大学院生と業者さん

時雨ハル

激甘コーヒーとお出かけ

 階段を上りながら腕時計に目を向ける。十時三十六分。この時間なら彼女はゼミに出席しているだろう。そのことに寂しさのような安堵のような感情を覚えつつ、革靴を来客用のスリッパに履き替えて研究室の扉をノックする。

「こんにちはー、日本バイオラボです」

 扉を開けながらいつものように名乗ると、数人の学生が挨拶をしてくれた。一人一人に挨拶を返しながらいつものように、

「こんにちは、渡部さん」

 ――いつものように仕事をしようとしたら、後ろから声がかけられた。

「こ、こんにちは。西岡さん」

 平静を装って挨拶してみても、動揺は隠しきれなかったらしい。ゼミに出席しているはずの西岡さんがにやりと笑う。

「ずいぶん驚いてますねえ。学生が研究室にいたらおかしいですか」

「おかしくないです。おかしくないですけど」

「昨日から教授が学会に出かけたのでゼミはお休みなんです」

「……そうですか」

 何故驚いたのか分かっていたなら最初から説明して欲しい。したり顔の彼女に文句を言う気も失せてしまった。溜め息を一つついてから仕事に取りかかることにする。

「とりあえず、発注のチェックをさせてもらいますね」

「はい。お願いします」

 取りかかるといっても薬品の棚に吊してあるノートを開くだけだが。済のサインが付いていない項目を確認し、商品番号を手帳にメモしていく。

「試験管と、酵素と……」

 三つ目、最後の発注メモで手が止まった。商品名のみで商品番号が書かれていない。もしやと思って発注者を見てみれば、

「……西岡さん」

 俺の背後でにこにこと笑っている大学院生の仕業らしい。この笑顔からしてわざとだ。絶対わざとだ。

「何でしょう、渡部さん」

「商品番号はちゃんと書いて下さいって、俺は何回言ったでしょうねえ」

「『俺』じゃなくて『私』でしょう。社会人のくせに言葉遣いがなってませんよ」

 もう一度溜め息。

「……とにかく、商品番号を教えてください。西岡さんと違って専門家じゃないんで、名前だけじゃ分かりませんよ」

 この発注メモを見る限りは何なのか全く予想が付かない。何者だよ、レストリクションプロテアーゼって。名前長いよ。

「怒りましたか?」

 俺の溜め息を違う方向に解釈したのか、西岡さんが顔を覗き込んでくる。可愛いなちくしょう。

「怒ってませんよ」

「知ってます」

 言うことはとことん可愛くないなちくしょう。

「商品番号ちょっと調べてきますね。待っててください」

 にこりと笑って部屋の奥へと駆けていく。あの笑顔で言われてしまっては文句も言えやしない。もう一度溜め息をつくと、分厚いカタログを持った彼女がすぐに戻ってきた。実験台の上にカタログを広げ、慣れた手つきでページをめくっていく。

「えーっと、確かこの辺に……あったあった。これです」

 彼女が指さしたページには確かにレスト何とかが載っている。最初から調べてくれればいいのになあと思いつつ、商品番号を手帳に書き留めた。カタログの説明によると、この試薬でタンパク質を……駄目だ、分からん。

「じゃあ納品の日が分かったら連絡しますね」

「はい。お願いします」

 手帳を閉じて鞄にしまい、発注ノートを元の位置に戻す。いつもなら挨拶をして実験へ戻る西岡さんが、「あ」と声を上げてまた部屋の奥へと消えてしまった。何だろうと首をひねりつつ、開きっぱなしだったカタログを閉じてみる。多分忘れてた実験でも思い出したんだろうと結論付けて出口へと足を向けた。

「待って、渡部さん待ってください」

 パタパタというスリッパの音と共に呼び止められる。振り返ってみると、缶が目の前に突き出された。思わずのけぞる。

「……なんですか?」

「お詫びです。いたずらの」

「はあ」

 いたずらだったのかとか、最初からやるなとか、毎日のようにやってて今更お詫びかよとか、言いたいことは山のように思い浮かんだんだけど。

「どうぞ。渡部さんの好きなコーヒーですよ」

 多分確信犯である笑顔で言われたら受け取らないわけにはいかないのである。いいようにされてるなあ、俺。

「えーっと、どうも」

 特に気の利いた台詞も思いつかないので、適当なお礼の言葉で受け取っておく。

「いえいえ。お仕事頑張ってくださいね」

「ありがとうございます」

 笑顔で言われて元気が出ない訳がない。頑張ります、とちょっと力強く宣言して、俺は研究室を後にした。

 もらった缶コーヒーは激甘だった。俺甘いの苦手なんだけど。


 *


 西岡さんは、とある大学院の博士課程に在籍している。年の割には幼く見えて、かなり可愛い方だと思う。ついでに頭も良くて後輩には頼りにされているらしい。アメリカとかに行って自分の研究を英語で発表しちゃうこともあるらしい。だからといって研究以外に興味が無いわけでもなく、おしゃれだし話題の引き出しも多い。

 でも、俺に対しては何故か優しくない。むしろ生意気ですらある。理由は多分、俺が高校の時からの知り合いだから。あとはからかいやすいとか……認めたくないけど。

「おはようございます、渡部さん」

「おはようございます」

 俺を見つけたときのこの笑顔は何なんだろう。そんなにいたずらしたいんだろうか。ストレスは人間以外で解消した方がいいと思うよ。

「この間注文された品を持ってきましたよ。どこに置きましょうか?」

「えーと、とりあえずこっちの机に」

 試験管を運ぶのはやたらと気を遣う。ガラスがぶつかる音にびくびくしながら試験管の箱を机に置いた。

「あとこっちが酵素で、こっちが……」

 レスト何とか。昨日覚えようとしたはずなのに全く思い出せない。

「ああ。ありがとうございます」

 名前を言わなくてもさすがに察してくれたようで、頷く西岡さんに商品を渡す。

「お疲れ様です。今日もコーヒーいりますか?」

 にっこりと尋ねる彼女の笑顔は、昨日の甘すぎるコーヒーが故意であることを雄弁に語っている、気がする。

「いえ、遠慮しておきます」

「そうですか」

 残念ですねえ、と本当に残念そうに呟く。俺をいたわりたいっていう純粋な思いからだったら激甘コーヒーだろうが毒だろうが喜んで受け取るんですけどね。

「そういえば渡部さん」

「はいはい」

「今度同窓会をしようっていう話があるらしいですよ」

 全く関係ない方向に話題が逸れた。その手に持ったハイフィ何とかは片付けなくていいんだろうか。

「同窓会、ですか」

「はい」

 西岡さんと並ぶと俺の方が年上に見えるけど、一応俺と西岡さんは同じクラスだったこともある。性別が違うこともあって、そこまで仲良くはなかったけど。

「同じ四組だった金沢くんとかが。覚えてます?」

「ああ、あの目立ちたがり屋の」

「そう、目立ちたがりの」

 口元に手を当てて、くすくすと笑う。やっぱり可愛いなぁ……いやいや、仕事中に何考えてるんだ。まあ顔が可愛いのは事実だし仕方ないし。いや、顔だけ可愛いとかそういうんじゃなくてね。

「渡部さんは行きますか?」

「え? あ、」

 おっと、うっかり変な方向に思考が逸れそうだった。危ない危ない。

「どうでしょうねえ……決まってみないことには何とも」

 そもそも仲良しの友人達とはたまに会うし、あんまり同窓会に魅力を感じないんだよな。

「西岡さんは行くんですか?」

「そうですね。予定が合えば」

 まだ本当にやるかどうかも決まってないらしいですけどね、と西岡さんが笑う。それから手の中のレスト何とかを見て「あ」と声を上げた。

「しまった、これ冷凍庫に入れてきます」

「はい。じゃあまた今度」

 頭を下げて小走りに去っていく西岡さんの背中を少し見つめてから踵を返す。彼女が同窓会に行くなら行ってもいいかな、とか思わなくもない。そして酔っぱらった彼女を介抱しつつ……いや、どっちかというと介抱されたいかな。

 妄想しながら研究室を出る俺の後ろで学生さんが声を上げた。

「西岡先輩、それこの間注文してたやつですか?」

「うん。さっき届いたところ」

「でもそれ、私がさっき見たときは十分余ってたような……」

 何か嫌な予感のする会話が俺の背後で繰り広げられている。そーっと振り返ってみると、後輩らしい女の子の背中越しに西岡さんとばっちり目があった。

 にやりと笑う西岡さん。

「そうだったっけ? 間違えて注文しちゃったみたい」

 嘘だ。絶対嘘だ。

「でもこれ結構使うし。すぐになくなるよね」

「それもそうですね。あ、そういえば私さっそくそれ使って実験するんでした」

 では、とおじぎして実験室へ去る後輩さんに手をひらひらと振ってから、西岡さんはこっちに視線を戻す。

「という訳でした。すみません、渡部さん」

 何とも感情のこもっていない謝罪をされた。

「いやまあ、いいですけどね」

 会社側の人間としては、たくさん買ってくれるのを喜ぶべき……なんだろうか?

「あ、じゃあお詫びにこんなのはどうでしょう」

 いかにも良いことを思い付いた、という顔の西岡さんが手を叩く。嫌な予感しかしません。

「二人でお出かけしましょう」

 まぶしいくらいに可愛い笑顔で、そんなことをおっしゃった。

「お出かけ、ですか?」

「はい」

 お出かけってつまり、アレじゃないだろうか。男女が二人で出かけると言ったら一つしか思い付かない。いや、西岡さんのことだからまた俺をからかってるのか。

「来週の土曜は暇ですか?」

 いや、いやいやまさか。

「暇、ですけど」

「じゃあお出かけしましょう。五時に駅集合で」

「は、はい。えっと、どこに行きましょうか」

 これはまたからかわれてるんだって、頭では分かってる。分かってるけど、期待せずにはいられないのが悲しい所だ。

「秘密です」

 人差し指を立てて、唇に当てる。そんな仕草で言われてしまえば反論できるはずもなく。

「私に任せておいてください」

 頷く以外の選択肢なんて俺には残されていないのである。

「じゃああの、楽しみにしときます」

「はい」

 なんて言うか、惚れた俺の負けだよな。どこに行っても彼女がいればそれなりに楽しめる気はするけど。

「あ。日付が変わってから帰ることになるかもしれないので、次の日はあんまり早くに予定を入れない方がいいですよ」

 え、どこ行くの?

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