村人Aは、月は人を狂わせることを知りました

中学三年生、10月、時刻は21:30。

私は塾から家まで、自転車で帰宅していました。


長時間、頭をフル回転させていたせいか、全身に帯びる熱。

それが風を切ると共に、後方へと流れていく感覚が気持ちよく、上機嫌で自転車をこいでいました。

冷めていく体と、排気ガス交じりに強く吹き付ける夜風、息の詰まった心も夜へと溶けていく。


そして、私は空を見上げ、電灯と並んで浮かぶ月を見た。


(あー…月が綺麗ですね、とかこんな街中じゃ、あまり魅力を感じないけど…それでも、綺麗だなあ──)


次の瞬間、私の視界は衝撃と共に、回転し、0.5秒間、意識が吹っ飛びました。


次に目を開いたとき、私は歩道と道路の境に倒れこんでいました。

歩道に間隔を開けて並んでいる大きな木、私の横にはそれがあり、自転車がその木の下で横たわり、タイヤは空を走っていました。


私は訳も分からず、とりあえず半分道路へ飛び出した体を起こし、歩道へ移動しました。

30秒ほど、自転車を眺めながら呆然とし、そしてようやく自分の手の痛みに意識が行きました。

左手がひどく震え、内側からトンカチで叩かれているような痛みを感じました。


私は、何が起こったか理解しました。


月を見上げ、阿呆なことを考えている間に、ハンドルが道路側に傾き、物凄いスピードで木の幹に突っ込んで行った。

推理するほどでもありません。よそ見をしていれば、十分起こりえることです。


しかし、私は突然の出来事であったことや、何より生まれてこの方痛い思いをしたことがなかったことから、ひどく混乱していました。

それまで私の中の一番大きな怪我は、マンホールに膝を打ち付けて血が出たことくらいのものでした。


私は、今まで感じたことのない痛みに、命の危険すら感じました。


「き、君、大丈夫かい?」


座り込んでいた私に、タンクトップのおじいさんが声を掛けてくれました。

私はそれに対し、出来るだけ精一杯の笑顔で


「大丈夫じゃないです」


と答え、左手を垂らしながら、自転車を起こし、ふらふらとしたまま家に帰りました。


家に帰ると、一階に母の姿はありません。

私は痛み以上に、吐き気を催し、ただいまも何も言わず、ソファに倒れこんで、乱れる息を精一杯整えようとしました。

しかし、鳥肌からか、恐怖からか氷のように冷たくなった体に対し、痛みと共に熱を発していく左手に、焦りを感じました。

私は、なんとか起き上がり、二階で兄と話している母のもとへ行きました。


「ああ、あんた帰って来てた……あんた!?顔真っ白よ!?どうしたの!?」


私は横にあった鏡を見ると、母の言う通り、のっぺらぼうも腹を抱えて笑うほど顔面が真っ白でした。

その様子に、ようやく少し笑いを浮かべるほどの余裕を取り戻すことができました。


「じ、自転車で、ころんだ。手痛い、病院、行く」


母は焦りながら、そして兄は大笑いしながら、病院に連れて行ってくれました。


その車の中で、私は、これは絶対左手の指全部、複雑骨折した、死ぬかもしれない。そんなことを思いながら、心配で声を掛けてくれる母の声を上の空で聞いていました。




結果は、指三本の打撲でした



それを聞いたとき、兄と共に母も、声高らかに笑っていました。


治療というのも必要なく、シップで指を冷やしながら、勢いで曲げてしまわないよう固定する。それだけでした。


「これただの突き指じゃん」


兄に、車の中で嘲笑うように言われても、私は恥ずかしさのあまり何も口にすることができませんでした。

先ほどまで、あんなに痛かったはずの指は、腫れた感覚と、軽い熱だけに変わっています。

いや、もしかしたら最初から痛くなかったかもしれません。

医者から「打撲」と言われた瞬間に、痛みが「痛みだと思った?残念それは残像」とただの熱に変わっていったので、やはり痛みは錯覚だったのかもしれません。


少なくとも、顔面蒼白で体の震えが止まらくなるほどのものではなかったと断言できます。


この出来事から私は


「病は気から」


という言葉を全面的に信じるようになりました。


怪我だけではなく、恐らく幸せもそういうものなのだと思います。

不幸だと思えば、人生は不幸になるし、幸せだと思えば、人生は幸福になる。

私はモテないと思えば、モテないままになり、私はモテないのではなく、周囲からは高嶺の花なのだ、と思えばその通りになりませんでした。


まあ、この出来事から本当に学ばなければいけないのは


「よそ見をするな」


ということです。

皆さんも気を付けてくださいね。

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