第14話 愛の絆。

第十四章 愛の絆



 薄暗い部屋だ。ここにつれこまれてから幾日になるのだろう。

 翔太郎は長い夢をみていた。

 バラの庭園にいた。いつの日か塾の講師を引退したら。小説を書くことができるようになったら。フルタイムで書けるようになったら。原稿料がまたはいるようになったら。

「庭のバラをもっとふやしたら」と智子にいってやる。

「もう待ちくたびれたわ。あまりむりしなくていいから。あてにしないで待っている」智子の声だけがする。

「ターシャーの庭とはいかないが。あの万分の一の庭でも一緒に作ろう」

「あなたが、庭仕事するところ見たいわ。あまり期待はしていないけど」

 声はする。華やいだ、やさしい妻の声はする。妻の姿は見当たらない。赤いバラが咲いている。黄色いバラ。紫雲。ピンクのアンジラ。でも智子の好きだった白いバラが圧倒的に多い。あれはアイスバーグ。あるいは、「安曇野」のようなあわいピンクの可憐なバラ。バラの咲き乱れ庭園で……。あれは……。智子がバラの花言葉をいっている。

「白いバラは約束をまもる。純潔。枯れた白いバラは生涯を誓う」

 声はするが妻はそのバラ園にいない。

 妻の身になにかあったのだ。いない。いない。

「智子。智子。智子」

 妻の名をよびながらこれは、やはり夢だと気づいていた。

 妻の名をよびながら、智子にはもう会えないと。妻はもうこの世にいない。と、気づいていた。

 翔太郎は目覚めた。

 おれが不甲斐ないばかりに、子どもや孫にまで迷惑をかけている。こういうことが起きては困る。黒い森の鬼神の攻撃が妻や子どもにまでおよんでは困る。その思いで子どもたち三人を東京へ逃がしたのに。おれに力がないために智子を死なせてしまった。智子はもういない。もういない。

 おれ――とおもったり、わたし……おもったりする。こころが乱れている証拠だ。理恵たち、子どもを守って。孫の美智子も守って。おねがい。あなた。わたしはあなたのCDを守ったから。あなたの作品は守ったから。智子が、妻がCDさしだしている。これは夢ではない。わたしの能力が見せている光景だ。智子はもうこの世にいないのだろう。わずかばかりの能力。幽かな……微々たる能力。人に見えないものが見える。ただそけれだけのことだ。智子は、ふいに消えてしまった。

 バラの咲き乱れる庭。静かに飲む午後の紅茶。お互いの顔を見つめあいながらの死。そんな最期を夢見ていたのに……。

 わたしは、鹿沼を離れるべきではなかった。わたしは家を留守にしてはいけなかったのだ。

 わたしさえ、智子のそばにいれば、智子を守れたはずだ。いや、守れないまでも智子だけを死なせずに済んだ。死ぬ時は一緒と決めていたのに。約束していたのに。かわいそうに、ひとり寂しく死んでいった。


2       


 美智子は奥の扉の向こうへ消えた。

 隼人は美智子を目前にして助けられなかった。

 美智子は男たちに引きずられて……。部屋から消えた。扉は開かない。冷酷な、リアルな世界。扉でへだてられただけなのに。もう美智子は見えない。

 美智子の姿はここにない。霧太が開いてくれた扉から――。隼人は廊下にとびだした。隣の部屋には廊下から入る扉がない。なにかこの建物はおかしい。怪しい。ふつうの建物の基準からいっても奇妙だ。

 廊下がながくつづいている。隼人は走る。走る。走る。手を伸ばせばとどく距離に美智子がいた。それなのに助けられなかった。

 王仁には榊流の拳法はつうじなかった。ことごとくかわわされた。

 美智子!

 美智子!!

 美智子!!!

 廊下がいきづまった。上下に向かって階段があった。

「みんなは、上へ」

 秀行が叫んでいる。隼人は階下への階段を駆け下りていた。


 

 迎撃してくる敵が現れない。

「わたしたちが、駆けつけるのが速かったのよ。だから敵が少ないの」

 キリコが並んで走っている。隼人の考えを読んでいる。

「あいつら、まだここには集結していない。日輪教の本部のほうは建築中。あれが完成したら、ここが日輪教の大本山になる。そうなったら、やつらわんさか集ってくる」

「キリコ。余計なことはいい。いまは、人質になっている美智子さんを助けることだ」

 周囲に気をくばりながら秀行がいう。隼人は思念をとばした。

 ――美智子どこにいる。きこえるか。美智子。

 叫べ。

 泣け。

 美智子、どこに連れていかれた。

 どこにいる?

 美智子の顔を想う。美智子の顔が隼人の頭に浮かぶ。その顔にむかって呼びかける。フシギナ熱気が体のすみずみまで広がる。美智子と発音した。それだけだ。力がみなぎってくる。声に出さなくても、想っただけでも高揚する。こころが、エネルギーにみちみちてくる。

 階段をおりる。

「車の発着音がする。地下駐車場があるわ。車で逃げるってことないわよね」

「このビルのまわりは部下が固めている。外には逃げられない」

 秀行の局長としてのタノモシイ返事。采配。

 美智子のことを想いつづける。美智子がそばにいるような体の温もりすら感じる。美智子はここにいる。ここにいる。もうすぐた。もうすぐ会える。

 それにしても、美智子は悲しい瞳をしていた。なんともいえない、悲しい顔だ。

 これは!! 

 隼人の心臓が跳ねた。隼人のこころがよろこびに震えた。いる。いる。唄子がいっしょだ。ビジョンが見えた。美智子が見えた。唄子と一緒だ。



「麻耶翔太郎。おまえが、正義とおもって、信念を貫き通して生きてきた結果がこれかよ」

 男がドアから入ってきた。外目には、フツウの男に見える。

「どうした。暇か」

 男はバカにしたような調子でつづけていった。

 男は――。

 別のものに見える――。

 翔太郎には吸血鬼の姿に変わっていく男の姿が見えている。

「あっさりとわたしも殺してくれ。妻のいないこの世に未練はない」

「おや、女房が死んだと――わかるのか。おまえさんは、じぶんには特別な能力があると思って生きてきたはずだ。でも、妻の死を察知するその程度かよ。街の守護こそわが家系の役目などと思いあがって生きてきた。だが、おまえの家に火をつけたのはだれだかわかっているだろう」

「鬼神が煽動したのだ」

「いやちがうね。ひとはあまりにも潔白に生きるものを嫌うのだよ。邪なかんがえを読みとられることを嫌うのだ」

「わたしは純粋に生きてきた。わたしをいまさら洗脳しようとするな。殺せ」

「わからないやつだな。そうできるなら、とっくにおまえなんか消去していた。それができないのだ」

「どうしてだ? どうして殺さなかった」

「麻耶翔太郎。あなたさまは――わが一族の美樹姫の幼なじみだというから……」

 音声をかえている。からかわれているのだ。口調までかえている。別に尊敬しているわけではないのに。軽蔑しているのに。あなたさまは、などといっている。からかわれているのだ。

「……いままで生きのびてこられたのだ。まさか少しくらい超感覚があるから、その能力で生きてこられたなんて過信しているわけではないだろうな」

 鬼神がひまつぶしの会話をたのしむようにしゃべっている。

 翔太郎は、むかし街の北端にある黒い森の泉の辺で遊んだ少女を思いだした。

いまのいままで、美樹が鬼神の姫だとはしらなかった。あの墓場の先にある黒い森で遊んだ少女が鬼神のお姫様だった。ファンタジーもいいところだ。グリム童話の世界みたいだ。

「姫からおまえのことは、傷つけるなといわれているからな。それでブジなのがわからなかったろう」

「それで美樹は元気なのか? どこにいる」

「ほんとに、おまえってやつは無知だな。それでよく伝奇小説が書けるな。もっとも……だから日の目をみないのだ。売れないのだ」

「元気なのか。どこにいる」

「バカか。鬼神に元気かって訊くことの愚かさがわからないのか。姫はこの東京にいる。いつもおまえを見守っている……」

 翔太郎は足もとが、がらがらと崩壊するのを感じた。いままでかんがえてもみなかった世界があった。いままでかんがえてもみなかった異世界にすでに触れていた。幼いときから異世界の住人と接触していた。

 美樹が鬼神だなどと、夢にもおもったことはない。

――美智子、美智子。

 孫娘に呼びかけた。

 どこにいる。どこにいる。

 かすかな念波を翔太郎はとらえた。

 誰かが、孫の美智子に必死で呼びかけている。



 誰から発しているのかわからない。強い念波が美智子に呼びかけている。このビルに美智子がいる。美智子が囚われている。念波から、美智子を想うこころと不安感がよみとれる。

 助けなければ。美智子を助けなければ――。翔太郎は立ち上がった。鬼神は消えている。

 配下がきて、なにか耳打ちした。――またひとりとりのこされた。……このビルの何処かに美智子がいる。念波が、美智子に呼びかけている。美智子を探している。


 智子の声も聞こえる。

 助けてあげて。あなた、美智子を助けてあげて。


 美智子。美智子。

 思念で呼びかけながら隼人は部屋から部屋へと走る。ここは、まえの階とちがう。狭い部屋が幾つもある。どの部屋もロックされていない。まだ使用されてはいない。

 

――美智子。

 

――こちら翔太郎。麻耶翔太郎だ。美智子がここにいるのか。

 隼人が翔太郎の念波をキャッチした。

 ――美智子さんの、オジイチャンですね。

 隼人と翔太郎の念波がコネクトした。

 翔太郎の頭の中に直接話しかけてくる言葉。


 ドアが外から開けられた。

 隼人たちが立っていた。


「翔太郎さん……ですか」

 この青年だ。直人クンにそっくりのこの青年だ。思念をとばしていたのはこの若者だ。


「美智子はブジなのか!!」



――直人、なおと、ナ…オ…ト……。

 こんどは、美智子の思念が、幽かにかすかに流れてきた。

――助けて……。翔太郎と隼人がその思念を受信した。直ぐ近くから発信されている。ふたりは走りだした。翔太郎はろくに食事もあたえられていなかった。そんなことは忘れている。体力が弱っていることは気にならない。孫を救いだしたい。それは亡き妻、智子のねがいでもある。


 美智子の思念は直人と呼びかけている。

 美智子さんは、錯乱している。直人がまだ生きているような。錯覚。リアルにまだ直人が存在していると信じているのだ。さきほど、接触したときも直人と呼びかけてきた。かぼそい、まったく抑揚のない声だった。美智子は憔悴しきっているのだ。はやく助けなければ!! 隼人の背筋が総毛だっような感覚におそわれた。

 いる。

 この部屋だ。

 ノブに手をかける。

 手の皮膚がひりひりした。

 開ける。

 黒服の男の向こうに美智子がいた。女を抱き起している。美智子の顔がゆがんでいる。女は唄子。美智子は恐怖におののいている。それでも、唄子を抱え込んでいた。みずからの体を盾にしていた。友だちのことは守る。生命にかえても守る。

「おまえはもういらない。なんの役にもたたない。邪魔だ。唄子、おわりだ。死んでくれや」

王仁がぼそぼそいっさている。翔太郎と隼人が、秀行と霧太とキリコが部屋に乱入した。翔太郎は男の背後からとびかかった。

 拳銃を持った手をかかえこんだ。

 男が発砲した。壁に弾はあたった。跳弾となって何ヵ所かのコンクリートの壁をけずった。

 秀行の配下がかけつける。

 銃声はきこえた。

 この音は聞こえたはずだ。

 翔太郎は王仁にとびかかった。勇気をあたえてくれた妻のことばに報いるために。おれは妻さえ守れなかった。でも、妻にいわれたとおり、孫の美智子は守ったからな。とび跳ねた弾が翔太郎の肩にめりこんだ。孫を守ることがこのジジイにできた。だったら……。すまない。智子。おまえのことだって守れたはずなのに。ひとり家にのこすべきではなかった。



 跳弾が翔太郎の左の肩甲骨にめりこんだ。

「ジイちゃん!!」

 焼けるような激痛。

 意識のコントロールがきかない。

 痛みにからだがふるえている。

 周囲のひとがかすんでいく。

 意識がモウロウとしている。

「ジイちゃん」

 薄闇のなかで声がする。

 薄闇のなかで誰か戦っている。――美智子をたのむ。美智子をたのむ。部屋の隅に誰かが運んでくれた。足手まといだ。なんの役にもたてないジジイだ。肩のあたりがぐっしょりとしている。おびただしい血だ。血をながしている。出血している。バラの匂いがする。妖艶な香り。鹿沼の家にいる。バラの棘をさしたのだ。智子が血を吸ってくれている。

「毒がまわるとたいへんよ。知っている。リルケはバラに刺されて死んだの」

 智子が指の血を吸っている。この香りはブルームーン。智子が指からふきだした血をくちびるでぬぐってくれている。うっとりとして……意識がうすれていく。

 ツルバラが咲いている。黄色のモッコウバラ。アンジラも咲きだしている。もの狂わしいほどのバラの花々。バラの花と香りのつつまれて死ねるなんてしあわせだ。ルイ十四世。アイスバーク。紫雲。智子の姿が薄らぐ。女が隣に倒れている。 翔太郎は知らなかったが酒の谷唄子だった。

「翔太郎、オジイチャン」

 美智子がいる。叫んでいる。美智子が泣いている。

 よかった。

 美智子がブジでよかった。

「おやおや、一族再会ですか。涙の対面ですね」

 鬼門組の黒服がいる。黒いカラスのように戦っている。王仁が余裕の笑みで近寄ってくる。王仁の配下もかけつけた。隼人、キリコ、秀行か王仁に追いすがって駈けよってくる。かれらは入り乱れて戦っている。

「智子は?」

 意識をとりもどした翔太郎が声にだした。こんどこそ、翔太郎は現実にもどっている。隼人がくびを横にふった。イメージで見たとおりのことが、鹿沼で起きたのだ。翔太郎はそう悟った。



 美智子が声をとばす。

「ジイチャン」

 翔太郎がすばやく反応する。肩の痛みは感じない。血も止まっている。孫の美智子への愛が翔太郎に気力をあたえた。美智子を助けようと戦列に向かって突き進む。翔太郎が襲おうとした男。それは翔太郎を拉致した男だ。翔太郎はそのまま進む。美智子をかかえこんでいる男が声をはりあげる。この男だ。拳銃を発射した男だ。

「来るな。ジジイ」

 定番どおりだ。男は美智子の喉元にナイフをあてている。

「王仁と呼ばれるのはおまえなのか」

「それがどうした」

「ならば。えんりょは無用だな」

 翔太郎が掌底突きの構えをする。

「いいのか。喉をきるぞ」

「首にかみついたら」

 と翔太郎は、冷淡にいいはなった。

「そのほうが、好みだろう」

 ブラフだった。わずかなこころのスキが王仁に生じた。一瞬、王仁は美智子に首筋に視線を落とした。色白のなめらかな美女の首筋。王仁の足を美智子がヒールでおもいきり踏みつけた。王仁がよろける。そのすきに、美智子が翔太郎に走りよってくる。

「オジイチャン」

 ナイフが投げられた。翔太郎が美智子をかばう。翔太郎にナイフがつきたつ。翔太郎が倒れる。肩の傷がひらく。鮮血が噴く。ナイフが刺さっている。ナイフは腕に刺さっている。銃弾が当ったすこし下だ。

「まだだぁ!!」

 翔太郎が、起きあがる。両足を開く。エネルギーのありったけをこめた。智子の仇だ。翔太郎は生涯初めて殺意をこめて念波を放った。王仁が部屋の隅までふっとんだ。美智子が翔太郎にすがりつく。

「オジイチャン!!」

 肩から血が吹きだしている。ナイフは刺さったままだ。起き上がる。座った。

「オジイチャン。死なないで」

 敵の正体をはっきり見て死ねる。生まれたときから、いやむかしからわが一族が戦ってきた敵に。一矢報いることができてよかった。長いこと封印されていた能力もこれで出し切った。

 美智子を救えて満足だ。孫の手を握って死ねるなんて幸せだ。

「直人くんに、美智子の気もちは伝えておく。智子と一緒にあの世から、美智子のことは見守っているからな」

「オジイチャン!!! いっちゃいやだ。いやだよ」

「美智子……」

 もう声がでない。美智子がからだを寄せてくる。

「でも……でも……こんなことでは、これくらいの痛みでは、傷ではおれは死にはしない。まだ、そうだ守るべきものがある。子どもたちがいる。孫がいる。敵には致命傷をあたえていない。アイツラが確実に存在するからには、おれは死ねない。死に行くものの演技をしているだけだ。こんなことで死んでたまるか。智子に会うのは後だ。今少しおれに時間をくれ」

 声にはなっていなかった。

「…美智子……恋せ乙女よ………恋をしなさい…………もういちど恋をするといい………隼人君と……恋人は………………」


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