第19話 七番勝負(後編)

七番勝負、二局目は、雄三の先手で始まった。アンネは一局目と同じく、飛車を振った。前回の進行と違い、雄三も飛車を振る。互いに飛車を振る、相振り飛車の戦型だ。


これにはアンネの得意を外すという目的があった。相振り飛車は定跡(プロ間の研究で結論の出た手順)が整備されておらず、手探りの将棋になりやすい。


対抗型とは勝手が違うため、アンネも調子を狂わせる。銀交換から雄三の飛車突破を許し、竜を作らせてしまう。それでもアンネは意地を見せ、頑強な受けで勝負を怪しくしてきた。


最後は雄三が勝ったものの、薄氷を踏むようなきわどい勝負だった。  


アンネは湯呑みの水を口に含んでから、小さい声で、


「負けました……」と言った。


これで勝負は一勝一敗で五分となった。


感想戦は行われず、二人は無言で駒を並べ直す。時刻は深夜二時を回っていた。


「私の子守歌聞きたくない? 聖母のようだと言われているわ」


「またの機会にお願いするよ」


勝負を打ち切ろうとしてきたアンネを押しとどめ勝負を再開する。


三局目 戦型 居飛車 相がかり。


居飛車の先後同型。互いの飛車先を伸ばしてから銀を繰り出すなどして戦う。序盤からプロでも結論が出ない難解な戦いとなる。


アンネは三局目から振り飛車を指さなくなった。雄三にとっては経験の多い形が増えることになる。


どうせ力勝負になるのなら居飛車の方がやりやすい。そう思っていたのは雄三だけではなかった。


打ち変えた角を起点にした、アンネの力強い差し回しに圧倒され、雄三はなすすべなく詰まされてしまった。


これでアンネの二勝一敗となった。


「お前本当は居飛車党だろ。手抜いてたのか」


「さあどうかしら。弘法筆を選ばず、そういうことなんじゃない?」


居飛車と振り飛車、両方指せる者はプロでも少ない。一つの戦型だけでも膨大な研究が必要だし、向き不向きも当然ある。それをやってのけるアンネの技量に雄三は舌を巻き始めた。


水で唇を湿らせ、英気を養う。


「俺、その慣用句は、間違ってると思う」


「どうして?」


「それをこれから証明する。俺の挑戦受けてくれるよな」


第四局 戦型 居飛車 横歩取り。


出だしは相がかりに似ているが、歩を取った飛車がさらに横に移動し、もう一歩取ることからその名がつけられた。


将棋の中でも最も激しい変化が予想され、些細なミスが、即、負けに繋がる玄人好みの戦型だ。


雄三の誘いに乗り、アンネも同じように歩を取る。


序盤から中盤にかけて雄三が優位を確立したが、アンネは攻めを受けながら陣型を整備し、なかなか決め手を作らせない。


(攻めも受けも、トッププロ並だ。終盤が特に強いし、対局観も底知れねえ。こんな奴がいるなんて……)


大口を叩いたのは、この戦型に自信があったからだが、その差ははじわじわ縮まりつつあった。


雄三は戦いの最中、アンネの強さに屈しそうになる。アンネに比べたら自分がしてきた将棋など縁台将棋のそれと何ら違いはない。読み疲れ、攻めの継続を断念した。


雄三の弱気を見逃すアンネではない。攻めが緩んだ一瞬の隙に怒濤の攻めを展開し、完全に雄三を粉砕した。


もういいのではないか。こんな化け物相手に一勝しただけで奇跡だ。雄三は必死で言い訳を考えていた。


「勝負を投げたわね、雄三」


アンネはお見通しとばかりに、雄三の心を言い当てた。


「アンネみたいな強い奴にはわかんねえよ。ずっと暗いトンネルにいる奴の気持ちなんか」


雄三が真剣師になったのは、食い扶持を稼ぐためばかりではなかった。


プロ養成機関である奨励会を抜けられるのは毎年二人だけだ。熾烈な競争、年齢制限による強制退会。そのあまりの過酷さから途中で辞める者も少なくない。


「自分には才能があるって疑ってこなかった奴が、ある日、突然いなくなる。ああはなりたくないと思いつつ、いつの間にか俺もそうなってた」


雄三は真剣師になる前から自分の才能に限界を感じ、どこか冷めていた。師匠にすら打ち明けられなかった秘密をアンネに話す気になったのは、完膚なきまでに負かされたからだ。心残りを断ち切ってもらって感謝すらしている。


「アンネに何者か訊ねられて答えられなかったのもそのせいかもしれない。俺は成りぞこないだから」


自虐的になるのも今夜限りと、雄三は湿っぽい口調で話す。


アンネは笑うでもなく、真顔で盤面を睨んでいる。


「それで? 続けるの? やめるの? はっきりして。私、眠いわ」


アンネにとっては雄三の悩みなどちっぽけなものなのだろう。雄三は泣きそうになった。子供の頃、よく近所の爺に負けて泣いていた時とそっくりだった。


「やう゛ぁる!」


涙をこぼしながらも駒を握りしめて離さない。長年染み着いた習性のようなもので、盤と駒を前にすれば、自然雄三を勝負へと駆りてるのだった。


「三勝一敗。これであなたは後がなくなった。楽しみだわ。強い男にママと呼ばれるのは」


「ま、まげない。絶対!」


雄三の心はぐしゃぐしゃで、もはや勝敗のことなどどうでもよくなっていた。悪くいえば向こう見ず、よくいえば雑念なく将棋と向き合っていた。


七番勝負 第五局。戦型 居飛車 相矢倉。


雄三が最も得意とし、プロのタイトル戦でも頻出する戦型である。


互いに玉を囲いあい、駒を全軍躍動させるため、将棋の地力が現れやすく、実力者に好まれやすいのであろう。


組み合うまで手数がかかるため、序盤はもくもくと手順通りの進行が続く。


かに思われたが、雄三は囲い合いの最中、アンネの玉が近い端を突如攻め始めた。


アンネはそれを無理だと決めつけていたが、思いの外端を破っても攻めが続く。奇襲は一端成功したようだ。


少しばかり優位になっても、アンネの終盤力は並外れている。雄三もそれがわかっているから気は楽にならなかった。


執拗に細い攻めをつなげ、アンネを追いつめる。もはや必死の食らいつきに、さしものアンネも手を焼いた。


勝てる。雄三はそう確信したが、束の間の勝利の予感はアンネの一手で崩れさる。


アンネの角のラインが、雄三の玉に直射し、また片一方で、飛車にも当たっている。


王手飛車取りの両取り。玉を取られては負けだから、飛車を渡すしかない。雄三は初心者に戻ったようなミスに愕然となった。


これによりアンネの玉の逃げ道でできて、雄三の勝ちがなくなった。投了もやむなし。


「負け、ました」


雄三はそれだけ言うと、将棋盤の上にどうと倒れた。

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