第10話 再びの声

 その日の夜。

 時刻は十時を回っていた。昴の作った料理を堪能した源十郎は、美月にこんな時間に老人が一人で出歩くモンじゃないと言われて車で駅まで送られて行った。

 昴は、二階にあるベランダで酷く年季の入った椅子に腰かけながら、件の宝石を片手に一人で祖父の語った事について考えていた。

 今の昴にとって、難しすぎる話題であった。


 「お兄ちゃん、大丈夫?」

 「ん?」


 優しい声に首だけを右斜め上に向けると、舞依が舞依の手には、湯気を立てるカップが二つ。どうやら、わざわざ一階から運んでくれたようだ。お礼を言って受け取ると、昴はコーヒーを一口啜る。程よい苦みが、霞がかかって不明瞭だった思考をクリアにしてくれる。


 (爺さんの話、本当なら、今発生している事件だってきっと無関係ではないはず。……まさか、六十年前から今までずっと続いている? そんな馬鹿な!)


 そこまで考えた所で、昴は隣に腰かけ、ミルクティーの入ったカップを傾ける妹の顔を盗み見る。昴の視線に気づいた妹は、声には出さずに小首をかしげて昴を見る。さらさらと流れる髪が、風になびいて美しく見えた。


 「――舞依はさ、信じられるか? 爺さんの話。親父とお袋の話もだけど」

 「うーん……、どうだろ? 私も、今すぐには信じられそうにないなぁ。でも、お爺ちゃんが真面目な話をするときって、絶対に嘘は言わないし。だから、全部本当の事なんだろうなあって、思ってるよ」

 「そうか」


 顔を見合わせて笑いながら、二人は揃って満天の星空を見上げる。ちょうど目の前には夏の大三角形が姿を見せている。南の方角には、さそり座の中心であるアンタレスが煌々と輝いていた。

 舞依は、いつの間にか一冊の本を読んでいた。タイトルは、『異次界険譚録いじかいけんたんろく』となっていた。


 「その本、いつの間に?」

 「お爺ちゃんがくれたの。私達のご先祖様が、別の土地で暮らして、帰って来る話」

 「なんだ、ライトノベルか。しっかし、江戸時代にライトノベルがあったとは」

 「ね。でも、何書いてあるか全然わっかんないよ」


 その本は、帰り際に源十郎が舞依に預けた本だった。

 源十郎の遠い祖先にあたる、木下安兵衛きのしたやすべえの記した書物である。

 内容は、安兵衛が異次界と呼ばれる場所で冒険をしたり、ある少女と恋に落ちて逃避行を繰り広げる伝記物だ。が、なぜか後世には商人である主人公が世界中を旅して周るというライトノベルとして伝わってしまっている。

 源十郎が舞依に渡したのは原本である。保存状態が非常に良く、数百年前の代物でありながら普通に手で持って触れる。マニアにとっては垂涎ものの一品だ。

 だが、どんなに価値のある物でも、興味の無い二人にとってはただの古い本。最初は文字を解読したりしていたのだが、やがて飽きてしまい、最終的にその本は舞依の膝の上に置かれる羽目になっていた。


 それから暫しの間、思い出話に花を咲かせた二人だったが、時間が経つにつれ口数も少なくなり、遂には話題も底をついた。夜も冷えるからと理由を付けて、どちらからともなく腰を上げた、その時だった。


 「ん?」

 「どうしたの? 沼に落とした一万円札の束を探すような目つきして」

 「そんな目しとらんわ! いや、星が近づいてる気がして」


 昴はじっと目を凝らし、違和感を感じた方角を見つめ続ける。一瞬、さそり座が大きく不規則に揺れ動いたように思えたのだ。事実、それは動いていた。しかも、アンタレスはゆっくりと、しかし確実に大きくなり、明るさも増してゆく。

 隣で昴と同じ方角を見つめていた舞依にはその変化が分からないようで、大きな瞳をめいいっぱい開き、ベランダの柵から身を乗り出してまで昴の指し示す方角を見つめる。


 「……なにもおかしい所ないよ? 中二病でも再発した?」

 「しとらんわ! 待ってろ、今カメラに撮ってやる!」


 妹の眼には、フリーターの兄が夜空に興奮して仰々しく騒いでいるだけにみえているらしい。疑いの眼差しを向ける妹に昴は慌てて反論すると、腕時計型のカメラを起動させる。

 レンズを被写体に向け、シャッターを切ろうとしたその時だった。


 (見つけた!)

 「え?」

 「なに!?」


 頭の中で、女性の声がした。声は舞依にも聞こえたようで、びくりと体を震わせて周囲をキョロキョロと見渡している。二人が声を認識した途端、まるで目の前に突然太陽が現れたような、或いは無数のLED電球を同時に超至近距離で発光させたような輝きが兄妹を包み込んだ。


 その数分後。帰って来た美月は、些細な違和感に首を傾げる。リビングにあるテーブルの上は綺麗に片付けられているし、食器もすべて洗い終わっている。何のことは無い、美月がいつも目にしている光景だったが、靴下の中に石の粒が入り込んでいる時の様な、奇妙な不快感があった。

 ポーチをソファの上に置き、はたと気付く。二階から音がしない。

 いつもならこの時間は、二階から笑い声や椅子の動く音が聞こえてくる。前者は舞依がネットで通話している友達と下らない話で盛り上がっている時、後者は昴がネットゲームに熱中しすぎて椅子についているローラーが動く音だ。

 寝ているのかとも思ったが、それにしたって物音ひとつ立てないのは変だろう。

 流石に様子がおかしいと判断した美月は、わざと大きな音を立てて階段を上る。最初に昴の部屋を開け、次に舞依の部屋の戸を叩く。が、どちらも反応はなく、部屋には電気が灯っていなかった。最後に残っているのは、ベランダ。


 小さなテーブルの上には、二人の愛用するカップが置かれていた。中身はコーヒーとミルクティーで、半分ほどまで減っている。湯気が立っている事から、恐らく舞依が淹れて二人で飲んでいたのだろうと判断した。だが、それだけだった。

 二人がそこにいて、何かをしていたという痕跡は残されているのに、何処を探しても姿が見えない。一番安全ともいえる家の中で、忽然と姿が消えてしまった。

 呆然と立ち尽くす美月の脳裏に、祖父の話していた事件の内容が過る。

 曰く、『ある日突然、まるでその場から消えてしまったかの様に、被害者は突如として消息を絶った』、と。


 「え? ウソでしょ?」


 じわじわと絶望が心を支配してゆくなか、美月はそう呟くのが精いっぱいだった。

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