第十一話 不眠

 俺が天から授かった、不眠という艱難。

 只でさえ崩れやすい均衡を自ら崩してしまった。三日前のゲーム三昧が祟って、今、長い夜の洞窟の中をさまよっている。

 目を閉じても、ピンク色の模様が漂うばかりで、一向に夢が始まらない。いつまでも意識が立ち退いてくれない。ずっと考え事をしていて、何度も未だに眠れていないことに気づく。

 眠れないのは非常に辛いのにもかかわらず、誰を恨んだらいいかわからない。片手に収まりきらないくらいの薬を飲んでも効果が現れないこの苦しみは、誰のせいなのだろう。誰のせいでもなく、体質なのだろうと割り切るには苦痛が大きすぎる。

 無視された気分になるのだ。


 不眠の何が辛いかってひたすら暇なことだ。何もせずにただ目を閉じて横になり続けるのは根気がいる。ふとしたことで起き上がってしまう。普段暇なときはスマートフォンをいじっているが、それができないとなるとどうやって過ごしたら良いかわからない。ここでスマートフォンを見てしまったらあとが辛くなるから我慢しようと頑張る。考え事に戻る。しかし眠れないのだ。

 

 時計の方へ目をやる。もう午前二時だ。頭の中は軽い。眠気は重く粘り気がある。それが頭に溜まってくると眠くなるはずなのだ。


 だいたいスマートフォンを通してやることもないのだ。ゲームは先日吐き気がするほどやったから当分やりたくなくなった。他にやることは思いつかない。俺は何をするのが好きだったのだろうか。


 真っ暗な部屋の天井には、カーテンの隙間から差し込んだ、月光だか付近のライトだかわからない薄い光が見える。天井から下がってくるとともに暗い色になる。部屋全体が濃い青紫色をしていた。机や本棚や椅子は同じ色になって気配を消している。まるで目を閉じているようだ。蛍光灯のひもを引っ張って、彼らを起こしてやる。 パッパッとかすかな音が二回鳴って、電気がつくと、先ほどまでとは別の部屋になったように色がつく。家具たちは眠っていたところを急に起こされて不機嫌そうだ。


 耐えきれなくなって電気をつけてみたが、やることは思いつかない。勉強はする気になれない。まぶしくてまぶたが痛いから本の類を読みたくない。


 ゆっくりとベッドから出て、椅子に腰掛けた。足が寒くて自然とエアコンのリモコンに手が伸びた。


 冷たい机に肘をついて考える。精神疾患の症状はほとんど消えたのに、唯一不眠だけが残ってしまったというのは皮肉な話だ。

 そもそも精神科に通い出したのは、不眠を診てもらうためだったはずだ。高校に入学した頃に寝付きがひどく悪くなったから、内科を受診すると総合病院の精神科を紹介されて、そこへ通い出したのだ。なぜか精神疾患の病名が付いた。睡眠導入剤を処方されて飲んだら、薬が強かったのか朝全く起きられなくなって、さらには授業中も眠ってしまうようになった。勉強がわからなくなって、遅刻や居眠りばかりしてしまう自分にも自信がなくなって、気がついたら薬は増えていき、学校へは通えなくなり、本当に精神疾患に陥って入院までしてしまった。後から付いてきた症状が回復しても、本当に治したかった不眠は治らないのだから、どこかで選択を誤ったに違いない。


 それにしても、眠れない。涙が出そうだ。誰もいない世界に一人でいなければならないこの苦しみ。皆眠っている中で自分だけ眠れないのは大変な孤独だ。数日前の自分はこの時間眠っていたのだから、過去の自分ですら大半があちら側だと思うと、ますます眠れないのが異常に思えてくる。

 自分だけ異常。好き好んでこちら側にいるわけではないのに。


 眼球だけ重くて、頭はキリキリと痛み、足腰は癒やされない疲れを抱えていた。


 気がつくとカーテンの色が変わっている。恐れていたことが起きた。もうすぐ夜が明けるのだ。一睡もできないまま朝になってしまった。

 これからでも寝よう。そう思い慌ててベッドに入ったが、朝日が瞼を通過してきて、目の前がだんだん明るくなっていく。疎ましくて身体を横に向けてみるが、少しすると先ほどと変わらなくなってきた。上半身を起こして目を開けると、完全に朝になっていた。あまりのまぶしさに、反射的な涙がにじみ出てくる。目から入った刺激が頭の奥まで差し込んで痛みだす。布団に潜り込んだ。息が苦しいのですぐに出るほかない。何かで目を隠したい。窓の反対側を向いて、目の部分を掛け布団の縁で覆い、口は外に出した。


 今更になって微弱な眠気がやってきた。しかし眠りにつけるほどではなかった。しばらく意地を張って動かないでいたが、諦めた。 

 怠いが、一日を始めてみよう。


 夜眠れないでいるのは大変孤独な時間だった。だが、まだマシな孤独だ、次の朝に比べたら。車やバイクが走る音がして、近所の人が活動しているのがわかる。テレビをつければニュース番組が放送されていて、今日の天気が画面上部に表示されている。世の中は何の問題もなく新しい一日を始めたというのに、俺だけまだ昨日を生きている。これほど寂しいことがあるだろうか。世界からすっかり取り残されている。


 頭が痛い。両親はもう仕事に行った。俺は次の夜までの長い時間、何をすれば良いのだろうか。

 勉強は出来ないから、テレビを見ることにした。もうすぐ正月だ。あと少しで年末年始の休みになる。クリスマスを過ぎて、CMは新春セールのことばかり宣伝していた。


 ぼんやりいていると正午になる。放送塔からメロディーが聞こえてきた。

 昼の眠気は鼻に溜まる。眠気は熱い物質なのだ。これを溶かせば眠れるが、今眠ってしまったらまた夜眠れなくなるから耐えなければならない。熱っぽくなって身体が火照る。手の平が熱いから、テーブルの天板に貼り付けた。表面だけ冷たくなった。


 このままでは眠ってしまうから、外出することにした。

 冷たい風が頬に吹き付けた。マフラーに顔を埋める。どこまで行こうか決めていなかったが、中学校の辺りまで行ってみることにした。

 さすがに歩くときはスマートフォンを使わないから、昼間でも考えに沈むことができる。

 大通りを歩きながら、それにしても不幸だなと思う。皆働いたり遊んだり恋人を作ったりしているのに、俺に関しては眠ることすら満足にできないのだから。どうして俺には人並みの幸せが与えられなかったのだろう。

 歩道の端には苔が生え、枯れた雑草がいくつも倒れている。陰気な風景だ。普段無心に通り過ぎてしまう道にも、よく見れば悲愴な運命が呈示されている。


 橋にさしかかる。水が流れている。数年前の自分だったら飛び込むことを空想しただろう。諦めきった今から思えば、ずいぶん真剣に生きていたものだ。

 日の当たる世界の連中は、その境地にすら至らないのだろう。せいぜいフラれたとか成績が悪かったとか、それくらいの不幸にしか遭わないから、明日が来ることを疑わないのだ。いくらでも仲間がいて、つらいときもつらいことを共有してくれる人間がある。少し努力すれば学歴でも職業でも手に入って、時間の潰し方には事欠かず、なぜだか知識も広くて初対面の人とでも平気で長い時間話が出来る。親の自慢の息子、娘。結婚は当たり前にできて、仕事もできるから給料も安定して入ってくるのだろう。順風満帆な人生。うらやましい。俺が望んでも何一つ手に入らないのに。それどころか健康ですらないのに。


 中学校の前に来た。雨で汚れた黄土色の校舎は相変わらずだ。冬休みだからか授業をしている様子はない。どこかの運動部が校舎の周りを集団で走っていた。

 俺と彼らはいつから違ったのだろう。どこで道が分かれたのだろうか。中学校ではすでに違いが見えた気がする。ならば、小学校か、幼稚園か、生まれる以前か……。

 きっといくら考えても知ることはできない。重要なのは「違っている」ことで、俺が不幸な部類の人間だということだ。孤独で、病気で、不器用で、それだけでもつらいのに、世の中では不幸は馬鹿にされるのだ。俺の意思でそうなっているわけではないのに、俺に非があるように言われて、嘲笑の対象になり、排斥され、迫害される。


 冷たい空気が鼻に触れる。眠気の波が到来して、足下がふらついた。今すぐ暖かいベッドに入りたい。どうして外になんて出たのだ。早く帰ろう。そして寝よう。


 手の平に汗をかいている。頭髪も少し湿っぽいようだ。曇り空は無慈悲に門を閉ざしている。地上には太陽の温かさが届かず、どんどん冷えてゆく。靴下とズボンの間から空気が入り込んできてそこだけ体温が感じられない。

 視界は丸めた紙を広げたかのようにところどころしわが寄っている。騒音がいつにも増してうるさく聞こえる。あくびがとまらない。マフラーは涙で濡れている。泣いているように見えたら嫌だ。


 ああもう! どうして俺の人生はこんなに苦しいのだろう。眠れないだけでこんなにつらくなるのに、幸せなんて夢のまた夢だ。

 あいつらから見たら、あまりにも不運で呆れられるだろう。なんのために生まれてきたのだ。


 ……。


 ……待てよ。


 俺の人生が不幸かどうかはあいつらが決めるのか? 

 

 まともに相手にしてくれない、名前すら覚えてくれない連中に、幸か不幸かの判断までされなければならないのか?

 

 いや違う。


 ……俺が幸せかどうか決められるのは、俺の他にいないじゃないか!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る