第3話 そのどちらにも与しない状態

資料といっても、たった四ページほどであった。しかもだれでも手に入れることが出来そうな情報しか書いていない。

「ここまでが大岳会の歴史、これが基本データ、これが日本全国の拠点一覧だ。」

こんなもの大岳会公式サイトに載っていそうなものだ。本当に一度警察が捜査を行ったのか疑わしい、と諫早は感じた。


 「これが保護された元信者に関する情報だ。今は都内のシェルターで匿っているらしい。」

江はパソコンの画面から目を離さず、マウス全体をせわしなく指で撫でている。画面の中に一枚の写真があった。年齢は四十歳くらいか、山を下りて逃げて来たらしく作務衣が何カ所も切れてボロボロになっていた。少しヨーロッパ系の血が入っているのか、肩くらいまでの髪の色は少し赤茶がかっていた。その髪は栄養が行き届いていないのか毛先が好き勝手な方向に曲がっている。くっきりとした二重の瞳はよどみ、首筋ははっきりと見えていて一目で衰弱していると分かった。


 「これはひどいですね…。」

諫早の言葉が聞こえているのかいないのか、江は資料を読み進める。

「保護されたのは四日前の早朝五時。青梅市白丸の交番に駆け込んできたらしい。

名前は横手というらしいが、国民全員のデータと合わせても横手という名前の行方不明者はいないそうだから、おそらく本名ではない。


自分が横手と呼ばれていた、ということしか覚えていないらしく、おそらく大岳会によってつけられた名前だろう。あそこは信者に山の名前を付けていると聞く。現在は顔写真から身元を割り出している途中だ。持ち物を一切持っていないから、身元が分かるまで時間がかかるかもしれない。」

 しゃべり終えた江が得意げに諫早の方を向く。

「どうも、ご丁寧にありがとうございます。」

 慇懃に諫早がそういうと、江は口の端を少し緩ませた。


「私たちがすべきことは、心鋼大岳会が信者に対して違法な行為、または信教の自由の範囲から逸脱するような行為をしているかどうか調べること、ひとまず、それだけですか?」

「そうだな、身元の確認は係長の主導で別の捜査員が行ってくれるそうだから、私たちはさっそく大岳会の捜査に繰り出そうじゃないか。」




日本国憲法第二十条


一、 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から  特権を受け、または政治上の圧力を行使しない。

二、 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式または行事に参加することを強制されな   い。

三、 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。



 諫早は捜査の前に信教の自由についての条文を読むことを常としていた。宗教団体を捜査する際、警察官、国の人間として問うのは「その教えの正しさ」ではない。どれだけ無茶苦茶な教えであっても、それを信仰する人々の自由を犯すことは許されない。問うべきは「その団体が違法な行為をしているか否か、その団体が、国家に対して脅威であるか否か」なのである。

 

 自由は、どこまでも自由というわけではない。いつも人と人との関わりの中で自由は線引きされてゆく。その線引きを行う基準の一つが、法律であると諫早は考えている。とはいっても、目に見えない世界を存分に語る宗教を、世俗の、この島国の本一冊分の条文で縛るとはひどく奇妙な話だ。それでも諫早は自分を傷つけ、自分を救った宗教というものがより正しく在るように願っていた。そしてめざす正しさのためなら、殉職などいとわないという覚悟さえも持っている。

 

 一方、江は捜査中出てくるであろう暇な時間をつぶすため、部屋の端においてある登山用リュックに蔵書を詰めていた。七課の部屋の端は江の持ち込んだ本が百冊ほど乱雑に積まれており、一カ月おきにさらに新しい本が積み重ねられている。


 江は都内の大学の文学部を修士で卒業している。大学時代はキリスト教における聖書解釈の研究者として将来を期待されていたが、「キリスト教の研究だけで人生を終えるのは嫌だ。」と言い出し、公安に入ってきた。江の望み通り入庁以降は様々な宗教の捜査をすることが出来て満足そうだが、江はどこか宗教に対し、「自分を楽しませてくれる娯楽の一つ」と考えているようなところがあった。常識では考えられないことをたくさんの人が信じているのが面白い、奇想天外な儀式を眺めているのが愉快、というように少し信仰深い人を小馬鹿にしているようだった。

 

 諫早はこのような態度を不満に思いながら、宗教に関する知識ではかなわないので一応江のことを認めていた。より正確に言うと、仕事では江の知識が役に立つし、いざ江の態度でトラブルが起きれば自分が無理やり止めればいいこと。様々な宗教に詳しいパートナーなど警察では他に見つからないから妥協しておこう、といったところである。


江はその心の内を知ってか知らずか無邪気に諫早に話しかけてきた。

「大体何泊くらいになるだろうか。こういう調査では一週間が妥当なところだな。」

相変わらず蔵書の選定をしながら、楽しみで仕方ないのか切れ長の瞳からキラキラ光がこぼれている。


「その前に、宿はどうするんですか。まさか山に野宿するつもりですか。」

「交番に泊めてもらうとか…?」

「いきなり二人で行っても眠れるスペースはないと思いますよ。おとなしく近くのホテルでも取りましょう。」

そう言いながら諫早はすぐにホテルの予約サイトを立ち上げ、数十秒で青梅駅近くのホテルを予約した。もちろん駐車場設備があるかどうかチェックも欠かさない。一連の行動を見ていた江はにやにやと笑い、パソコンの画面をのぞき込んだ。

「一緒の部屋か、楽しみだ。」

そう言って諫早の方を向きなおして、またにやりと笑った。

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