一九九四年。春。

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 私が説いた賽の流れとは、言ってしまえば「偶然性の否定」である。


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 阿嘉町晨乃高校。阿嘉町の中心部に位置する、あまりこれといった特徴が無い共学の普通校だ。

 僕は、1994年の春にこの高校に入学した。


 時は放課後に進む。

 帰り道何処で遊ぶだとか。ラーメンでも食べに行くかだとか。そんな声が周りから聞こえては通り過ぎていく。僕もいつもなら遊びに行くのだが、僕の目の前にいる親友の翔太は、数学の教科書を開いて僕に見せてくるのだった。

「なぁなぁ、これも教えてくれよ。智大ぉ。帰りに、もうひとつパン奢るからさ。な?」

「そうやって、釣っても意味無いぞ。翔太。今回は仕方なくなんだからな。」

「さんきゅ。智大はほんとに優しいなぁ。」


 翔太は僕の小学校からの友人だ。小学校から一緒なんてかなり珍しい事で、なんだか運命じみたものまで感じてしまう。

 あまり頭がよくなく、中学時代は赤点の常連で有名だった。だけど、性格は明るくていつも回りを笑わせる良い奴。よく人を観察する目を持っていて、人の根底をよく見透かしてくる。時々、よく僕の思っている事を、言い当ててきてはからかうのだった。


 高校に入っても翔太は変わらず成績は良くなかったが、今回翔太の尻の火がついたのは、ある理由があった。

 何でもテストの点数が悪いと、親にポケベルを買ってもらえないらしい。

 なんとまぁこの現金なヤツは、試験まであと一週間という所で僕に勉強を教えさせる為にパンで釣るのだった。


「なぁ智大。この問題はどうやるんだ?」

 翔太は、ほぼ新品に近い数学の教科書を見開きにして僕に手渡す。

 どれどれ.....。

 なんて、先生みたいな言葉を呟くと教科書に目を通してみる。


 ─────それを見て、僕は声が出なかった。


「翔太.....。これ中学校で習う奴だぞ。二次関数とか、少し前に授業で復習したじゃあないか。」

 それは、中学校で習っている筈の範囲だったからだ。

「そうか?そんなん忘れたわ。」

 ポカンとした顔で言ってくる。


 あぁ.....これじゃあ絶望的だ。

 一週間で、出来るかどうか─────。


 ────その時視界の外で、誰かが廊下を通った。

 反射的にそれを見た翔太は、僕の肩を叩いてきた。


「...おいおい...!あれ.....!」

「なんだよ。今お前にわかりやすく教えようとしてるんだからちょっと待ってくれ。」

 普通なら気にも止めないことなのに、翔太の目は廊下の方へ向いて静止している。


「いいから...!あれ...!」

 小さい声で、僕の顔を廊下に向けさせる。


「─────あ・・・。」

 そこに居たのはシルクの様な黒く長い髪に、目鼻立ちのきりっとした凛々しい顔の少女がいた。身長は低い、多分160センチ弱だろう。なのに目付きは鋭くて、例えるなら猫を連想させる。

 でも何処か可愛げで、触れてしまえば壊れてしまいそうな儚さを持っている。


「.....あれ同級生にいたっけ?」

 翔太はぼそぼそと、耳打ちをしてくる。

「.......さぁ、多分定時制じゃないかな。今の時間から定時制の授業が始まると思うし。」

 翔太に習って、ぼそぼそ細い声で返す。

 この学校は、全日制の授業が終わると、定時制の授業がここの教室を借りて行われる。

 僕達は定時制が来る前に学校を出ていってしまうから、「定時制」という名前だけは知っていたが、生徒を目の当たりにするのは初めてだった。



「─────あの、ここ。今から使うんです。」


 その子は教室に顔だけをひょこっと入れて、少量の優しさを含んだ声音で注意してきた。


「───────あっ、ごめん!」

 あまりに可愛くて、僕も時を忘れていた。

「翔太。場所を変えよう。近くのファミレスでやった方が良さそうだ。」

 僕は向かい合わせにくっつけた机を元に戻すと、そう言った。

「おっ.....おう。」

 乗り気では無い声が返ってくる。が、そんなの関係ない。翔太を押し出す形で僕達は、校舎から出た。



 ▪️

「惚れたろ。智大。」

 駐輪場に着くと、翔太がにやにやしながらそんな事を言い出す。

「なんだよ。うるさいな。」

 反発すると、翔太は笑いながら僕の肩を叩いた。

「素直じゃないな智大は。大丈夫だって、俺も惚れちゃったし。」

「なんだお前もかよ。だったら名前でも聞きたかったな。」

「いやいや、それは気持ち悪いって。知らない生徒からいきなり名前訊かれたら引かれちゃうだろ。」

「そうか?そうでもないと思うんだけど。」

「なんていうか、デリカシーってやつ?智大はそれが足りないわ。」

「うるさいな。お前、ファミレスで奢ってくれなきゃさっきの問題教えないぞ。」

「なんだよそれぇ!」


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 これは、僕が怜に初めて会ったお話。

 季節は流れ。一九九四年の春は、彼女に会うこともなく終わっていく。


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 阿嘉町、今月の行方不明者。十三名。

 通り魔殺人事件。九件。

 この全てが、証拠品も目撃者もなし。凶器もなし。

 死因は、全て自然死。 ただ。死んだ。


 初期の状況では殺人ではなく事故として取り上げられたが、被害者が多数であり、かつ短期間に同件が発生した為。三人目にして殺人事件と断定された。



「蓮見。大丈夫か?最近元気ないな。」

「そりゃそうですよ。リンドウさん。こうも、犯人が何時まで経っても捕まらないんじゃ、私の機嫌も悪くなります───────

 .....刑事やってきて史上初ですよ。こんな怪事件。」

 私は酒の様に熱いコーヒーを飲み干した。

 ここは、特異な事件を担当する事務所である。警察とも繋がってはいるが、そこまであいつらと仲がいい訳では無い。

 ここに座っている、リンドウさんは数年前の事件のせいで警察を辞めている。今は時々事務所にふらっと来ては、私の愚痴を聞く人になっていた。


「.....そうだろうなぁ。凶器も見つからなきゃ、目撃者も居ない。外傷が無いのに、人が死ぬんだもんなぁ。」

 綺麗に剃られた顎に手を当てて、考え込むリンドウさんを見るのは久しぶりだ。いつ見ても、リンドウさんのこのポーズには独特の雰囲気がある。

「なにか手掛かりでもないもんですかねぇ。もう藁にもすがりたい感じですよ。」

 私は冗談交じりに軽く、言ってみる。


 笑ってくれると期待したが、リンドウさんはポーズを変えないまま静止していた。

 .....気持ちの悪い空気が流れる。


 仕方なく目線を、天井の模様に向けた時だった。

「.....藁にも縋りたいなら、いい所を知っている。

 ───『賽の館』って知っているか?」


「げ。あそこですか?」

 リンドウさんは、冗談を言う人ではない。私の冗談にも合わせてくれない少し堅い人なのだ。

 が、何だって「賽の館」を選んだのか気になった。

「昔、事件が起こった時世話になったんだよ。行ってみたらどうだ?」


 リンドウさんが持つ深く濁った茶色の両眼が、僕を見つめる。


「嫌です。あんな女は性にあわないので。」

 どう答えようか迷ったが、私はキッパリと言い捨ててコーヒーポットに向かった。

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