第七話 頭の中の不安と期待と

 何回までなら振り向いても怪しくないだろう。一度トイレに行くふりをして教室を出てみようか。腰を上げようとしたが、授業開始まであまり時間がないことに気づく。

 窓の外を見るふりをして最後にもう一度後ろの席の様子をうかがった。やはりいない。

 どうしたのだろう。授業だというのに前川さんが全然現れない。焦っていると教授が来てしまった。いよいよ後ろを向けなくなる。時計を見たらまだほんの少し早かった。こんな時に限って教授が授業に間に合うように現れるとは、残念だ。

 授業中は授業に集中すべきだ。いったん忘れよう。

 そう思ったはいいが、やはり気になってしまう。彼女が遅刻して来るかもしれないから、背中越しに誰か来ていないか探ってみるが、いるかいないか判別できない。感覚を研ぎ澄ましていると甲高いチョークの摩擦音が耳に侵入してくる。その度中断し、板書を写さなければならなかった。

 手に汗をかいてきた。白いルーズリーフに照明が反射し、いくらかまぶしい。一度まぶしいと思うと前方の机も教卓も壁も何もかもまぶしく感じられる。目が乾いてくる。何だか疲れた。

 今日はあまりウケていなかった。おそらく教授が用意してきたであろう話をしても、微妙に学生達の反応が遅い。なんだかこちらまで気を遣ってしまう。緩慢な雰囲気が流れて、俺の集中力はとっくに途切れていた。かすかな眠気を覚えた。時計を見上げる。残りあと二十分だ。前川さんは来たのか来ていないのか、二十分経ったら確かめられるのだ。

 

 分針をじっと見つめてチャイムが鳴るのを待った。教授が授業の終わりを告げた。一刻も早く後ろを向きたかったが、不自然になることを恐れて我慢した。学生たちが急に話を始めるために、何層もの声の響きが広がっていく。出席カードは二列後ろから回ってきた。

 やはり来なかったのだ。もしくは、他の席に座って授業を受けていたか。

 急いで出席カードを前の席の人に押しつけて、教室を見回した。学生達は鞄を抱えているか席を立つかいずれかだった。黒く分厚い上着を着た彼らの塊に視線を走らせる。いない。いない。亜麻色の長髪を必死に探し求めた。

 恐ろしげな話し声の中で、人々が不規則に蠢いていた。何が可笑しいのやら、皆一様に笑い合っていた。俺は一人輪の外で困難な作業を続けていた。徒労感がこみ上げてくる。

 ある瞬間、堰を切ったように学生達は出口から去って行った。足音が響く。塊がどんどん小さくなる。目で追いきれない。二つある入り口を交互に見る。どこにもいない。

 結局前川さんを見つけることは出来なかった。人々が流失するほうがずっと速かった。誰一人俺に気づくことなく、ふざけ合いながら去って行ってしまった。

 ひどく既視感のある光景だった。今までに何度も何度も存在を認識されぬまま一人取り残されていた。苦しみも悲しみも彼らの充実した日常の中で黙殺される。余計なものは邪魔なだけなのだろう。取るに足らないから、必要ないから、どれほど傷つけてもかまわない。

 ふと我に返った。残っているのはほんの数人の学生と教授のみであった。喪失感に身体の力を奪われながら、俺はふらふらと大学を後にした。

 

 街路樹が風に揺れて警告するようにざわめいた。夜空には星が一つもなかった。街灯に照らされた地面は丸い形に変色して、まるで水たまりのようだ。油と埃が混じった匂いがした。まだ営業している店舗の光が不健康に顔を照らす。一生涯足を踏み入れない世界の脇を通り過ぎる。

 ちょっと感傷に走りすぎた。何かされているわけでもないのに被害妄想をしてしまった。嫌な思い出というのはしばしば人間の思考を蝕む。だから疎ましいのだ。

 そもそも俺が考えるべきは彼女のことだけではないか。前川さんは休んだのだろうか。それとも他の席にいたのだろうか。休んでいてほしかった。他の席に移られたらもう会えなくなってしまう。

 全てを自分に関連付けて考えてしまうのは悪癖だった。それでも不安は膨れ上がった。もしかしたら、先週俺が休んだせいで不真面目さに愛想を尽かされたのかもしれない。または一週いなかったから興味をなくしてあの席に座る必要を感じなくなったのかもしれない。要は見捨てられた気がしたのだ。

 しかし、やはりただ単に来なかっただけなのかもしれない。確かめる術はない。来週は休講だと教授が言っていたから、再来週までこの不安に苛まれ続けるのか。先週から一週間耐えてやっと解放されるはずだったのに、まだ苦しみ続けなければならないのか。

 うんざりした。やり場のないイライラが、嫌な記憶まで伴って気分を最悪にした。

 

 五分ほど遅れてバスはやってきた。歩き出すと、待っている間に足に溜まった疲れが溶け出し、移ろいながら上半身まで浮上した。座席に座ると再び足に沈殿していった。

 身体に痛みがまとわりついている。このまま眠ってしまいたかった。だがここで眠っては帰宅後の睡眠に支障が出る。意地でも起きていなければならない。スマートフォンの光は睡眠を妨げるのだから、眠気覚ましにも使えるはずだ。俺は鞄を開ける。

 またしても通知が来ている。連絡アプリに中野からのメッセージが入っていた。俺が昨日聞いたことの返事だろう。

 アプリを開いてみる。

――来週の同窓会行くだろ?

こう俺は送ったのだが、

――バイトが入ってるから行かない。あれ普通に急すぎじゃね?

と返ってきていた。予想外だった。あの交友関係の広い中野が欠席するとは思わなかった。唯一確実に俺をまだ覚えているあの男が来ない……。

 

 嫌な予感がした。

 

 しかし、まさかつらい思いをするわけがないのだ。他ならぬ同窓会だ。高校の同級生は少々薄情だが決して悪い連中ではなかったから、俺を冷遇したりするはずがない。俺もよほどのことがなければ恥をかいたり不快な思いをさせたりしないだろう。

 途中からあまり登校できなかったとはいえ、いくつかの思い出がある学校だった。そういえば、野崎拓実という男には当時少しだけ書いていたブログを修学旅行の際教えたのだった。まだあれを覚えているだろうか。しばらくして放置したから閉鎖されたはずだが、内容をからかわれたりしたら恥ずかしい。その話だけはしないでくれと今から釘を刺しておこうか。いや、それはかえって思い出させてしまうだろう。参ったな。

 大木正治という生徒とは調理実習で、一緒にオムレツを焼き、焦がしたことがある。あのときは同じ班の生徒から非難囂々だった。懐かしいエピソードだ。飲みながら必ずこの話をしよう。盛り上がるに違いない。目に浮かぶようだ。大木は「参加する」にしていたと思うが、どうだろうと思って確認してみる。すると思った通り参加だった。

 現金にも楽しい気持ちになってきた。とにかく来週まで辛抱すれば、酒を飲みながら友人と話が出来るのだ。前川さんに会えなかった分良いことが起こるに違いない。授業後は孤独な気持ちになっていたが、俺にだって友人はいるし、飲みに行く機会だってあるのだ。決して寂しい奴などではない。大学では事情があるから友人が出来ないだけであって、実際には結構周りに恵まれている人間なのだ。今日の無駄な被害妄想も、飲み会での話のネタになるかもしれない。自虐ネタはかなりウケるのだから。中野には会えないが、写真でも撮って送ってやれば喜ばれるだろう。

 久しぶりに良い気分で高速道路を通った。気分によって見える景色が全然違う。今日はやけに車の流れが快調だ。なめらかに目の下を通り過ぎていってきれいだ。早く家に着かないだろうか。飲み会の後はすぐまた前川さんに会える。人生良いことだらけだ。

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