第19章 悲しみの淵から立ちあがれ。


第十九章 悲しみの淵から立ち上がれ



 唄子がソファの横に倒れていた。脈をみた。頸動脈に指をあてた。キリコは横に首をふった。

「えっ、死んでるの」

 百子がひくくつぶやいた。安らかな、死に顔だった。美智子は懸命に涙をおさえた。それでも嗚咽がもれた。やがて、涙もこぼれはじめた。

 泣きだすと、もう止まらない。

――ごめんね。すぐにきていればこんなことには、ならなかった。警察の事情聴取を受けていた。

 はじめは「有名人だからといって遠慮しません」などとっていた。

それはそうだろう。あれだけの白兵戦が自由が丘の街中でおこなわれたのだ。あとになって、穏やかな取り調べとなった。上層部から指示があったのだろう。マトリガールズのキリコもいた。

 フロリダから来たポリスの隼人もいた。だいいち。一般家庭が黒服の暴力集団に襲われた。などとは、発表できるはずがない。

 ――ごめんね。唄子。唄子はもう口をきくことはない。そう思うと、悲しみはさらに深く、重くなった。その重苦しい悲しみの中で、美智子はかんがえていた。いちど、死に神にとりつかれると、もう逃げることはできないのか。

 ――どうして……わたしの家から……やはり、自殺なのだろうか。クスリを飲んだのかしら。検死官の役などやったことはない。推理小説も読まない。美智子にはなにもわからない。医学の知識のないことが、歯がゆかった。

 唄子の死因。なにが原因なの。話しかけても、返事はもどってこない。あの爽やかな、少し甘えたような調子のある、唄子の声は聞くことができないのだ。

 もう、この世でふたたび唄子の肉声は聞くことが出来ない。床に文字が書いてある。Zとよめた。手にはボールペンが握られていた。メモ帳がおちている。なにか書こうとしていたのだ。本が乱雑に床に散らばっていた。他殺だとしたら、犯人が唄子の本棚でなにか探したの。なにを? 美智子の頭を一瞬暗黒がよぎった。黒い波頭が現れて消えた。鉤状に曲がった五本の指が、本をつかんでいる。なにかページを繰って探している。男はこちらに背を向けている。透視はそこまでだった。

 顔はわからない。アイツラだろう。黒服だ。なにを探していたのか。ようやく目覚めた美智子の能力ではそこまでだった。翔太郎ジイちゃんがいれば、もっとビジョンが見えるはずだ。床にはダイイング・メッセージのZ。 

 猫のモ―が鳴いている。モーが唄子の顔をペロペロなめている。ニャニャと小さな声で鳴いている。猫パンチをそっと唄子のアゴにくりだした。毎朝こうして朝の遅い唄子を起こしていたのだ。いつものように、猫パンチをすれば唄子が起きると思っている。悲しそうに……鳴いている。唄子が死んだのがわってきたのだろうか。それとも……まだ眠っていると思い、おこそうとしているのだろうか。わからない。また、猫パンチをくりだした。

 そっと……やさしく……ママ、起きてよ

 抱き上げても、もがいて、あばれ――唄子のところに戻ってしまう。もう唄子が目覚めないのに。死んだのがわからないのだ。


「Zは、アルファベットの最後の文字でしょう。だからもう終わりだ……とか、そんなわけないよね」

 キリコがひかえめな声だつぶやく。

「ないとおもう」

 キリコが美智子の悲しみを和らげようてしている。わざとおどけたつぶやきだ。それがわかるだけに、百子もやんわりと否定した。

「あの文字をZと見るから、いくら考えても意味がわからないのだとおもう」

 美智子がめずらしく、発言する。

「じゃ、なんと読むの」

 キリコと百子がセカセカきく。

「こうしてみると、ほら……」

 ケイタイにZとうちこんで横にしてみせた。Nに見える。

「Nだったら、日輪教の頭文字のNかも知れない」

「そうか。Nね」

 ふたりは感心している。日輪教の黒服にコロサレタということなの? ふたりは同じ疑問。らしい。

「それは警察にまかせましょうよ。どうせわたしたちが、いくらかんがえてもわからないわ。わたしね。おもいだしたの。日輪教に唄子と監禁されていたときにいろんなこと聞いた。唄子いっていた。『はじめはマリファナだった。なんの気なしに、パーティですすめられたの。それから習慣になった。やめられなくなった。健一はわたしにはやさしかった。収入のあるわたしを引きとめておくために麻薬をすすめた。そんなことない。クセになってわたしが、やめられなくなったのよ』

 かわいそうな唄子。おおぜいのひとに取り囲まれていた。でもいつもひとりぼっちだった。その唄子がいっていた。

『わたしがこうして捕まっているのは、健一がヤッラの流通経路を知ってると思っているからよ。それをシャベレばバイ人が捕まる。元売りまでたどられる。だからわたしを拉致して健一を牽制している。健一も知らないのではないかしら。ただひとつだけ……気になることがあるの。日光の細尾でスケートしたことがあった。日光の遅い桜がさいていた。だから去年の五月ごろだった。室内リンクのリストルームてバイ人が接触してきた。すごく安い値段だった。それをいうと、地元ですからってバイ人が笑っていた。わたしそのことを、日光の観光案内のパンフレットに書きとめた。〈地元?〉なんのことかしら? そうメモした記憶がある。あのときは……わからなかった。なにも危険を感じなかった』

 そうよ、このNはNIKKOのNよ。

 唄子は本棚で、そのときのパンフレットの綴じこみをさがしていたのよ。

 わたしたちに命がけで知らせたかったのよ。あいつらが、なぜわてたしちを襲うのか。大麻や麻薬絡みだって、確証をつかみたかったのよ。



 唄子の死因が調べられている。ケイタイの通話記録から、最後に話した相手として美智子が呼びだされた。警察では、唄子はどこか他で殺されたとみている。

「ヤッパ―、美智子さんがいうように、隼人、Nが秘めたメッセージの意味を調べる必要がありそうね」

 キリコが黒い瞳をキラキラさせて隼人を見上げる。兄の秀行の事務所だ。あれほど注意深い唄子が知らない人を部屋に入れるだろうか。あるいは……やり外に呼びだされたのか。

 美智子たちが駆けつけたときには、唄子の部屋のキ―は解錠されていた。

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