第四話 失敗

 十一月の夜は週を経るごとに暗さが増すようであった。秋は終わってしまった。浅い冬が地上を覆っていて、コートを着なければバス停まで来られなかった。

 火曜日が来るごとに憂鬱になる。前川さんとは何の進展もないままに、中古文学の授業はもう十回目だ。

 いつものように席に座り、無心に話を聞いていたら、突然教授が

「形式少し変えます。今日からはレジュメを皆さんに朗読してもらうことにしました」

と微笑んだ。

「誰にしよかなあ」

 ざわめく会場を見回していく彼。胸元を飾るスプライトのネクタイまでもがしたり顔に見える。

「はい。じゃあまず、Aのとこ、左側前から五番目の君、読んで」

 恐れていたことはあっさり実現した。指名された途端に文字が見えなくなった気がした。

「『土佐日記』とはどういう作品か」

教室の空気が揺らいだ。誰も声を発しないが、明らかに反応がおかしい。この場の主役は、眉を片方つり上げた。

「うーん。君の読んでるの、今回の分やないねえ。たぶん前回のちゃう? さっき配ったの、ちゃんと手元にある? 取られへんかった?」

「いえ、持っています。すみません間違えました」

「じゃ、正しいの、読んでみて」

 胃が苦しい。浅くなった呼吸に苦しめられながら、変な声で正しい箇所を読んだ。

 身動きがとれなかった。あまりに恥ずかしくて途中退場したくなった。強烈な失態。一番最初だからこの上なく目立ってしまった。あれではまるでうわの空で授業を受けていたようではないか。おそらく他の学生たちにはそう見えているのだろう。なんで間違えたりしたのだ。冷静に考えたら、レジュメと教授の前フリは同じ内容に決まっているではないか。なのに、どうして、どうして……。

 一人の学生のすさまじい苦悩をよそに、授業は通常通り進行していく。ときどき笑い声があがる。ウケたことを喜ぶ若い教授の緩んだ表情。先週までは俺もその輪の中にいた。だが今は別の世界にいる。

 来なければよかったのだ。風邪でも引いて休めばよかった。そうしたらこんなことにならなかった。無意味な後悔がひっきりなしに頭に浮かぶ。学部生並みに一度くらいサボりを試みればよかった……。

 以前のように知り合いがいなければそこまで気にする必要はなかったが、今回は知り合いがいるのだ。いや、つい忘れていたがまだ知り合いではなかった。片思いしている相手、というもっとも印象に気を遣うべき人が後ろにいるのだ。

 前川さん、俺のことを見損なっただろうか。ただ近くに座っている人から、不審な上に不真面目な男へと変わってしまった気がしてならない。前川さんの目に映った情けない自分が想像される。今も彼女の視界の中にいるのだ!

 結局、今日の授業は全く身に入らなかった。吐き気をこらえながらレジュメをただ見つめて終わってしまった。伊勢物語は高校時代に好んでいたから、今回の講義を楽しみにしていたのにもかかわらず、嫌な記憶が残った。これだから外に出るのは嫌なのだ。ずっと固まっていたから腕と脚が痛い。大慌てで荷物を鞄に詰めて、俺は教室から逃げ出した。


 車体が繋ぎ目の上を通るたびにバスが揺れて、窓ガラスが音を立てる。振動が身体に伝わってくる。夜の高速道路は退屈だ。全ての風景が見る間もなく通り過ぎて流れていく。誰も俺を迎えることなく、別の誰かを待っている。ただの暗闇に無力なライトが置いてあるだけ。鈍い痛み。

 暇だと嫌なことばかり考えてしまって全然抜け出せない。痛みから逃げたくて音楽を聴くことにした。スマートフォンを鞄から取り出す。

 相変わらずの振動とエンジン音でよく聞こえないから、音量を上げてみると、ようやく心地よい前奏を耳で拾い上げることができた。聞き慣れた音楽が一番安心できる。自分自身の世界が少しだけ戻ってきた。

 どうしてこのボーカルは、こんなに苦しげな歌詞を何の屈託もなく軽快に歌うのだろう。歌われる状況の半分は今の俺にぴったり合っていて、半分は全く経験のない遠くの世界のことだった。いつ聴いても似たような感覚を覚える。このために作られたわけではないけれど、あのような特殊な苦みすら、慰めてくれるような歌声だった。

 次々と再生されるプレイリストはいくらか癒やしになった。しかし傷口を塞ぐことはなかった。バスは高速道路を降りた。機械的な案内音声が無邪気に流れた。


 午後十時半過ぎ。ほとんど夜中だ。この辺りの住人にとっては、誰かが外を歩いているなんて考えにくいだろう。外気に身体の温度を奪われながら自宅まで歩いた。両親は既に眠っている。明かりがともった自室はどこか間抜けだ。家を出たときから一切変化していない光景。授業での失敗や俺の苦悩は、どこかに存在したのだろうか。夢であったのか?


 シャワーを浴びて自室に戻ってくれば、あとは眠ることしか出来ない。頭は冴えきって、休息する気配はないのに。目に入るのは茶色の天井ばかり。疲れているのだ。疲れたときは眼球が上向いて真上を見てしまう。照明がまぶしい。明るすぎる残像が目に焼き付く。ひどい一日であった。ひどい気分になった。

 全てが嫌になる。大学も病院もこの家で暮らすことも何もかもやめてしまいたい。理由はない。ただ嫌だから、やめてしまいたい。

 暖房は喉をかさつかせた。俺は水を飲んだ。深夜の身体は水を歓迎しなかった。異物感によって胃の位置がわかった。

 頭の中では延々と先ほどの曲の一部が流れ続けている。

 恋なんてやめてしまおう。どうせ報われるはずがないのだから。

 前川さんもまた、会話すらしないままに俺の前を通り過ぎて遠ざかって行くだけの女性に過ぎない。俺はそれを見届けてから、消えていく彼女の影によって無力さと孤独を思い知るだろう、これまでのとりとめない恋愛と同じように。それが現実に違いないのだ。一生涯その通りになるかどうかはわからない。だが今回は駄目だ。はっきりわかる。今回はこのまま終わっていく。授業の終わりがすなわち彼女との永遠の別れだ。

 支えのない背中がつらくて、吸い付くようにベッドに横たわった。しかし眠りにつくことはできそうもなかった。

 振り返ってみれば、最初の授業のあと、俺に見えていたのは美しい未来だったはずだ。まず意欲的に授業を聞き、空き時間には紹介された参考文献を手に取ってみたりして、中古文学についての理解を深め、今までで一番有意義な科目にして、当然評定も最良の記号をつけてもらう。加えて前川さんと何らかの方法で自然と仲良くなり、気がつけば授業の前後に話をする関係から普段も連絡を取ってプライベートでも遊ぶ仲まで発展し、そして、俺の告白が無事O.K.される。そんな未来を夢見た。

 ところがどうだろう。実際には、授業内容はその場で考える程度で他の時間は各雑事でいっぱいいっぱいだ。最後の試験もそんなに出来るとは思えない。なおかつ肝心の前川さんとはまともに話すらできていない。それどころかあんな失態までやらかして、彼女からの評価は最悪だろう。なんだか腹が痛くなってきた。何度理想を思い描いても、結局代わり映えのしないいつもの俺に帰着するんだ。成長や達成がなされるときなどあるのだろうか。一生このまま終わっていくのかもしれない。


 気がつくと朝になっていた。昼近くの強い日光が部屋に差し込んでいた。浅い眠りのうちに、昨日の授業の様子を何度も夢に見たらしい。現実よりも過酷な夢を。

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