ベジタリアン

石森冬樹

1 霧がやってくる

 

 心臓は止まっていた。

 脈拍も呼吸も確認できない。青白い肌は不愉快な程に冷たかった。

 しかし死者は歩いていた。呪われた体を引き摺るように、亡霊の如くさまよう。

砂漠の様に渇いた肉体を動かしているのは、たった一つの本能である。生者の血肉に飢える食欲だけが、彼を操っているのだ。人間であった頃の記憶や理性は既に無い。自分が何者だったのかさえも、果てしない闇に葬られている。ただ、生前染みついた習慣のみが、人間らしい動作を再現させていた。

視界は白く染まっている。

 辺りは霧に包まれていた。とても濃い霧だった。死者は、その中を茫然と歩きまわっていた。標的を探して。自分の欲望を満たしてくれる獲物を。

やがて、生きた者の姿を見つけた。死者はそれに歩み寄る。そこには、獲物を眼中に捉えた獅子の優雅や鋭敏さも、餌を与えられた飼犬の驚喜や愛嬌も、持ち合わせていない。ただ貪欲に、滑稽に映るほどの武骨さで、生者に近づいていく。その余りの静けさに、獲物もその存在を知覚する事は憚られた。

死者は獲物の手を掴むことに成功した。血色の良い肌。温かみのある感触。だが、死者はその感覚に触れる事は出来ない。彼は死んでいるのであり、調和された世界から追い出された存在なのだ。そして、彼自身にとっても、そんな事は重要では無かった。

食欲さえ満たせば良いのだから。

 そして――――――。



 深陽高校は、都内郊外にある高台に建てられている。緑豊かな山に囲まれ、校舎は平野を見下ろす様に構えられていた。そのため、登校路はどこも坂道で、急勾配なのは当たり前だった。三方は山に囲まれているため、学園は封じ込められている、という比喩が適切である。

犬神も、最初ここに訪れた時はそう思っていた。

――閉鎖されている、閉じ込められている。

前向きに考えれば、自然の豊かな場所で喧騒を忘れる事ができる、という捉え方も出来た。実際、校庭やグラウンドは幅広いスペースを有している。校舎は多少古臭いものの、落ち着いていて趣があった。

――まぁ、隠居する分には悪くないな。

犬神はそう呟いて、苦笑する。隠居、というのは自分自身に対しての揶揄のつもりだった。犬神は両親の都合で引っ越し、この学校には編入生という形で入学することになっていた。すでに高校三年生であり、卒業までは八ヶ月を残すのみだ。大学進学を考えているし、新天地で何かを起こそうという気概も無い。静かに、卒業するまで大人しくするつもりでいた。

学校の特徴を家族に話すと、妹が呆れた様に口をきく。

――なにそれ、陸の孤島じゃん。

妹の皮肉は的をえていた。学校は三方を塞がれているために、登校口は西にしか開いていなかった。学校に行くための道は葉脈のように分かれているが、実際に校門に辿り着く頃には一つの道に絞られている。その道を遮断されれば、学校は完全に孤立するのだ。


六時限目の終了を知らせるチャイムが鳴った。同時にそれは放課後を示していた。

今は七月の初旬。夏服に身を包む生徒達は、大義そうに帰り支度を始める。今日一日の作務を終わらせたのだという、大仰な仕草で。

犬神も、例に漏れずその一人だった。窓際の席で欠伸を噛み殺す。そして、教室を出ていくクラスメイトたちを、何とはなしに眺めた。仲の良い者同士グループを作って下校したり、談笑しているものも居る。最終学年という段階に入り、彼らの団結は強固になっているのは目に見えて分かった。だから今さら犬神がその輪に入るのは難しかった。

犬神は静かに孤立していた。

 そしてそれを射る視線があることを、犬神は知っている。一人だけ、彼に目を向ける者が居た。そしてそれは、犬神の席へと近づいてくる。

 ――またか。

 目を伏せてそれに備えた。

「しけた面してんなぁ」

 目の前に立って軽薄に笑うのは、予想通り黒木という男子だった。彼も帰り支度を済ませていた。学校指定の鞄を、机に落とす。といってもそれほど音がしない。大して中身が入っていないのだろう。

「いつもの事だよ」

 言って、見よがしに溜息をつく。物憂い気に窓辺を眺める少年。それを演じて孤独を隠すのは、少々無理があるようだ。

「それとも、天気のせいじゃないかな」

 犬神は、窓の外を見やる。

 真っ白に景色を呑み込むそれ。霧が辺りを覆い尽くしていた。夏真っ盛りの時期にはそぐわない光景である。

「先公が早く帰れ、だってよ。こんな濃い霧は見たことねぇって」

 黒木は言う。犬神もこんな光景が見た事が無かった。気が付くと、他の生徒はほとんど教室を出ている。

「どっちにしろ、寄る所なんてない」

「何いってんだよ」

 黒木は笑う。不思議の国のアリスに出てくるふざけた猫みたいだと思った。

「お前は俺と、体育館に直行だ」

「だからお断りだって、何度も言ってるだろ」

 犬神は以前の高校でバドミントンをやっていた。その学校はバドミントンの強豪校であり、インターハイの常連だった。といっても犬神の実力はその栄光に及ぶものでは無い。レギュラーとして活躍することは無かった。中学はエースだったが、冷静に考えれば全国のエリートが集結しているのだ。そこでまた競争があるのは当たり前と言える。そして、犬神はそのレースから脱落したのだ。

「補欠でも、あそこでプレーしていたんだろ?」

 口を滑らせたことを後悔する。編入初日の自己紹介で、挨拶のネタにバドミントンをやっていた、と言ったのがマズかった。もうやらないつもりで、部活に入る事も考えていなかったのだ。しかし、黒木はそんな事情は知ったこと無いようだ。バドミントンをやっていたと聞くと、最初の休憩時間に声をかけてきた。余りの熱意に、最初は宗教勧誘か何かと身構えてしまったほどだ。是非うちのバドミントン部に入部してくれ、君は救世主だ、とかなんとかのたまった。何度断っても、しつこく勧誘してきた。それは、残念ながら今日も続くようだ。

「悪いけどもう辞めたんだ。三年生だしさ、勉強に集中したいんだよ」

 追い払うためだけの口実では無かった。前の学校では部活に集中する余り、勉強が疎かになっていた節がある。それは自分でも反省していた。進学希望の身としては、そろそろ受験に向けて臨戦態勢をとらねばならない。

「その言い訳は何度も聞いてる」

「お前が言わせてるんだろう」

「体育館も充分なスペースだし、今入部してくれれば、九月までの部費も払わなくていいから」

 黒木は犬神の主張を聞かない。自分の話だけを進める。

「大体、新聞部の方にも話は付けてある。今更断られたんじゃ、俺の面子が潰れるだろ」

「新聞部?」

 いつの間にそんな、という言葉を呑み込む。

「いや、期待の新人が入ってくるから、今年の夏は凄い事になるってね。良い記事が出来ると教えてやった。ここの新聞部は二人しか居ないけど、機関紙も出しているし、学校の定例月報にも載るような熱心な部活だ」

 犬神は眉根を寄せる。

「そういう……勝手に話を進めるなよ」

 黒木の方は悪びれた様子は無い。

「なんで、構わないだろ。三年の俺達は夏の試合が最後だ。正直いって、長い付き合いでも無いぞ。……それによ、ここに来て思い出の一つや二つ、残したいと思わないか?」

「全然。そんなの」

 反射的に言った後で、決まりが悪くなった。咄嗟に黒木から視線を外し、窓の外を見る。そんなつもりは無かったのだが、犬神は何かを見つけた。目を凝らすと、霧の向こうに奇妙な人影を発見した。下校する生徒にしては奇観だった。

「――――安藤だ」

 同じく視線を這わせていた黒木が、その人物を言い当てる。無論、聞いた事の無い名前である。

「ほら、新聞部の」

 話の傍から妙な符合だ。少しばかり暗澹たる気分が立ち込め、犬神は眉を引き締める。だが黒木の方も、胡乱な目付きで窓に視線を打つ。

「でもどうしたんだろ、あいつ」

「なにが?」

 改めて外を覗き込む。確かに安藤という男子は、奇妙な歩き方をしていた。左腕を庇っているのか、体が傾いたまま進んでいる。足取りが非常にぎこちない。ひょっとしたら怪我をしているのかもしれない。

 黒木は窓を開けた。冷気が教室の中に入っていく。触れてみると、肌に絡めつくような不気味な感触だった。

「おい、どうかしたか」

 黒木が大声を上げると、安藤は気付いたのか、こっちに手を挙げた。表情は暗いが、何とか無事なようだ。危篤そうな様子はない。

「大丈夫みたいだな」

 彼は窓を閉める。さほど心配した様子は見せず、再び部活勧誘に話を戻した。

「見学だけでもいいからさ、今日だけ体育館に来ないか。練習を見て貰うだけでも、いいんだけど」

 仕方なく、犬神は頷いた。

「わかったよ」

 黒木は目を丸くする。

「お、何だ。急に素直になったな」

「何だよ。行かなくていいのか?」

 彼は慌てて首を横に振る。

「いや、そんな事は無い。大歓迎だ」

 冗談めかして、犬神が言う。

「観念したんだ。ここらで了承しないと、周りにも付き合いの悪いイメージが付きそうだ。編入早々、それは頂けない」

 黒木は笑って、彼の肩を叩く。

「賢明な判断だ」

「見るだけだぞ、練習見るだけ」

 教室を出たのは二人が最後だった。電気を消すと、より一層外の白さが際立つ。犬神は昔読んだスティーブン・キングのホラー小説を思い出した。霧に囲まれたマーケット。住人達はそこに閉じ込められ、外には出られない。やがて、濃霧の奥からは恐ろしい異形の怪物が…………。

 ――――馬鹿馬鹿しい。

 己の妄想に自嘲めいた苦笑を浮かべ、そのまま教室を後にした。

 

 ※

 

 シャープペンシルの先が英単語を書き記していく。ひたすら繰り返されるそれは、勉強というよりも義務的な作業に近いと感じる。果たして、自分の頭に入っているのかどうか疑わしい。一時間も経てば、忘却の彼方に違い無い。

小泉陽菜は、小さな溜息をついた。

小泉は、長テーブルに対面して座る川本梓に視線を注ぐ。彼女はイヤホンで音楽を聴きながら数式を黙々と解いていた。それだけなのに、と小泉は思う。その光景は額縁に入れて飾っておきたいほど画になっていた。無表情だが端整なその顔立ちは、凛々しさが香料のように広がっている。同性をも惹きつけてしまうような魅力を感じてしまうのだ。

図書室は静まり返っていた。受付に居た事務員も、書庫を行ったり来たりしているうちに姿を見せなくなっていた。ここからでは時計の短針が時を刻む音も聞こえない。窓の奥は霧のおかげですっかり白くなっていて、外の様子もわからなかった。小泉の隣には、佐藤美香が同じように勉強している。図書館に居るのはこの三人だけだった。

「もう限界。頭痛くなってきた」

 蜘蛛の巣を払う様に、静寂が破られる。佐藤がお手上げという調子で、シャープペンシルを投げた。それは川本の方まで転がっていったが、彼女は取ってあげる仕草もしない。気付いていないというより、興味が無いという感じだった。

「いつまで経っても終わらないし、このプリント。内容だって、教科書丸写しの虫食い問題じゃん。手抜きしすぎ、腹立つ」

 生物のプリント問題を解いているらしいが、佐藤は全く進んでいる様子が無かった。

「う、うん……そうだよね」

 小泉は相槌を打ちつつ、川本の表情を窺った。やはり無表情だが、怒っている様にも見える。ひやひやしていると、佐藤は飽きて世間話を始める。

「ねぇ、陽菜。そういえばさ、昨日のアリトーク観た? ほっちゃんが……」

「帰る」川本が言うなり、席を立った。

 小泉はその姿に茫然とする。

「でも川本さん、今日は一緒に勉強しようって……」

 ――だから誘ったのに。

 川本は淡々と道具を片づける。

「一応、決めていた分は終わったから」

 夜の黒を吸い込んだような澄んだ瞳には、小泉たちは映っていない。もっと先の何かを見据えているような眼差しだった。支度が出来てそのまま出ていこうとするので、小泉は慌てて席を立った。

「それに、今日は弓道部の練習はお休みだって言っていたじゃない」

「練習は休みだけど」彼女は振り返る。

「家で勉強していた方が、効率がいいから」言って、佐藤の方に一瞥する。「ここじゃ、とても無理」

 言い残して、川本は廊下に消える。追いかけそうになる小泉を、佐藤が引きとめた。

「放っておきなよ、あんなの」

「でも……」

 小泉の瞳には未練が残っていた。佐藤は出口の方をねめつける。

「ちょっと見栄えがいいからってさ、お高くとまりすぎ」

 小泉は返す言葉を持たなかった。反駁するための材料が無いというよりも、川本に言い去られたショックの方が大きかったからだ。

 佐藤は大仰に溜息を漏らすと、プリントを仕舞い始めた。

「あたしたちも帰ろ。今日はもう無理」

「うん……」

 どん、と大きな音がして、小泉は跳び上がりそうになった。音は背後の窓からだった。振り返る。窓は白い画用紙を貼りつけた様だったが、その中にぼんやりとシルエットが映っていた。人の形をしたそれが、窓にぶつかったのだろう。

「誰なの?」

 佐藤が目を細める。何かのイタズラだろうか。外の天気のせいで、誰なのかはっきりしない。小泉は薄気味悪さを感じた。

人影はしばらくふらふらとさまよっていたが、やがて離れていったのだろう。溶けるようにして消えていった。


 ※


 放課後、村田は教室を出る。部室に行くつもりだった。

 深陽高校は体育館を除いて三つの校舎がある。クラスの教室が並ぶ一般教棟、音楽室や理科室などが集まった特別教棟、最後に部活動の所室が集められた部室棟がある。村田はその部室棟に向かっていた。

「あれ、村田。おまえ帰らないの? 外凄いぜ」

 すれ違った友達が聞いてきたので、部活だと答えた。すると彼は、馬鹿にした様な目で村田を見る。

「ああ、新聞部ね。てか、まだ活動してたんだ」

「してるよ。学級新聞、月に一回は発刊してるじゃん」

 彼は鼻で笑う。

「あんなの、誰も読まねぇだろ」

 その言い方に村田はむっとしたが、黙って通り過ぎる事にした。相手にするな、と己をなだめる。

 いつもこんな調子だ、と思う。特に運動部の連中は、文化系の部活を見下している気がする。確かに、新聞部はたったの二人だが、熱心に活動している。文化祭では、二年連続で新聞部の出展が表彰を受けた事があるらしい。部員が少なくても、同好会に格下げされていないのはそのためだと村田は思う。

 ――まぁ、言わせておけばいいさ。

 見ると、廊下の窓はミルク色に染まっていた。こんな濃い霧は今まで見た事が無かった。

 部室のドアを開けると、もう一人の部員にして部長を務める、安藤が居た。彼はテーブルの席についている。

「こんにちは」

 言って、村田は頭を下げる。村田はまだ一年生だったが、安藤はもう三年生だ。彼は背が高く強面である。身体付きも細いが華奢な訳では無く、引き締まって精悍な体つきだった。

 安藤はぐったりとしていた。パイプ椅子に大きな身体を預けている。

「部長、どうかしたんですか」

 顔も青ざめている。牙の抜かれたサーベルタイガーの様だと思った。安藤は村田に目を向ける。やっと村田の存在に気付いたという感じで、返事をした。

「ああ、村田か。お疲れさん」

 彼は左腕を抑えていた。湿布が貼られている。保健室で治療を受けたに違いない。

「それ、どうしたんですか。怪我したんすか」

「噛まれた」

 一瞬、彼の言っている事が理解出来なかった。体育の授業で怪我をした、喧嘩して怪我をした、なら分かる。

「どういう事ですか?」

 要領の得ない村田に、安藤は抑揚無く言葉を繋げる。 

「いきなり噛みつかれたんだよ、知らない奴に。いや、二年の生徒だったかな。校章が赤だったから――」

「でも、どうして」

「噛んだ奴に聞いてくれ。俺の知った事か」

 味の無くなったガムを吐きだす様に、彼は言い捨てる。村田は良い様の出来ない気味の悪さを覚えた。

「大丈夫なんですか、でも」

「ぶん殴ってやったけどさ。でも手応え無いし、なんかそいつ気持ち悪くて――」

「確かに気味が悪いですよ」

 それにしても安藤に喧嘩を売る様な生徒が居たとは。

「そうえいば、さっき黒木に会った」安藤は話を変えた。

「噂の編入生もそこに居たしな。今日だったろ、取材は」

 バドミントン部の記事が決まっていた。三年生に優秀な経験者が入部するらしく、夏の大会でも活躍すると意気込んでいる。スポーツ系統の記事は何度も記載しているが、はっきり言ってうちのバドミントンは零細弱小だ。だから、今まで碌に取り上げる事は無かった。

「ええ……でも」

 安藤は見るからに調子が良くない。しかし、何故そこまで体調が優れないのかわからなかった。まさか、噛まれたくらいで彼がそこまでぐったりするとは思えない。村田の不安気な表情を察したのか、安藤は苦笑を浮かべる。

「悪いけど、一人で先に行ってて貰えるかな。なんか調子が悪くて」

 わかりました、と村田は答える。どんな記事を書くかは、企画会議を開く。だが取材や執筆、紙面のレイアウトなどはそれぞれ分業だった。

「行けそうだったら電話するからさ――って、無理か」

「何でです?」

「いや……」

 言いにくそうに、安藤は自分の携帯電話を取り出す。

「圏外なんだわ、このポンコツ」

 村田も何となく自分の携帯電話を開いてみた。

同じだった。いつも三本のアンテナが表示されている筈が、オレンジ色で圏外と出ている。これはどういう事だろうか。二人の電話機はそれぞれ違う会社だ。だから、そうそう同じ様になるのは珍しい筈なのだが……。

「自分も駄目ですねぇ……なんでだろ」

 外には濃霧が立ち込めている。何かの関係があるのだろうか。村田の返事を聞いて安藤は眉をひそめたが、すぐに戻った。

「電波の調子が、悪いだけだろう」

 本当にそうだろうか。脳裏によぎった言葉に、村田は自分自身で困惑する。何故自分は今そんな事を考えたのだろう。

「では、早速ですが取材してきます」

 不安を薙ぎ払う様に、鞄を机に置く。

 メモ帳を取り出した。まだ真新しい。文字で埋まっているのはまだ数ページしか無い。安藤のメモ帳を見せて貰った事があるが、それは分厚く黄色く変色していて、びっしりと文字が書き込まれていた。村田はそれを思い出しながらいつもメモを取る。長年使われてきた感じ、沢山書かれた充実感。ページを指の腹で撫でると、表面の凹凸が伝わってくる。早く自分もその感覚を味わいたい、と思う。

 ここが自分の居場所なのだ。村田は部室に居るのが心地よいと感じる。教室や家では惨めな事が多くても、ここなら自分に出来る事がある。自分のやるべき事が、しっかりと用意されている様な気がする。

 ――部長は恩人だ。

 階段を下りて一階に向かう。目指す体育館は独立している。そのためには、一度外に出なければならないが、大した距離でも無いので上履きのままで行く事が多い。

 外に出ると、水蒸気で肌が湿っていく。視界はほとんど遮られていた。近くにある筈の体育館も霞んで見える程度だ。霧は禍々しい気配を湛えている。灰色のそれは、いざなうように村田を包み込む。

 ――これは、異常だ。

 何かがおかしい。そう感じた瞬間だった。漂う白の向こうに、何かを見つけた。

 目を見開いて、村田は絶叫した。

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