シーラカンスの初恋

麻屋与志夫

第1話 霧降の滝

prologue

いま生起しているものは、以前に生起した。将来生起するであろうものも、以前に生起した。そして神は、過ぎ去ったものを再び探し求める。


                         「ソロモン」第三章十五節


                              

第一章 霧降の滝


1


「どこまでいくの」

「霧降の滝」

「タクシーで行きましょう」

「歩くのがすきですから」

 女は「わたしもよ」といってついてきた。

 断られたことが、うれしそうだ。

「霧降になんのためにいくの。寒いわよ。今頃なにもない。紅葉はとっくに終わっているし。きみのこと浅草からずっと見てたの」

「気づいていた。どうしてぼくを見ているのかと……」

「あら、さいごまで聞かせて。なにいおうとしたの」

 道の端にはワイヤーロープのガード柵がつらなっている。

 ふたりの距離が近寄っている。肩がふれるほどだ。

「なに見てるの……?」

 女は少年にほほがふれるほど顔を寄せていた。道端にクマが座っていた。かなりおおきな木彫だった。

「クマさんに興味があるの? それとも彫刻」

 後のほうなら好ましい。といった願がこめられている。

「冬の蝶。もう飛べない。それとも飛ぼうとしないのかな」

 少年の視線のさきで干からびた蝶が羽を休めていた。蝶に鱗粉の艶はなかった。

 クマの木彫の頭にとまっていた。羽は動いていた。飛翔しようとしているようには見えなかった。蝶はすでに死んでいる。

「あらっ」

 女が体をこごめてなにか拾った。

「山藤の鞘(さや)ね。アスファルトの上に種を播いても芽はでないのに……かわいそう。……来年、藤の季節にきてみないわ」

 少年は沈黙。藤の鞘、種はこぼれ出てしまっている。茶色に退色した鞘。女の手のなかの鞘を少年はのぞきこんでいる。

「それって、デートのお誘いですか」

 しばらくして、少年がぼそっといった。

「そうよ」 

「春になって、バスが通るようになるころには藤の花は散ってしまうかもしれません」

「そんなことないもん。わたし霧降は……はじめてじゃないの。なんどもきてる。そう、なんどもなんどもきたわ」

 霧降の滝という木製の道標の上のほうに「山のレストラン」が見えていた。山小屋風で二階建てだ。

「帰りに寄りましょう」

 石畳の道には初雪が斑模様にのこっていた。

「その靴ではあぶないな。レストランにもどって、スニカーでもか

りてきますか」

 少年が気配りを示す。

「いいから、手を繋いで。崖と反対側を歩く。あなたも、注意して

手すりに頼ってよ」  

 かさっと音をたてて霜柱が崩れた。

 氷柱がなんぼんも垂れている。

 その先から溶けた水が雫となって霜柱の群れに落ちていた。

 ふいに、鐘がなった。

 霜柱が崩れた。

 鐘の音に妨げられた。

 霜柱の崩れるかすかな音は聞こえなかった。

 鐘が冬の山にこだましている。

 女は土砂止めの石垣に生えた苔に触れた。そっと愛撫するしぐさをみせている。 苔は青々としている。この季節に青さを誇る植物がある。

 女は動かない。

 愛撫のしぐさに、さらにこまやかな表情がくわわる。なにか、声をだして少年に呼びかけようとする。唇が半開きになった。すぐには、言葉は生まれてこない。

「ずいぶん時間がかかったものね。でも、おかげですごくたのしかった」

 山間のペンションで鳴らしているのだろう。時を知らせる鐘の音が寒々とした霧降の山にひびきわたっていた。

「だれもいない……霧降の滝を、ひとりじめにしている。あらごめんなさい。あなたがいるわね」

「ぼくも同じことを思っていた」

「うれしいわ。あなたとは、気が合いそうね」

 木々の葉が落ちつくしている。観瀑台からは滝の全貌が見はらせた。何段にも分かれて流れ落ちている白い滝。かすかに滝音がひびいていた。まわりは灰褐色の切り立った崖になっている。


2


 女が少年を連れてドアを押した。

 レジにいたマネージャーがはっとした表情を見せた。それでも、あわてて客を迎える顔をとりもどした。

「ごぶさたしたわ」

 女がマネージャーにだけ聞けるように声を低めた。一階にはほかに客はいない。 ウエイトレスが近寄ってきた。滝のよく見えるベランダ際の席へ案内された。

「すばらしい。ナイススペクタクル」

 少年が大人びた様子で賞賛する。滝を見下ろせる席に着く。女は感傷に浸るように、滝を見ていた。しばらくして、少年と向き合うとメニュを手にした。

「わたしは、舌ヒラメのムニエル。あなたは、」

 あなたはと呼びかける。

 恋人どうしの雰囲気になっていることに女は満足している。

「あそこに、滝壺に降りる道があったのよ。ほら模造丸太でトウセンボがしてあるでしょう」

 皿はさげられ、コーヒーがテーブルにはこばれてくる。

 香ばしいイイ匂いがしている。

 窓の外をゆびさして女が少年に説明する。

「ああ、あのガードバー」

「あそこから下りたことがあるの」

 女が涙声になる。

「なにかあったのですか」

「彼が途中の崖から転落死したの。どうしても滝壺を見たい。滝壺から霧降の滝を見上げる写真を撮りたい。鳥瞰の写真はあるが俯瞰のものは少ない。霧降の美しさは滝壺まで下りなければとらえられない。彼、プロのカメラマンだったの」

 少年の顔が話の途中から、さっとくもった。

 沈黙。

 なにか悟ったような深い沈黙。

 もうなにもいわないのではないか。

 長すぎる沈黙。

「今日が彼の命日なの。悪いわね。しめっぽい話につきあわせてしまって」

 沈黙。

 そして少年は吐息をもらした。

 女は回想の中に埋没して、少年の反応を見落としていた。

「ふたりで暮らしたかった。……彼の最後の言葉よ」

「すぐになくならなかった。……即死ではなかった」

「そうよ。古川記念病院で一晩苦しみぬいたわ。そして、うなされて、いろんなこといったわ。おれが死んだら悲しまないでくれ。またかならずめぐりあえるから。三年目の命日に霧降に来てくれ。そうすれば、おれは待っている。いいか、三年目だ。それまで、さよならだ。さようなら。そういって、息絶えたの。……今日……がその日、なの」

 女は少年を覗き込む。少年は女の視線を正面から受け止める。女は少年の言葉を期待する。

「わたしそれから耐えた。なにもしないで、いやしたわ。彼の撮った写真を元にしてわたしの庭に霧降の滝のミニチァを作った。滝はいまでも流れている」


3


 女が話している間――。少年は滝への下り口があったという、狭い岩だらけの道を見ていた。通行を禁止するバーにも青い苔が生えている。

「わたしは……わたしは、もう独りじゃないと感じている。わたし独りで生きてきたけれど、もう独りじゃない。いや、きっといままでだって彼がわたしを見守っていた。だからこうして生きてこられた」

「そうですね」

 少年があいづちをうった。女は少年の声に真摯なものを感じた。

「あなたは立派に生きてきた。そう。みごとにといっていいでしょうね」

「ありがとう」

「彼もよろこんでいますよ。きっと、よろこんでいます」

「ありがとう。そう思ってくれているの……」

「きっとそうです。ぼくには確信があります」

 こんどこそ、女ははらはらと涙をこぼした。

「わたし泣いている。涙なんかもう枯れ果てたと思っていたのに。わたし泣いている」

 腫れた瞼からとめどもな涙が流れ落ちていた。


 窓の外で車の停車音がした。

 何台も車が急停車した。

 はげしく車が大地をけずるスキッド音がふたりのところまでとどいた。

 マネージャーの男が窓際による。

 カーテンの隙間からレストランの下の駐車場をかねている広場を見ている。

 男は戻ってくる。男はひどく緊張している。動きがぎこちない。なにかを納得させるように……女に目線をおくる。

「こちらへどうぞ」

 少年は奥の調理場に導かれる。

 背後で女がすっくと立ち上がる気配がした。

 ふりかえった少年の視線の先で女は口元をペーパーナプキンで拭いていた。

 ロングドレスのポケットから弾丸状のものをとりだした。

 リップスティックだった。こころの準備をするかのように、ゆっくりと口紅をひく。口紅をぬっただけで、いままで顔をおおっていた、はかなさが消えた。それでもまだ寂しさの残った声がした。

「わたしの小さな霧降の滝を見にきてください」

 少年に女が駈けもどって声をかける。

 おねがい。

 唇だけが動いた。


4


 ドアの外に足音がした。

 あわただしく、石の階段を駆け上がってくる足音。切迫した足音が近寄ってくる。女はきりっとした動作で扉に向かう。ノブに手をかけてからもういちど、少年のほうを振りかえった。

 お…ね…が…い。


 調理室の奥。スタッフの休憩室。みんなテレビを見ている。テレビにはこのレストランの正面階段が映っていた。

「さすがに女優だ。ことしの主演女優賞とっただけのことはある」

 マネージャーが少年と部屋に入ってくる。彼女はマイクをつきつけられている。

「中山美智子さん。どうしてパーティーの席から脱け出したのですか」

「どうして霧降にきたのですか」

「なにかあったのですか」

「なにか不愉快なことでもいわれたのですか」

 そんなことはなかった。なにもなかった。いやあった。受賞が決まった昨夜から一睡もしていない。

 三次会でシャンペンを口にするまで、直人のことを忘れていた。そして、ふいに気づいた。いまからいけば、霧降には午前中につく。事務所主催の今夜のパティーまでにはもどれる。

 どうして、約束の日を忘れていたのか。思いがけない受賞で気が動転していたのだわ。

 三年間片時も忘れたことはなかったのに。……わたしどうかしていた。直人のことを思いだしたら……ついふらふらと……浅草にいた。

「霧降は――霧降は……わたしのカムバックをいちばんよろこんでくれる彼との思いでの場所ですから」

 美智子はマイクから意識をはずした。マイクを意識しないことにした。

 見られている。

 聴かれている。

 演技を強いられたような声で応えていた。美智子の言葉に反応した。気づいたレポーターがいた。

「もうしわけありません。わたしたちは中山さんの彼との思いでの場所に乱入したわけですね。榊直人さんにご報告にきたのですね。カムバックの第一作で、みごと主演女優賞に輝いた感激の一言。賞をもらったいま、これからの抱負を聞かせてください」

 棒読みしているようなぎこちない質問。


「中山美智子。直人さんの恋人は女優さんだなんて聞いていなかった」

 怪訝な顔のマネージャーに少年は微笑み返す。

「よく似ているので、中山さんとおいでになったとき」

「ゴ―ストでも見たと思った」

「はい。榊直人さんにそっくりです」

「直人は、パパの兄の子です。ぼくらはいとこ同士です」


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