第3話 宇宙蝉

 観察塔の上まで来ると、風が吹いていた。

 じめついた湿気が無いだけで気持ちいい。


「下がってください。下がってくださーい。はい、中に入らないでー」


 塔の下からの声が、上にまで聞こえてくる。規制線の内側に入ろうとした見物人がいたらしい。

 これほど暑いにもかかわらず、見物人はまだまだ増えていた。小さな山に囲まれた小さな町は、ちょっとした騒ぎになっていた。


 皆が待ち望んでいるのはセミの羽化だ。


 それもただのセミではない。

 十メートルはあるだろう巨大なセミが、今まさに地下から這い出て、羽化を始めようとするところだったのだ。


 宇宙蝉と呼ばれる巨大なセミが地球の日本にやってきたのは、今から三十年前のことだ。

 何をしに来るのかというと、もちろん産卵のためである。

 どこかの巨木に卵を産み付けると、三年をかけて卵から孵化するのだ。

 多くの卵のうち、一匹か二匹がやがて幼虫まで育つと、それから三十年近くを土の中で過ごす。


 前回、宇宙蝉が日本にやってきたのは二百年ほど前のことだった。久々にやってきた宇宙からのお客に、小さな町はお祭り騒ぎになった。テレビでも大々的に報道され、平成初の宇宙蝉などと言って取り沙汰された。

 だがそれから少しすると騒ぎは収まり、代わりに土地は隔離された。


 幼虫が眠る土地は環境保全区となって、通常の立ち入りを禁止された。少し離れた場所に観察塔を作り、その近くには小さな記念博物館ができた。近所の大学では、宇宙蝉研究が進んでいる。夏になれば、小学生の自由研究の題材ともなる。


 だが住んでいた土地を取られたり、林業が駄目になったり、自然保全という名で森に手を入れられず里山が荒れ放題になったりと、問題も多かったらしい。そのあたりが近年「月の裏側・宇宙蝉の功罪」という名で、ジャーナリストが一冊の本にまとめたのは記憶に新しい。


 まあしかし今度は羽化となると、それはそれで盛り上がってしまうものだ。

 羽化が成功すれば、宇宙蝉は広い宇宙に飛び立っていく。

 中には数日前からこの近くのキャンプ場やペンションを借り切って来ている人たちもいて、町はバブルに沸いていた。


 観察塔の上からは、茶色い外皮に包まれたセミの姿がとても良く見えた。ロボや生体兵器のようで格好いいという人もいれば、不快害虫のようで嫌だという人もいる。

 だが大概こんなところまで好き好んで来る人たちは、セミの姿を見たいのだ。


 ただSNSでは、批判も多かった。


 人、集まりすぎ。

 うるさくしすぎ。

 ライトの光量をもう少し下げたほうがいい。

 ただでさえ暑いのに、こんな環境ではストレスが溜まる。

 そもそも虫の羽化は観光資源ではない。


 要はストレスによる羽化不全になることを心配しているのだ。もちろんただ気持ち悪いとか殺せとかの批難もあるが、ほとんどの批判はまっとうなものだ。なにしろ以前、マスコミが「夜は見えないから」とヘリから光量の強いライトで照らして、国際問題沙汰になりかけた。宇宙蝉は国際的な研究対象でもあるのだ。


 風の吹く中、私は手すりに体重をかけて見下ろした。

 確かにこれほど巨大であると、グロテスクな外観がしっかりと観察できる。生体兵器のようだという感想には同意しかない。硬質な体。巨大な鉤爪のような前足。ちょいちょいと伸びる細長い毛。どこを見ているのかわからない目。触覚。

 背中には一本の線が入っていて、微かに開いているように見えた。


 あそこから羽化直後の美しい姿が見られるのだ。


 透き通った緑色を、今か今かと待ち望まれている。これほど誕生を望まれる生命は、幸せだろう。

 近くでは、ネット配信の番組で二十四時間体勢の観察を行っている。建物の中では、研究者たちもいつ状況が動くかと、固唾を呑んで見守っているに違いない。

 妙に陽気な声が聞こえたので振り返ると、カメラを構えたユーチューバーらしきテンションの高い若者がいた。私はカメラに入らないように、そっと離れた。


 日が落ちるまでに羽化は完了せず、碌な準備もしていなかった私は、家に帰るしかなかった。

 マンションについて遅い夕食をとり、お風呂に入って服を着替える。

 テレビをつけると、夕方に見た時よりも背中が開いていた。頭が出てきている。


 私は食い入るようにテレビにかじりついた。

 これを見るために昨日からいるんです、という人がインタビューを受けていた。放送内容を変更しているニュースもある。

 時間的にバラエティとニュースが混在するテレビと違って、SNSでは誰もが見守っていた。

 コメンテーターよりも詳しい市井の愛好家たちは、おそらくこの分なら朝になるまでに羽化するのではないかと言っていた。


 時間を見る。

 既に十二時半を回っている。

 まだ間に合うか。


 私はもう一度服に着替え、今度は頑丈なリュックサックに荷物を詰め替えた。夜の一時くらいには行けるかもしれない。

 自転車で急いで行けば、まだ間に合う。


 家の電気は付けっぱなしにしたまま、私はマンションを飛び出した。

 エレベーターでやきもきしながら一階に降り、自慢の脚力で自転車置き場へと到達する。

 そうして僅かな灯りの中、自転車に手をかけた瞬間、ぎくりとした。


 見間違いか?

 いや、ちがう。

 見間違いじゃない。


 そっとハンドルから手を離し、そろそろと回り込む。前の車輪だ。しゃがみこんで、小さな姿を見つめる。

 自転車の車輪にじっとしがみつく姿は、あのときの宇宙蝉を彷彿とさせる。


 小さな一匹の蝉の幼虫が、そこにいた。


 駐輪場の近くには木が植えられていて、その下の僅かな土で何年かを超したのだろう。それがどういう因果か、私の自転車の車輪までやってきて、そんなところで羽化しようというのだ。

 しかも、セミの羽化はたいてい夜の八時くらいからとも言われている。

 なんでこんな時間に、しかも私の自転車の車輪にいるのだ。


 私は息を殺し、気配を殺した。

 じっとりとした汗が流れ落ちていく。


 やがて茶色く萎みゆく外皮の中からエメラルドグリーンが姿を現わした。妖精のような体躯に、小さく萎んだ羽。

 抜け出すように体が後ろへと沿っていく。

 今度はゆっくりと体が立ち上がり、

 最後に自分の腹を引っ張りだすために、自分の殻に足をつけていった。

 やがてすべての体が殻から出ると、萎んでいた羽がゆっくりと降り始めた。エメラルドグリーンに透き通った羽は、美しいガラスのようだった。

 くりくりとした黒い瞳はかわいげすらある。宝石のようだ。

 小さな妖精はやがてシュッとしたフォルムへと変わっていき、セミの姿になった。


 次第に体が乾いていくと、本来の色へと近づいていく。

 その色は見慣れたつまらない色のはずだったが、今日ばかりはそんな気持ちにはならなかった。

 長い時間をかけたセミは、見慣れた姿になると不意に飛び立っていった。


 顔をあげて立ち上がると、眩しさにくらくらした。


 世界は朝焼けに満ちていた。





 その日の報道は大々的だった。


 羽化は成功したらしい。

 テレビではばっちり羽化の様子を捉えた映像が早回しで何度も使われた。その中にはSNSにあげられた視聴者撮影も当然のようにあった。

 そして多くの人に見送られながら宇宙へと旅立っていった。


 一度成功した以上、まっとうな意見もただの悪意もひっくるめられ、「それみたことか」と忘れられていくのだろう。それが次にはうまくいくかわからなくても。


 宇宙蝉はやがてつがいを見つけるために自分たちだけに聞こえる声で鳴く。その声無き声を捉えようとする人々が研究を進めている。

 宇宙蝉とはそもそも何なのかを突き止めようとする人々がいる。


 どこからか聞こえる蝉の声に耳を傾ける。


 だが私の中ではテレビの向こうの映像よりも、あの日の駐輪場で、ガラスのようなエメラルドグリーンを広げる姿が、妙に目に焼き付いていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る