イリーガル・プレイ~警視庁公安部宗教団体等調査課~

青梅 

第1話 アラビアジャスミンの朝焼け

プロローグ


 扇風機が慌ただしい空気に触れてカラカラと鳴った。母はどこかへ行く準備をしているようで、傍目にもわかるくらい汗をかいていた。電気もついていないし、エアコンも止まっている。

 

 「もうこの家のコンセントは使えないの」と母は言っていたけれど扇風機は回っているじゃないか。私は一人慌てる母を見つめていた。もうテーブルやいすも無かった。それらは昔、近所の家具屋さんで買ってきた上等なものだったというけれど、もうどこかへ行ってしまってから長い時間が経っていた。母はどこかへ行く準備をしている。それがどこなのかは分からないが私も一緒に連れて行ってくれるのだろうか。


「お友達には挨拶した?」

母は振り返らず、相変わらず何か焦った調子で言った。

「うん、ちゃんとしてきたよ。」

本当は友達なんていなかった。間違った教えを信じる友達と遊ぶことは母が禁じていたから、学校で仲が良かった友達と遊べなくなったのだ。


 母が変わってしまったのかは分からない。でも私自身は何か変わってしまったのだろう、仲の良かったすずねちゃんとも、はーちゃんとも違うものになってしまった。でも今までと違うからといって、それに何の問題があるのだろう。母はいつでも私のそばにいてくれたし、私は母のそばを離れなかった。だからこれから行くところだって一緒なはずで、怖いことなどないはずだ。

 

 私は一歩二歩と母に近づいた。しかしすぐに何か固いものにぶつかる。それは大きな缶ジュースのような形をしていて、少し持ち上げようとしたが幼い私にはひどく重たいものだった。よく見ると母の周りにいくつかその缶ジュースのようなものが置いてあって、鈍い光を放っていた。窓からさす光は夕焼けの光だった。カーテンの隙間から赤い光がこぼれだしてちょうど母の首筋を一本の線で照らした。


「ハルちゃん、それじゃお母さんと一緒に行こうねえ。」

今度は振り返ってそう言うと母は静かに立ち上がり、缶ジュースのようなものを次々と転がしていった。ガソリンスタンドに行った時のようなにおいが立ち込めてくる。そういえばまだ父がいたとき、ハウステンボスにみんなで行ったことがあった。父は用心深い人だったからどこへ行くにも車のガソリンを入れてから出発していた。ガソリンスタンドの店員さんが窓を拭くのに合わせて私も身体を揺らして、それを見ていた父と母が笑っていた。


「こっちにおいで。」

 母は手を広げて私を待っている。早く母のもとに行かなくては、もっと笑ってほしい、私は母の力になれただろうか。どうしようもないくらい心臓が早鐘を打つ。どきどきとして騒々しい心がかろうじて発したお母さん、という言葉は炎に包まれた。



一、



 相変わらず人の多い通りだった。朝の荻窪駅前は通勤や通学の人でごった返し、さらに電車の遅延まで出ているらしく改札前にまで多くの人が並んでいた。それを一目見た諫早春巳(いさはやはるみ)は大きくため息をつく。

 

 もう長年電車通勤をやっているがそろそろ車通勤に切り替えるべきだろうか。なにせ職場の桜田門までは電車で四十分近くかかるし、家から最寄り駅までが徒歩十五分、桜田門に着いてから職場まで五分かかる。いい加減この非効率的な時間をどうにかしたいと思ってはいるが、警察の安月給で車のローンと維持費を払えるとも思えない。そもそも労働基準法などない世界で働いているので車を買ってもドライブなど行けそうにない。


「さすがに隣の部署の仕事をやるのは勘弁してほしい…。」

 諫早は法学の大学院を出ており、法律的な知識が非常に豊富であった。そのため担当以外の部署から書類の確認を頼まれたり、ひどい時だと代理で書類を書かされることもあった。確かに諫早の所属している部署は年がら年中仕事があるようなところではないが、仕事のない日は素直に定時退社したいのが人情というものである。

 今更文句を言っていても仕方ないと短く一度息を吐き、肩に下げていたバックを深く持ち直す。止まっていた電車は先ほど再開したらしい。


 諫早が所属しているのは警視庁公安部七課。諫早含めて三人しかいない日陰の部署だ。一応部屋は与えられているものの、エアコンが止まったままになっており、真夏の今はデスクワークをするのもおっくうだ。七課は通称、「宗教課」とも言われており、担当するのは違法な手段を用いて宗教活動を行う団体だ。宗教という定義自体があいまいなため、「宗教っぽいもの」関連の犯罪には依頼され次第出動している。

 

 日本は戦後、世界各国との融和へ舵を切った。無我夢中で経済面を成熟させると移民を積極的に受け入れ、トップクラスの多国籍国家となった。この国では移民も国民も等しく社会保障を受け、その費用は移民がもたらした圧倒的な経済力で賄った。当時この方針を定めた総理大臣は先見の明があった、というより単に無鉄砲だったのかもしれない。日本は民族問わず移民を受け入れ、移民と同時に多様な文化が日本に流れ込んできた。

 

その結果、「宗教の楽園」といわれるまでに様々な宗教が発展し、もともと多神教の土壌があったこの国はそれを受け入れ、さらに多くの宗教を生むに至った。この国では名実ともに信教の自由が保障され、国内に存在する宗教は二千を優に超える。国民のほとんどが何らかの宗教を信仰し、ある小学校ではクラス全員の宗教が違う、といったこともあったらしい。日本国内で暮らす国民の人種もばらばらで、戦前から続く、いわゆる純日本人は国民全体の四分の一を切っている。諫早も日本とオランダにルーツを持っており、純日本人と比べて少し瞳の色が薄めだった。

 

 しかしこの多様さを受け入れない人々も多数存在していた。他の民族が日本に入ってくることで日本古来の文化や伝統が失われてしまう、という危機感は当然生まれる。このような人々は移民の大幅な受け入れ案が出た時から長年、海外にルーツを持つ人々に攻撃的な姿勢をとっており、テロリズムなど過激な手段に出ることもあった。警視庁公安部ではそのような犯罪を未然に防ぐため日々危険な団体、人物の監視を行っており、その業務は多忙を極める。

 

 しかし諫早の部署は宗教関係の担当であるため、基本的には宗教団体にしか関与していない。日本国全体の役に立っているかは疑問だが、諫早は警察官として、少しでも誰かの役に立っていることに嬉しさを感じていた。忙しい他部署の雑用を押し付けられることに不満を覚えつつも、日本の平和をめざす仲間の役に立つことが諫早の喜びだ。


 警視庁の建物に入り、自分の所属する部署へ向かう。公安部のあるフロアの端、ドア横にいくつか段ボールが積まれているところが、七課の部屋だ。

「失礼します。」

やけに重たいドアを開け、諫早は何気ない調子で言った。部屋にぽつんと置かれた中古のデスクにふんぞり返って座っているのが同僚の江(こう)である。今日はいつもよりふんぞり返り具合がひどく、机の上に足をクロスさせて乗せている。


「遅かったじゃないか。丸の内線の遅れか?」

 横柄な口調でそう聞いてくる。江は黒のスーツにブラウンのスカーフを巻いていて、スカーフからはちらちらとエルメスのロゴが見える。人によっては金持ち自慢だと不快に思うかもしれないが、ミステリアスで整った顔立ちに、いわゆるブランド物はとてもよく似合う。


「そうですね。電気系統のトラブルでしばらく動かなくなってしまって。」

「そうか。」

 何気ない会話だが、どこかとげがある。いつも横柄な人だが、口調がますます不遜になっているので警戒してしまう。もしかすると江が一昨日提出した報告書がすべて書き直しになってしまったのだろうか…。それとも資料係のバヤルさんから「書類整理」という名の雑用を押し付けられてしまったのだろうか…。

「何かトラブルがあったわけではないから、安心していい。」

諫早の心を見透かしたように江が発言する。考えていたことを言い当てられ、驚いた諫早が目を丸くすると、江は透き通った切れ長の目をゆがませてにやりと笑う。


「トラブルではないが、ただ久しぶりに本格的な事件があったそうだから、どんな事件か考えていただけだ。」

「そうやって名探偵ぶりますけど、江さん、私たちが推理する場面なんてほとんどないじゃないですか。」

「そういえばそうだったかもしれない。」

 今気づいたように江は手を合掌して鼻に充て、身体を縮こませる名探偵ポーズをやめた。江はかなりの気分屋で、言っていることも非常に適当なのでそもそも警察組織に向いていないのではないかと思える。

 

江は諫早より二つ年上で、諫早と同じくスカウトのような形で警視庁に入った人間だ。様々な宗教が混在するこの国には宗教に詳しい人物が必要、と言われ入庁したものの、上が予想していたより事件が少なく、諫早以降のスカウト採用は取りやめになったようだ。


「本格的な事件、とはどのようなものですか。」

適当な言動をする江をいさめるように諫早が尋ねる。

「まだ私にも分からない。十分後にニーベン係長が説明してくれるらしい。」

 ニーベン係長は江と諫早にとって直属の上司にあたるが、2人ともニーベン係長がどんな姿なのか分からない。なぜならニーベン係長は七課の机に置かれた小型スピーカーから指示を出すだけであり、実態がつかめていないからである。諫早と江は内心、係長など実在せず、人件費を押さえるためにサイバー犯罪対策課が趣味で作ったAIなのではないかと疑っている。

 

 しかしどこで誰が聞き耳を立てているか分からない公安部では、上司のうわさ話などご法度だ。それに、係長からは固有の人格を感じるような瞬間が何度もあり、AIだとしたら世界レベルの高度な技術が使われているに違いなかった。

「ひとまず、係長が説明してくれるまでコーヒーでも飲もうじゃないか。」


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