんです」

「あ、どうも……」

 褒められるとは思ってもみなかったため、つい照れてしまい曖昧な返事となってしまった。


 男性の目的地である駅にたどり着いた。

「中まで一緒に行きましょうか?」

「いえ、ここまで来られれば大丈夫です。本当にありがとうございました」

 男性は優愛に向かって一礼すると、白杖をつきながら歩き始めた。

「あの!」

 優愛が男性を呼び止める。足が止まり、ゆっくりと優愛のほうを振り返った。

「私、福祉の道に進もうか迷っているんですが、私に向いてると思いますか?」

 男性にどう答えてほしかったのか。優愛はとにかく意見を聞いてみたかった。男性は少しぽかんとしていたが、笑顔になって優愛の問いに答えた。

「向いているかどうかは分かりませんが、あなたのように障害者に声をかける勇気のある人が、私たちの救いになっていることは、間違いありませんよ」

 男性は小さく頭をさげ、歩みを再開した。救いになっている。その言葉を聞いた優愛は、今までの迷いがスーっと消えていくことを感じた。


 優愛は大正寺谷先生と一緒にいる。その場所は、以前八坂のことについて先生と話をした応接室であった。

「進路について相談したいんですけど」

「おお!やっとその気になったか」

 先生は感心したように笑顔になると、自分の隣に置いてある紙袋に手を入れた。その行動を優愛は小首を傾げて眺めていると、目の前に複数のパンフレットが広がった。

「え?」

 驚いてそれを手に取り、いくつか眺める。

「家から通えそうな範囲で、福祉関係の学部・学科がある、国公立大のパンフレットだよ」

 優愛がこれから伝えようと思っていたことを、見事に具現化されたものが、目の前に広がっている。

「なんでですか?」

 目を見張り、大正寺谷に疑問を投げかける。先生は破顔した。

「前にも言ったべ。俺はけっこう生徒のことをよく見てるって」

「……先生。尊敬します」

 取っつきにくくて苦手としていたのだが、一瞬で大好きな先生へと心境が変わった。先生は誇らしげに笑みを浮かべて、声を上げた。


 優愛と八坂は、学校を基点に真逆の方向に自宅がある。そのため、通学時に同じ道になることはない。放課後、柿の木学園へ向かう時は、八坂の隣を歩くことができる。その時間が、優愛には好きだった。

 この日は八坂に伝えたいことが二つあった。母親からの招待と、自分の将来についてだ。歩きながら話を切り出す。

「八坂くんに伝えたいことがあるんだけど」

 八坂の優しい眼差しが向けられる。

「私、福祉の大学目指すことにしたの」

「え?」

「あ、別にね、八坂くんの真似したとか、焦って決めたわけじゃないよ」

 優愛は目線を正面に向ける。

「八坂くんと話すようになって、八坂くんの障害を知ったし、こころちゃんとも出会って、いろんな思いをしていることも知って……」

 視線を八坂に戻す。

「福祉を勉強して、八坂くんやこころちゃん、学園の子どもたちのこと、もっとちゃんと理解できるようになりたいなって思ったの」

 優愛の話を黙って聞いていた八坂に対し、どう思う?と尋ねる。彼は真面目だった表情を崩し、柔らかな口調で返答する。

「大賛成!」

 その言葉に安堵した優愛は、少し緊張していた顔を和らげた。

「あ、あとね、お母さんにね、八坂くんのこと家に招待しろって言われて」

 八坂は目を丸くする。

「それって、娘の彼氏を見定めるってこと?」

「ううん。お母さんマイペースだから、ただ興味本位で君に会いたいだけだと思う」

 八坂は腕を組んで少し考え始めた。彼が断わるのなら、それを正直に母親に伝えるまでだ。優愛は何も言わず、八坂の言葉を待った。

「……いずれ挨拶しないといけなくなるんだろうし……」

 八坂は笑顔で優愛を見た。

「行くよ」

 優愛は頷いて答えたが、八坂の呟きが気になった。いずれ挨拶しないといけない。それはどういう意味なのか。会う、ではなく、挨拶、と言った。その言葉が何を意味しているのか。その答えを八坂に聞くことはやめにした。自分が思っていることと違っていたら、地獄に落ちたくなるほど恥ずかしいからだ。それに、そのまま妄想に浸っているのが、なんとなく心地よかった。


「あら、思ってたよりかわいいわね!」

 キャピキャピはしゃぐ優愛のお母さんを前に、終始たじたじの八坂。

 優愛の家を訪れた八坂。事前に優愛から、お母さんがどういう人なのかを聞かされてはいたが、実際に会うと、なかなかの威力だ。

 優愛はなだめるのに必死だが、エンジンのかかったお母さんを止める術を、今の優愛はまだ身に付けていない。

「あ、そうだ。近々ね、優愛の将棋クラブがアマチュアの大会に出るんだけど、八坂くんも一緒に応援に行かない?」

「大会?」

 呟いた八坂は、優愛に視線を移した。少し照れながら頷く優愛。八坂は口角を上げて、お母さんに視線を戻した。

「高山さんが将棋やってるところ見てみたかったし、行きます」

 八坂の返答に、少し恥ずかしくなって頬を染める優愛。にやにやしながら見ているお母さんの視線を察知し、余計に恥ずかしくなる。

「もういいから、早く準備しよ。八坂くんはテレビでも見てて待ってて」

 優愛はお母さんを無理矢理台所へと押しこんでいった。


「今日はご馳走になりまして、ありがとうございました」

「口に合うか心配だったけど」

「はい。おいしかったです」

「あら、嬉しいこと言ってくれるわね」

 優愛のお母さんが無邪気な笑みをみせた。食事が終わり、優愛は食器洗いを行っている。八坂とお母さんは、リビングにあるこたつで話をしている。

 お母さんは少しトーンを抑え、八坂に問いを投げかけた。

「ねえ八坂くん。どうしてあの子のこと、好きになってくれたの?」

「え?」

「ほらあの子、凄く不器用でしょ?素直すぎるというか、周りが見えなくなることも多いし。一緒にいて大変じゃない?」

「いえ、大変だなんて、そんな……」

 八坂は優愛に視線を移す。リビングからは台所に立っている彼女の後ろ姿が見える。お母さんに視線を戻す。

「彼女から、俺のことは聞いてますか?」

「学習障害のこと?」

「はい」

「ええ、聞いたわ。あの子、その障害について熱心に調べてるみたいで」

 八坂は微笑を浮かべた。

「障害のことを打ち明けた時、彼女はすんなり受け止めてくれたんです。それからも積極的に話しかけてくれて。そんな人は初めてでした。避けられたり、嫌な目で見られることが普通だったのに。よく笑って、よく泣いて、よく悩んで。自分に正直に生きてるとこが魅力的で。高山さんと一緒にいて、俺の周りが変わっていって、自分の気持ちも変わっていって……」

 ここまで一気に話した八坂は、一度間を置き、目線を優愛の背中に向けた。

「高山さんのおかげで、今の俺がいるんです」

 思わず顔が綻ぶ。だがすぐに表情を変え、目線をお母さんに戻す。

「あ、質問の答えになってないですね」

「ううん。あの子のことを必要としてくれてるってことでしょ?それを知れただけでも嬉しいわ」

 お母さんの柔らかい表情を見て、八坂も自然と口角が上がる。今度はお母さんが、優愛に目を向ける。

「離婚しちゃってせいで、あの子には迷惑かけちゃったわ。あの子が周りに好かれない人になってしまったら、私のせいだってずっと不安に思っててね」

「好かれてますよ」

 間髪を容れず、八坂は言葉を発した。

「友達にもクラスメイトにも。それに俺の障害を受け止められたのも、自分が嫌な思いをしたから受け止められるのかもって言ってくれましたし。少なくとも、お母さんは責任を感じるようなことはしてないし、彼女も気にしてないんじゃないかなと……」

 少し偉そうなことを言っているような気がして、八坂の声は尻すぼみになっていった。お母さんは笑顔になる。

「ありがとう。八坂くんは優しいのね」

「いや、そんなことは……」

 恥ずかしくなり、頭を掻く八坂。

「あの子の名前の由来ね。誰にでも優しくできて、どんな人でも愛せるように。そんな願いをこめて、『優愛』ってつけたの」

「なら、お母さんの願い通りに育ってますね。俺は高山さんの優しさに支えられましたから……」

 そこまで言うと、八坂は顔が真っ赤になった。何をさっきから、彼女の母親に対して言っているのか。ものすごく恥ずかしくなり、顔を伏せてしまう。お母さんが破顔する。

「あの子のこと、信用してくれてるのね」

「え?」

「あなたの話を聞いていると、そう感じるわ」

「信用……」

 八坂は呟き、優愛のことを見やる。他人を信用できなくなってから、誰かを信じるとかを考えないようになっていた。自分は誰かのことを信じられるようになったのだろうか。優愛のことを信用しているのだろうか。

 少し考えにふけていると、お母さんが姿勢を正していることに気がついた。

「ふつつかな娘ではありますが、優愛のこと、これからもよろしくお願いします」

 三つ指をついたお母さん。八坂も慌てて正座すると頭を下げた。

「え、あ……。こちらこそ、よろしくお願いします」

 同時に頭を上げた二人は、思わず吹き出してしまう。笑い声が聞こえたのか、優愛がリビングを振り返った。

「ちょっとお母さん!八坂くんに変なこと言わないでよ!」

「言ってないわよ。談笑してただけ」

 八坂とお母さんは目を合わせ、また笑い声を上げた。


 マンションを後にし、優愛と八坂は駅に向かって夜道を歩いていた。

「今日はありがとね。お母さんが勝手に言い出したことだったのに」

「ううん。楽しかったよ。面白いお母さんだね」

「いやあ!もう恥ずかしい!」

 優愛は両手で顔を覆った。勢いがついていたため、パチンと乾いた音が響いた。

「余計なこともいろいろ話してしまう人だから」

 手をどかして露わになった優愛の頬は、ほんのり赤くなっている。さっき叩いたせいだろうか。

「けど、あのお母さんだからこそ、高山さんが生まれたのかもね」

「……それって褒めてるの?」

 優愛が眉をひそめて八坂の顔を見る。八坂は一度目線を優愛に向け、すぐに逸らす。

「……褒めてるよ」

「ちょっと!なに今の間は!」

 少し頬を膨らまして軽くにらむ優愛。八坂は失笑する。つられて優愛も顔を緩めた。

 二人に向かって北風が吹きつける。無意識に身体がビクッとした。

「寒いね」

 呟いた八坂。その直後、自分の左手が温かいものに包まれた。視線を落とすと、優愛が手を握っている。

「あったかいでしょ?」

 優愛の微笑みが目に入った。頬の赤さが増している。照れや恥ずかしさも加わったのだろう。八坂も顔が赤らむのを感じた。

 八坂は優愛の表情が好きだ。正直な感情が表情に表れる。いろんな表情を見るうちに、他の表情を見てみたい、ずっと見続けていたいと考えるようになった。

 八坂も手を握り返す。この手を放したくない。ずっと握っていたい。二人は同じことを頭の中に浮かべ、この時間を楽しむように、ゆっくりと夜道を歩いていった。


 優愛の将棋大会の当日は、あいにくの雪の降る空模様。夜までにはやむ予報ではあるが、それまでに幾分積もりそうだ。

 優愛たちのクラブの参戦組が、円陣を組んでいる。横浜にある市民会館が、大会の会場となっている。対局が行われる会議室へと続く廊下の一角は、緊張の空気で満たされている。こわばった笑みで仲間と声をかわす優愛の顔を、遠目に見つめていた八坂は、優愛のお母さんの促しを受け、観覧スペースへと入る。

「思ってたよりも、人が多いですね」

「カメラマンがいるとは思わなかったわ」

 この大会は、アマチュアのクラブやサークルなどの交流を深めることを目的として行われている。対局に勝利したからといって、賞金があるわけでも、賞品があるわけでもない。しかし、将棋人口の裾野を広げるために将棋雑誌に取り上げられることもあり、カメラマンや記者も集まる。また、昨今の将棋ブームも相まって、注目度が急上昇。観覧者も多く会場にいる。

 対局を行う十人が会議室に入ると、部屋の中が一気に静まりかえった。席に着くと、司会のアナウンスに続いて一斉に頭を下げる。先手が駒を打つ音が響いた。

 各チーム五人ずつ参戦し、同時に対局を行う。三勝以上したチームの勝利となる。

 盤上を映せるように天井にカメラを設置しており、全ての対局をモニターに表示し、様子を見られるようにもなっている。

 八坂はモニターを眺めているのだが、駒の動かし方すら知らない将棋無知からすれば、何がどうなっているか全く分からない。それはお母さんも同じようで、どうなってるの?と八坂に聞くため、分かりません、としか答えることができない。

 持ち時間が短く設定されている早指しであるため、八坂の予想よりも早く動きがあった。

 参りました、と対局が始まってから、初めての声が聞こえた。勝ったのは優愛のチームの久世だった。八坂は心の中でガッツポーズをする。しかし、二つ目、三つめの負けを認める声は、優愛のチームからだった。一勝二敗。あと一つ負けると敗北となる。

 八坂はモニターから優愛へ視線を移す。遠目だが、険しい表情をしている。劣勢なのだろうか。自然と拳に力が入る。

 優愛は忙しなく黒目を動かすと、おもむろに目を閉じ、ゆっくりと手を頭へ持っていき、カチューシャに指先を触れさせる。ふーっと長く息を吐くと目を開き、持ち駒を指で持ち上げると、相手陣地へそれを打ちこんだ。数秒後、優愛の対戦相手が頭を下げた。笑顔で八坂を見るお母さん。八坂も笑顔で返す。

 これで五分となった。優愛は右隣りで今も対局を続ける長谷川の顔を見る。頑張れ!と目でエールを送る。長谷川は扇子を扇ぐ手を止め、駒に指を伸ばした。


「みんな、ごめん」

 長谷川は仲間に対して頭を下げた。彼は勝つことができず、チームは負けてしまった。半ベソの長谷川の背中を優愛は優しく撫でる。

「長谷川先輩、泣かないでください。私たちは精一杯やったじゃないですか」

 そうだ、と他も追従する。長谷川はゆっくりと顔を上げる。

「ありがとう」

「けど、やっぱ勝ちたかったよな」

 久世の余計な一言。せっかく上がった頭は、またもうなだれてしまい、背中が丸まった。

「ちょっと!久世先輩!」

 優愛の声に続いて、小さく笑い声が響いた。


 帰りは二人でごゆっくり!との言葉を残し、お母さんは先に帰ってしまった。ロビーのソファーに座って待っている八坂のもとに、優愛が小走りで近づいてきた。

「お疲れ。残念だったね」

「うん。でも私は、楽しく将棋ができればそれでいいから。今日も楽しかった」

 満足した笑顔で答える優愛。それはとても愛おしく、八坂は抱きしめたり、頭を撫で回したい衝動にかられた。だが人の目につくところであり、それを押し留めた。

 二人並んで市民会館から外へ出る。空はまだ白い雪を降らせている。

「明日は朝から晴れるんだよね?」

「うん。天気予報ではそうだったよ」

「じゃあ、アイスバーンに気をつけなきゃだね」

 優愛は不必要に足を高く上げると、力強く地面を踏みしめた。3センチほど雪が積もった道が、サクッと声を上げる。優愛は小さな笑みを浮かべる。

 八坂は優愛の笑顔を見るなり、彼女の右手を握りしめる。優愛の目線が八坂へ向けられる。付き合っているのだから、手をつなぐのにいちいち理由をつける必要はない。しかし八坂は気恥ずかしくなり、頬を掻きながら取って付けたような理由を述べた。

「転ばないように、ね……」

 少しぼーっと八坂を見ていた優愛は、目を細め口角を上げた。

「私が転んだら、引っ張り上げてね」

「うん。絶対に引っ張り上げるよ」

 二人は笑顔を分かち合うと、駅に向かって歩き出した。


 翌日は朝から快晴だった。日差しが強いこともあり、冬場の気温なのだが体感温度は暑く感じられる。

 八坂は教室に入るなり三浦に捕まり、由比や小金井がいるところまで連行された。友達がいなかった期間が長かったせいで、おしゃべりの輪の中にいることに、初めの頃は戸惑いがあった。だが今はもう慣れている。

 誰かがすぐそばにいるこの状況が、とても心地よかった。

 ホームルームの始まるチャイムが鳴り、生徒たちは自分の席へと着く。八坂はいつもと違う違和感を覚え、身体を捻り一番後ろの席を見た。そこは優愛の席なのだが、主の姿はなかった。

 大正寺谷先生が教卓につき、教室を見渡すと、小首を傾げた。

「高山は休みか。連絡はなかったけどな……」

 八坂は心配になり、ポケットから携帯を取り出した。


 ホームルームが終わり、一限目までの短い空き時間に、八坂は美緒と穂高を訪ねた。

「私も何も聞いてない」

「電話とかメール送っても、返事がないんだ」

「何かあったのかな?」

 美緒の言葉を聞き、さらに心配になる八坂。携帯を操作し、優愛に電話をかける。

 数回の呼び出し音の後、通話がつながる音がした。

「あ、高山さん?」

 電話口から返ってきた声は、優愛のものではなかった。

「あ、すみません。私、相模中央病院の看護師なのですが」

「え、病院?」

 八坂の発言に、美緒と穂高は素早く反応した。

「何か、あったんですか?」

 問いかけに対する答えを耳に入れた瞬間、八坂は目を大きく見開いた……。

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