6 外への探検


 窓の外が明るくなっている。

 村田は、やっと一日が明けたという事を理解した。死者達はまるで寝床に戻る様に、霧の中へと帰っていく。

「見てください! 部長、あいつらが引き返していきます。僕達が勝ったんです、追い払ったんです」

「村田……おれ……」

 安藤は壁に寄り掛かっていた。声は生気を失い、身体は人形の様にぴくりとも動かない。

「目が……目が見えないんだ……何も見えやしない。そこに、居るのか?」

「居ます、ここに居ます……!」

 手を握ったが、驚くほど冷たかった。皮膚は既に白色を帯び、両眼もガラス玉のように虚ろになり始めている。

「畜生……こんな所で死ぬのはやだけど、もっと嫌なのは……あいつらの仲間になる事だ。俺は嫌だ。生き返りたくない。ゾンビになりたくない」

 安藤の白濁した瞳は、何も無い宙に視線を送っている。それが痛々しかった。

「部長――」

「俺が、もしあの化け物になったら、その時は殺してくれ」

「大丈夫です、部長は死にません」

「いや……俺にはわかる、自分が死ぬんだってことが。結局、草野の言うとおりになった訳か。あいつの宣言通りにくたばるのは癪だけど、もう駄目みたいだ」

 ゆっくりと瞼が瞳を覆った。握った手からは、何の反応も無かった。

「そんな……こんな筈じゃない……」

 彼が死ぬ訳が無い。否、死んではいけないのだ。喉の奥から熱い物が込み上げてきた。

 ――そうだ、無かった事にするんだ。

 部長は死んで何かいない。村田はそう呟き、横たわる安藤を見据える。

 しばらくすると、彼の瞼は再び開いた。

「…………おかえなえりなさい、部長」

 

 ※

 

 朝の七時、犬神は会議室に向かった。面子は既に揃っている。ただ、自分を含めても六人しか居ない。前回より三人も減っていた。それは、彼らが脱落した事を意味している。

 おはようございます、と横から声が掛った。草野だった。例のごとく、カメラを回している。神経を疑いたい。

「今朝は眠れましたか?」

「ひょっとして、そんな質問を全員にしてるのか?」

「出来ればそうしたいんですがねぇ」

 草野は言って、対岸に座る村田に目をやる。彼の顔は俯いていた。

 ――安藤が消えた。

 その知らせを聞いた時、心の中で「やはりか」と思う自分が居た。村田は、それがよほど堪えているらしい。彼に掛けてやる言葉が見つからなかった。

「妙なんですよね」

「死体がどこにも無いんですよ。やっぱり、ゾンビになって、霧の中に戻っていたんですかねぇ」

 黒木が大きく咳払いし、話を遮る。

「ちょっといいか。皆に話したい事があるんだが……俺は、外に出てみようかと思う」

 その言葉に、一同の顔は彼に向かった。

「どういう意味だよ?」

 すかさず、犬神は口を開いた。

「いや、そのまま」黒木は鷹揚としている。「一日経ってみたが、霧が晴れる様子も無い。腐れゾンビが共食いを始める訳でもない。助けだって来やしない」

「だからって、殺されに行く様な真似、することないだろ。それに、助けの望みが無い訳じゃ」

 喋りながら、自分の言ったことに説得力が無いと感じていた。救助なんてやって来ない。昨日の夜、犬神は既に確信していた。

「でも、このまま手をこまねいている訳にはいかない。だいたい、食い物だってないんだ。皮肉な話だけど、俺はもう腹が減ってる。お前は、どうだ?」

 昨日の昼から、食べ物らしいものを口にしていないのは事実だった。騒ぎで気付かなかったが、身体は空腹を訴えていたのだ。

「もちろん自殺行為だってのは分かってるんだ。でも、このままじゃジリ貧だ。横井は死んだし、安藤も姿をくらました。どんどん人が消えていく。俺はこれ以上耐えられない」

 黒木の気持ちは分かる。何かをしなければ不安でどうしようもないのだ。なぜ霧がやってきたのか、生徒達が生きる屍となって襲ってくるのか、それは解決できない理不尽な問題の様に思える。だが、彼らから身を守るためにバリケードを築いたり、食糧の問題について考えるのは単純明快。現実的に対処できる事である。少なくともその対処に向かっていれば、根源的な恐怖からは一時的ではあるが解放される。

「メンバーを選んで、一度外に出てみたい。だから手伝ってほしい」

「そのまま学校を出るつもりなの?」

 川本が口を挟んだ。

「出来ればそうしたい所だ。もしかしたら、助けを呼べるかもしれない。俺は今朝、屋上に行ってみたが、霧で何も見えやしなかった。一体外の様子がどうなっているのか、まるでわからないんだ」

「……そういえば」

 小泉だった。目の下には隈が出来ていた。死んだ横井とは一緒に居たらしい。やはりショックだったのだろう。

「食べ物ならあると思います。ほら、うちの食堂って、パンも置いているじゃないですか。業者がきて惣菜パンを売ってくれるおばさん達が」

「食堂は昨日探したじゃないですか。何も食材は残って無い」

 村田が言ったが、小泉は首を振る。

「あの、そうじゃありません。その業者のトラックが、確か外に置いてあったままだったんです。一度外に出た時、確認しました」

 隣の教室に逃げ込んだ時だろう。黒木から事情を聞いていた犬神は、そう思った。

「昨日の夜みたいな事が続くかもしれない」川本は、鷹のような目で部屋を見渡す。「バリケードはあんなに丈夫だったのに」

 川本はそこで言葉を区切り、犬神を見る。

「犬神君はどう思うの?」

 彼女のキラーパスに、犬神は息をのむ。

「僕は……」

 前に読んだキングの作品を思い返す。霧によって閉じ込められた人々。彼らはどうしただろう。彼らはただマーケットに閉じこもっていた訳では無かった。勇敢に、外に出ていったはずだ。

「わかった。僕も手伝うよ」

「ちょっと待ってください」

 草野だった。口元をつりあげながら、嘲笑に近い笑顔を作る。

「本気ですか。外にはゾンビがうようよ居るんですよ?」

「ああ、その通りだ」

 黒木が、慇懃に頷く。草野が信じられない、と呟く。

「つまり、黒木さんのやりたい事は……。すぐ傍で待ち構えているゾンビを何とかして、外に出る。その後、ほとんど視界の確保できない霧の中を進みながら、碌な装備も持たずに、居るかどうかもわからない生存者を捜す。彼らに少しでも噛みつかれたらゲームオーバーで、リセットは無しと、こういうことですか」

「その通りだ」

 草野の大笑いが部屋に響いた。彼は目尻に溜まった涙を拭く。「はは……なるほどね」

「乗りますよ」

 

 朝の八時に、行動を起こした。

「外に居るゾンビをひきつけて、どうにか別の場所から出発したい」

 言って、黒木は川本を放送室に向かわせた。その他全員は、昇降口に集まっている。昇降口はこの前以上に、頑丈に封鎖していた。ロッカーを積み重ね、完全に出口を塞いでいる。少し外の霧が覗ける程度だった。

「これが効くかどうか、賭けだな」

 黒木は天井を睨む。これ、とはどういう事だろう。そう思った時、学校のチャイムが廊下に響いた。聞き慣れたその音色は、まるでいつも通り授業の開始を知らせてくれるかのようだった。端で見ていた草野が、にやりと口元を歪めた。

「なるほど、陽動作戦ですか」

「習慣によって動いている、と教えてくれたのはお前だ、草野。……さぁ、授業が始まるぞ。サボってないで、戻ってこい……」

 その光景に、犬神は悲鳴を上げそうになった。ウェンストミンスターの鐘の音は、効果覿面だった。生徒達が、霧の中から一人、また一人とやってくる。彼らは一つの塊となり、昇降口に押し寄せてきた。死者達の再登校だ。

「草野。すぐに職員玄関に回ってくれ、意味はわかるだろう」

 彼は頷き、廊下を走っていった。

「俺と犬神と草野の三人は、その職員玄関から外に出る。昇降口は囮だ。ここにゾンビ達を集中させる」

 白く膨れた指が、窓の外で蠢いている。外皮が垂れさがり、赤黒い腐肉を剥き出しにしている。生者の血肉を渇望する、飢えた亡者たち――。

「さぁ、入れるもんなら入ってみろ!」

 黒木が叫んで挑発する。犬神もそれに合わせて大声を出した。続いて、見守っていた村田も叫び始めた。小泉だけが後ろで、異様なものを見る目で居た。だが、決心がついたのか彼女も叫び始めた。

 やがて草野が戻ってくる。彼は微笑んで報告する。

「ばっちりです。向こうにはほとんど居ませんでした」

「よし。じゃぁ村田、ここを頼むぞ」

「ええ、任せてください」

 黒木に応えた村田の目は、少しおかしかった。それに少し違和感を持ったが、二人に急かされて犬神は職員玄関に回った。

 職員玄関に溜まった椅子や机を下ろしていく。言うとおり、ゾンビの姿は皆無だ。昇降口に完全に流されたのだろう。三人はバッドを握った。

「準備はいいな」

 以前出ていったのは青田だった。彼は、同じように武器を持っていたにもかかわらず帰って来なかったのである。不意に、犬神は怖くなった。凶兆の鳥がねぐらに戻る様に、心の内に恐怖が蘇る。

 ――もし、帰って来れなかったら。

 帰って来れたとしても、奴らと同じ存在になっていたら。

 黒木がドアを開け、先頭として出ていく。次は草野が霧の中に埋もれていく。慌てて、自分も外に踏み出した。しっかりとバッドを握り締め、草野の背中についていく。そうでないと、見失ってしまいそうだった。振り返ると、職員玄関が霞んで見えなくなっていた。目を凝らすと、やっと川本が出口を塞ぎ直している姿をなんとか確認できた。

 陽動作戦は徹底したらしい。ここにもゾンビの姿は見えなかった。三人は、身を低くして、慎重に進んでいく。――ひょっとしたら、このまま学校の外に出られるのでは無いだろか?

 草野が止まった。何事かと追い付いてみると、黒木もその場に立っている。目の前にトラックが止められていた。会社ネームの入った塗装が施されている。三人は頷き合う。犬神は忍び足で運転席に向かった。もぬけの殻だ。

 草野と黒木が荷台のドアを開いた。プラスチック製の箱がいくつも積まれていた。中身を覗くと、ビニールで包まれた惣菜パンが沢山入っている。草野は、その一つを無造作に掴むと、包みを破いて食べ始めた。犬神は咎めようとしたが、黒木も同じようにパンを一つとった。

「……食べないのか?」

 犬神は唾を飲み込む。本当は腹が空いていたが、学校の中に居る皆に罪悪感が少しあった。

「……さっさと運び出さないと。中に持って行ってやろう」

「いや、その前に体育館の方も調べておきたい。バドミントン部の仲間が居るかどうか調べたいんだ」

 黒木はパンを飲み干すと、賞味期限を見た。

「うん、昨日までだが、大した事はない」

 ほれ、とハムカツパンを渡された。犬神は首を横に振り、それを返した。

「なんだ、いらないのか?」

「いや、そうじゃなくて。……菜食主義者なんだ、僕は」

「ベジタリアン、ですか」

 草野が苦笑を浮かべ、卵サンドを渡してくれる。

「うん。もともと、肉はあんまり好きじゃない」

 感触も嫌だったが、噛んだときに出る肉汁が気持ち悪くて嫌だった。

「それでよくスポーツなんか出来たな」

 黒木が感心するような、貶すような口調で言う。

「お前なら、ゾンビになっても人を襲わないかもしれん」

「やめてくれよ、そんな縁起でもない事は……」

 その時だった。何かを引き摺って歩いてくる音が聞えた。一つや二つでは無い。その音は次第に近づいてい来る。

「……あいつらか」

「陽動が足りていなかったみたいですね」

 外を覗く。白い靄の中に、黒い影が幾つか踊っていた。このままではすぐに囲まれて奴らの餌食になってしまう。三人はすぐさま荷台の中から飛び出した。黒木はケースを二つ積み重ねて取り出すと、犬神に渡した。

「このまま体育館まで走る。ゾンビは俺に任せろ」

「駄目だ、学校に戻ろう」

 黒木は頷かない。彼の目は真剣そのものだった。自分の意志を貫き通す覚悟が宿っていた。首を縦には振らない。

「嫌だ、俺は何としてでも行く」

「無茶言うな」

「仲間が居るかもしれないんだよ。助けられるかもしれない。……お前達が嫌なら、俺一人でも行く。おまえにとっては何てことも無いかもしれない。だけど、俺はずっとここに居たんだ」

 それは、犬神の胸に小さな痛みを与えた。部外者だという宣告。自分が余所者だと言う事実を再確認させられた。

「おい、待て――」

 黒木じゃ体育館の方へ走り去っていく。霧が彼の姿をすぐに覆い隠した。すぐさま追いかけようとすると、草野に肩を掴まれた。予想以上に強い力で、一瞬怯んだ。

「は、放してくれ」

 草野は仏頂面で無理です、と言った。

「青田の事を思い出してください。好きにさせるのがいいんです」

 納得がいかなかった。なにより、あの時だって青田を止められた方法は充分あった。あの時の自分も半信半疑だった。だが、今ならわかる。間違いだとわかる。自分にはやるべきことはあった筈だったのだ。それを今、清算しなければならない。

「お前は、何とも思わないのか?」

「むしろ好都合です。食糧は限られている。分配する数が少なくなれば、それだけ多くせしめられる」

「お前は……」

 草野の顔は冷淡だった。酷薄な瞳が、犬神を見下ろしている。

「さぁ、奴らが来ますよ。犬神さん、あなたは荷物係りです。俺は化け物を担当するから、学校まで送り届けましょう」

 それが俺達の仕事なんです、と草野は言う。犬神は、身を震わせて彼をねめつけた。

「化け物は…………本物の化け物はお前だ、草野」

 彼は息を吐いた。

「こんな時に格好つけないでくださいよ。殺されるか、殺すか。二者一択なんです」

「僕は……僕はそんなのは嫌だ。こんな事をするために、ここに越してきたんじゃない!」

 青白い皮膚を覗かせる死者達が、すぐそこまで来ていた。彼らはまるで、目隠し鬼の鬼役のように、両腕をこちらに突き出してきた。

「結局、ごたくを並べておいて、自分の手を汚すのが嫌なだけじゃないですか」

「あたり前だろ、生きてようが死んでようが、こいつらは人間なんだよ」

 草野は笑って、傍にやってきた生徒二人を殴り倒した。躊躇する素振りは一切見せずに。

「人の形をしている、人間の記号性を持っている。それだけでしょう。こいつらは俺達の血肉を糧にしているんだ。共食いはしないから必ず俺達を襲ってくる。それなのに、自分の手で下したくないという。それでいて、仲間も助けたいと主張する。あなたっていう人を何て言うか、教えてあげましょうか」

 ――――偽善者だ。

「おまえの言いたい事はわかってる。でもな、そんなに人間は単純じゃないんだよ。……割り切れない奴も居るんだよ。お前みたいになれないんだよ、僕は」

 ケースを下ろした。草野は眉間に縦皺を刻む。

「犬神さん、あなたは……自分のやっている事が理解できていないようですね」

 犬神は駈け出した。黒木の向かった体育館へと。

「――どうなって知りませんよ!」

 脳裏には、編入初日の出来事が広がっていた。

 

 自己紹介を済ませ、指定された席に着く。クラスの皆の目付きが、犬神萎縮させる。まるで動物園の檻に入れられた珍獣の様だ。もう高校三年生で、受験シーズンに突入している。模試の結果がどうだとか、あの大学は狙い目だとか、そんな言葉ばかりが飛び交うピリピリしたムード。その中で、編入生という刺激はちょっとした気分転換なのは理解できる。それでも、犬神は耐え抜ける自身が無かった。

 バドミントンを辞めて、彼は目的を失っていた。今さら勉強にも手をつけられない。新しい部活だって、勿論無理だ。もともと根が暗い所もあり、積極的に委員会に入ったりすることも出来なかった。このまま大人しく、卒業するまでじっとしていよう。大した期間じゃない。だから、誰とも親しくするつもりなんか無かったのに

 ――塔青から来たんだって? あそこ、凄い名門だろ。

 一時間目が終了し、五分の休憩時間。まさかすぐには話しかけられないだろうと高を括っていた。

 ――なぁ、うちに入ってくれないかな。大歓迎なんだが。おい紙村、滝川。何突っ立ってんだ、お前らもこっちきて手伝え。

 タチの悪い新聞勧誘に捕まった気分だった。だが、心の隅では何かが揺れ動いていた。しどろもどろに返事をしながら、じんわりと胸の奥で嬉しさが広がっていくのがわかった。

 ――まぁ、同じスポーツを嗜む者同士、仲良くしようや。

 そう言って、手を出される。まごまごとしていると、

 ――ああ、そうか。自己紹介してなかったっけ。黒木だ、俺は。よろしく。

 

 冷たい冷気で、いつの間にか鳥肌が立っていた。体育館の場所はわかっている。中庭を横切ると地面がアスファルトに変わった。そのまま道を進んでいく。遠くの方で、ぼんやりとゾンビの黒い影が横切ったかと思えば、ふっと消えた。心臓は緊張で早鐘を打っている。

 ――見つけた。

 二階建ての大きな建物が目の前にある。玄関は二枚の厚いアクリル板で出来ており、今はしっかりと閉まっていた。中を覗くと暗く、ここからでは人の気配は確認できない。だが、ドアの内側からはパイプ椅子などが積まれている。これは、人が居て、きちんと彼らに対して対策をしているという証だ。

 ――生きているんだ、この人達も。

 透明の扉を軽く叩いてみる。声は上げられない。やはり、何の応答も無い。黒木はどうやって入ったのだろう。

諦めて、別の入り口を探すことにした。犬神は玄関の傍から離れ、建物の壁伝いに歩き始めた。学校の敷地内を囲うフェンスが見える。だが、その奥はずっと森が続いている。白にまぎれて、ほとんど確認できないが。

 建物の裏に回った。プールサイドと、柔道や剣道で使う格技場などの建物が隣接しており、見晴らしの良いグランドとは遮蔽されている。幸い、こちらまで化け物は及んでいない様だ。

 裏の階段を見つけた。体育館は二階構造だ。裏口からそれぞれ出入りできる仕組みになっているのだろう。恐らく、非常用として。一階のドアはやはり、叩いても反応は無かった。ドアノブを回してみるが、やはりおさえつけられているようだ。犬神は傍に立てかけてあった箒を掴む。息を殺しながら、ゆっくりと上がっていった。

 ドアの取っ手を掴む。鍵が閉まっている。順序が逆だが、声をかけてみた。

「誰か居るだろう、返事をしてくれ」

 返って来るのは耳に吸いつく様な沈黙だけだった。見た所、他に入れそうな場所は無い。あくまで犬神は食い下がる。

「開けてくれ、頼む。僕は人間だ」

「誰だ?」

 諦めかけて下に降りようとしたその時だった。一瞬、聞き違いかと思い、茫然と経っていたが、もう一度声をかけた。

「中に居るんだな?」

「……あまり大声を出すな、奴らに感づかれる」

 ドア越しに、男の押し殺したような声が伝わって来る。犬神は嬉しくなった。

「良かった、そっちの方も無事だったんだな」

 彼の物言いからして、やはりこの状況を把握出来ている様だ。

「お前は誰なんだ? うちの生徒か?」

「三年二組の犬神だ。たぶん、知らないと思うが、編入生だ。こっちには、三日前に越してきた。なぁ……開けてくれないか」

 しばしの沈黙。中に居るのは、一人だけだろうか。微かに、やりとりを交わすような気配が伝わって来る。

「駄目だ。中には入れられない」

「黒木は、そこには居ないのか。バドミントン部の生徒なんだろう? 黒木も生きてるんだ。僕達は校舎に居たが、助けに来たんだ」

「黒木が……?」

「そうだ、だから開けてくれ」

「無理だ。絶対に開けるな、って言われたんだ」

 ――この声、どこか聞いた事のある様な……。

「いいから、開けてやれよ」

 真後ろから声がかかって、犬神は跳び上がった。悲鳴を出す所だった。後ろに黒木その本人が居たのだ。

「黒木、そこに居るのか?」

「その声は、紙村だな」

 黒木は言って、ドアに寄りかかる。――そうだ、紙村。初日の部活勧誘で、会った事がある。彼は苦笑するばかりで、実際しつこく誘ってきたのは黒木だが。

「中に入れてくれないか。こんな壁越しに会話するのも野暮だ。あんまりここに長いことたむろしていると、例の化け物だって見逃しちゃくれない」

「――駄目なんだ、滝川に言われてる……ここを開けるなって」

 苦悶の声が聞える。

「いいから開けろ。俺もあんまり無茶はしたくないんだ」

 黒木の低い声で、開錠の音がした。離れると、ドアが開き、気弱そうな男子生徒が顔をのぞかせた。やはり、紙村だった。同級生であり、犬神は何度か面識があった。

「紙村、お前が生きていてよかったよ」

 黒木は先程の調子とは打って変わって、破顔する。二人は中に入った。後に入った犬神はドアを施錠した。紙村は、たった数日しか会っていないが、痩せたように見えた。

「黒木……おまえも生きてたなんてな」

「校舎の方に居たんだ。俺達の他にも、何人か生き残りは居る」

 三人は狭く廊下を進んだ。昼間だというのに、ここは薄暗い。

「それにしても、お前まで来るとは思わなかった」

 黒木が苦々しげに犬神を見据える。

「見学する約束だったからな」

体育館の放送室へと繋がる場所で、もう一つ独立した部屋があった。紙村がドアを開けると、そこにもう一人の影があった。

「わ、黒木さんじゃないですかっ」

 男子生徒はそう言って腰を上げる。面識の無い犬神を察したのか、黒木が言い添えた。

「後輩の一年だ。森下という」

 一年生とあってか、森下は身長が極端に小さかった。右足が赤く腫れている。白い足に、鮮やかな赤のコントラストが痛々しかった。

「その傷は、まさか……どうしたんだ?」

 犬神は、思わず詰問口調で言う。その真意がわからないのか、森下はけろっとした調子で堪える。

「ああ、あの化け物達に噛まれちゃったんですよ。でも大丈夫です、大した傷じゃないですから」

「まぁ、傷が化膿するとまずいがね。今のところ心配は無い」と紙村。

 犬神と黒木は、苦く重苦しい顔を突き合わせた。感染している――。安藤の例があるのだ。彼は、もう手遅れかもしれない。だが、彼らはその事に気づいていない様だ。

 ――やはり、こっちはまだ知らないんだ。

「どれくらい前に、噛まれたんだ?」

 さりげない風を装うつもりが、単刀直入に聞いてしまった。

「……三時間くらい前です。下の様子を見に行ったら……死んでると思ったのに、倒れてる奴が足を掴んで」

「下? 一階の事か」

「そうです。滝川さんはたぶん向こうに居ますよ。ずっと下を眺めてますから」

 森下は明るかった。そういう性格なのだろう。滝川、という名前も知っていた。黒木と一緒に会った事があったのだ。

犬神は黒木と一緒に、滝川の元へと向かう。吹き抜けになっていて、二階から下の様子を見渡せる作りになっている。滝川は、背中を向けて柵の傍に佇んでいた。気配に気づいたのか彼は振り返り、二人を見据える。気の強そうな瞳が黒木に向いていた。

「てっきり、俺たち以外はくたばったかと思ったぜ」

「それはお互い様だろう。ここに先生は居ないのか?」

「いや、居ないよ。他の奴は皆死んじまった。俺と紙村と森下。この三人だけだ……ほら、見てみろよ」

 そう言って、滝川は下のホールを指した。

 地獄が広がっていた。

 赤い海が出来ている。幾重にも塗りこまれたそれは、キャンパスを埋める絵の具のように鮮やかだった。放りだされた手足。開き臓物を吐き出す胴体。放射状に粘稠性のそれをぶちまける生首。子供が遊び半分でフィギアをバラバラにしたかの様に、そこら中に体の一部が散らかっている。彼らの表情は多種多様だった。苦痛に悶え苦しみ、鬼の様な形相で天井を睨む顔もあれば、静かに瞼を閉じて、白い顔に静寂を彩っている顔もある。

 そして、居た。生きる屍、歩く亡者が。彼達はその手足を掴んで食べている。皮膚を悔い破り、肉をチューイングガムの様に咀嚼していく。そこには、かつて人間であった面影など皆無だった。まるで獣の様だ。餌に食らいつく野獣。だが、その静かすぎる食事もまた異様だった。

 世紀末を描いた絵画を思わせる光景だった。

「こりゃぁ……」

 犬神はその場で嘔吐した。だが、昨日から何も食べていないので、胃液を吐き出しただけだった。黒木は吐きはしないものの、口に手を当てて目には涙をためている。

「さっきから、ずっと食ってるんだ、こいつら。俺はもう、クチャクチャって音が、耳から離れないんだ。ずっと聞こえてくるんだ」

 滝川は、死者のように無表情に呟いた。

「黒木……俺達は、死ぬのか?」

 放心したように呟くその言葉。黒木は、息をのんで数歩下がる。

「臭いだってそうだ。もう慣れて気付いてないけど、ここは反吐の様な臭いがする。俺も直に、あいつらみたいになるのかな」

「…………いや、そうはならない」

 犬神は、力強く言った。吐いた直後で眩暈のように視界が霞んでいたが、自分の意識はしっかりとしていた。心の中で、確固たる思いが体中を巡っている。

「僕達は生きるんだ、何としてでも……」

 

 

「遅れを取ったのは、少し寄り道していたからだ」

 黒木が見せたのは草刈り機だった。エンジンから伸びた細長いスチール製の棒から、ハンドルが取りつけられている。先端には、円状の刃が剥き出しになっていた。いわゆるブッシュカッターという奴だろう。聞いてみると、管理小屋からくすねてきたという。

「これで奴らを狩るんだな?」

 滝川が口元を歪める。

「一度でいいから、使ってみたかったんだ。俺に貸してくれ」

「おい、それはやりすぎじゃないのか」

 犬神は耐えきれず口を挟む。

「今は手段を選んでる場合じゃないだろ」

 滝川は黒木からブッシュカッターを受け取る。すかさず、黒木が忠告した。

「自分を切らない様にな。エンジン音がするから、忘れるなよ」

「校舎には食いもんもあるんだろ。おまけに……川本も生きているって話じゃないか」

 ブッシュカッターを恍惚とした表情で触れる滝川。それを見て犬神は、後悔している自分が居る事に気付いた。ひょっとしたら、黒木を止めるべきでは無かっただろうか。

 黒木の指示で、全員が体育館から出た。最後尾の森下は歩きにくそうにしている。足の怪我が辛いのだろう。乳白色のゆらめく霧は、未だ視界を埋めている。黒木、犬神、滝川、紙村、森下の順に階段を下りていく。黒木はブッシュカッターの他に持ってきたスコップを滝川以外に配った。

 死者達は散らばっていて、容易く攻略する事が出来た。彼らは動きが鈍い。恐るべきは一度捕まった時の力強さと、少しの噛み傷でも痛手を負うという脅威である。この要素さえ排除すれば、難なく進む事が出来た。

「このまま外に出てみないか?」

 中庭に入りかけた所で、紙村が提案した。滝川はまだブッシュカッターを使っていなかった。犬神たちのスコップだけで事足りたのだ。

「この調子なら、あいつらを全滅できるかもしれないですよ」

 森下はそう言って笑う。そうかもしれない、と犬神は思った。この人数でこの装備が揃っていれば――。

「おい、見ろよ。四組の高田じゃねぇか」

 滝川は、近くに倒れている女子生徒を見つけてにんまりと笑った。彼女は既に死んでいる。滝川は傍にしゃがみこんだ。

「きれいな顔してたのにな。勿体ねぇ」

「おい――」

 犬神の制止も無視して、彼はポケットから携帯電話を取り出した。バッテリーの残量はまだ残っている様だ。それを紙村に渡した。

「撮れよ」

 滝川はブッシュカッターを置くと、彼女の遺体に手を差し入れ、ピースサインをした。紙村はカメラモードにして、レンズを二人に向ける。

「やめろ! 何考えてんだ」

 電話を奪い取り、犬神は草むらに放りこむ。滝川は激怒する。

「何すんだよ、お前は。余所者のくせにしゃしゃり出やがって」

「黒木、お前からも何とかいえ!」

 そう言って黒木の肩を掴んだが、彼はバツの悪そうな苦笑いを浮かべるだけだ。少し前に、草野を化け物となじったのが生ぬるいほどに思える。

 それは気付かないうちに近寄って来ていた。白く染まる視界に、ちらほらと黒い影が浮かび上がってきた。独立し散らばっていたかと思えたそれは、手を繋ぐように大きく塊になり始めた。

 死者の大群だった。

「囲まれた……」

 森下が呻いた。

 死者たちによって四方を囲まれていた。死角は無い。先程の傲慢な余裕をあざ笑うかのように、生者と死者の空隙は埋まっていく。

「馬鹿野郎が、俺にまかせろ」

 唾を吐き捨て、滝川がブッシュカッターを手に取る。獣の唸り声のようなエンジン音が鼓膜を叩く。円状の刃は回転し、鈍い輝きを放つ。

 犬神の視界は捉えていた。高田と呼ばれていたその女子生徒――彼女の手がぴくりと動き、蛇のようにするすると滝川の足首を掴んだ。滝川は体勢を崩し、地面に倒れ込んだ。刃を回転させたままのブッシュカッターが転げ落ちる。それを黒木が拾う。

「悪く、思うな」

 振り下ろす。掴んだ女子の手首を、一刀両断した。水道の蛇口をひねったみたいに、鮮血が飛び散った。

 校舎は目前なのだ。このまま、死ぬ訳にはいかない。犬神は、スコップを握り直す。

「うわああ!」

 森下が突進する。

「よ、よせ!」

 紙村の声は届いていなかった。森下は死者の壁に突入し、手足を掴まれた。そして、幾つもの口が彼の体に噛みついた。

「森下っ……」

 少しでも自分の取り分を得ようと、死者たちがそこに集まり始めた。

「今です! 早く逃げてください!」

 森下は噛みつかれてもなお、スコップ振り回し、暴れまわる。自ら囮になったのだ。僅かだが、取り囲む壁に穴が開き始めた。

 滝川が真っ先に走り出した。紙村と黒木は茫然と立ち尽くしている。

「今の内に!」

 森下は赤黒い血を吐き出す。――ひょっとして。犬神は立ち尽くす二人の肩を取った。

「犠牲を無駄にするな!」

「で、でも」

 口ごもる黒木。それに対し、犬神は言葉をかける。

「あいつは、知っていたんじゃないのか。自分が助からない事を……」

 森下は、電池の切れたロボットの様に倒れていた。黒木が頭を下げる。

 三人は、滝川の後を追った。校舎が浮かび上がる様にして視界に飛び込んでくる。

 驚いた事に職員玄関が開かれていた。川本と草野がバッドを持って構えている。

 ――草野、無事だったのか。

滝川が先に入った。続いて三人が中に跳び込む。

「この人達は?」

 草野が滝川たちを見て聞くと、黒木は肩で息をしながら「話は後だ」と答える。

「人数はこれだけ?」

 川本の質問に、犬神は心が沈んだ。

「あ、ああ……。もう居ない」

彼女はそれを確認して頷き、ぴしゃりと扉を閉じた。

「おかえり」

 それが、生き残った彼らを迎えた。


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