第3話 だれもいない音楽室から

episode3 だれもいない音楽室から……


1


音楽室からピアノの音が……もれてくる。

あたりまえのことですよね。

では……誰もいない音楽室からピアノの音がもれてくる。

となると、どうでしょうか?

さらに、誰もいないはずの音楽室で女のヒトが12時になるとピアノをひいている。

だいぶ怪談らしくなってきました。

それでは、きいてください。

いまはむかし、この小学校の音楽の女教師の初恋のはなしを――。


寺沢カナは出身校に音楽教師として赴任した。

夏休がもうはじまる。アブラゼミが校庭の樹木で鳴いていた。

前任者が精神を病んで宇都宮の滝沢病院に入院した。

彼女が回復するまで、という要請をことわるわけにはいかなかった。


音楽室から誰もいないのにピアノの音がながれてくる。

その風評の、彼女の前任者は被害者なのですよ。

その怪談を気に病んでノイローゼになってしまったのです。

校長先生がカナに説明した。

この校長はK県議の娘婿なので昇進が速かったのだ。

と……これも風評なのだが。

好男子の若い校長だ。


カナは人目もかまわず、早めに昼食を5ふんですませた。

ちょうど正午の時報を職員室の古時計がかなでている。

二階の角の音楽室にカナはいそいだ。


「カナちゃん。まっていたわよ」


音楽室のまえで女子生徒とすれちがった。

おもわぬことばがささやかれた。

カナはあわててふりかえった。

そこには生徒の姿はなかった。


赴任したばかりのわたしの名前をしっている子がいる。

おかしいわ。

とカナはゾクっとふるえた。

ふりかえった。

誰もいない。

幻聴だったのかしら?


カナは内田麗子先生との想い出のピアノの蓋をあけた。

あのころとなにもかわっていない。

連弾でよく弾いたものだった。

「上原ゆかりのようなジャズピアニストになれるわよ」

と麗子先生はキラキラした瞳でカナをはげましてくれた。


この季節だとガーシュウインの「サマータイム」をよく弾いた。

それは子守歌だった。

いつかこの学校をでていくわたしに。

麗子先生がたむけてくれるような歌詞。

 

 ある朝、お前は立ち上がって歌う、

 そして羽根を広げて飛んでいく……


 One of these mornings

 Youre goin to rise up singing

 Then youll spread your wings

 And youll take the sky


カナはそっと鍵盤に指をのせた。

弾きだした。

麗子先生の悲しみをおもうと涙がこぼれおちた。


麗子先生はいつもわたしが大空高くとびたっことをねがってはげましてくれた。


「第二の上原ゆかりになれるわよ。がんばってね」


2


「わたしはきみが職員室にはいってきたときから、わかっていた」

校長先生の声がした。

がピアノの向こう側に立っていた。

いつのまに入ってきたのだろうか。

ドアの開く音はしなかった。

「麗子さんの隣で小学生のきみが、ピアノを弾いていたのをいちどみたことがある」


えっ、ではこのひとが、

いまは校長先生の、このひとが麗子先生のすきな彼だったの。

片思いのままでおわった麗子先生の初恋の男のひと。

麗子先生が恋い焦がれた彼。死ぬほどすきだった彼。


「麗子のお弟子さんのきみがひくと、まつたく麗子がひいているようにきこえる」


校長先生はピアノの向こう側からはなしかけていた。

カナの指の動きは見えなかった。

ピアノを弾いているのはカナではなかった。

カナの指はピアノの鍵盤にふれていなかった。

自働ピアノのようだった。

鍵盤のうえに細くしなやかな麗子先生の指をカナは感じていた。

いや、麗子先生が隣に座っている。

あのころのままだ。

なにもかわっていない。

先生は暗譜した曲をわすれないように。

いつか彼にきかせたくて。

ひとりでこの音楽室でピアノをひいていたのだ。

それが怪談となったのだろう。


曲はショパンの「別れの曲」だった。

麗子先生は愛する彼のために霊力をふりしぼって弾いている。

生涯でいちどのおもいをこめて「別れの曲」を。

だが恨みがこもっていた。だからこそ、悲しい調べ。


「ぼくがもっと早く麗子の気持ちに気づいてあげれば……」


そんなことはいいわけだとカナおもった。


「ぼくらはむすばれていた……」


だったら県議の娘婿なんかにならなければよかったのだ。


「毎日、気苦労が絶えない。学校というところはいろんなことが起こるから」


じぶんから選んだ道だろうに。

胸がくるしいのか。

校長は呼吸がみだれていた。

麗子先生の怨霊がピアノを弾いているからだろう。


麗子先生は美しく発狂した。

恋狂い。

なんてロマンチックなことばだろう。

雨季で増水していた黒川に身を投げた。

彼の結婚式の日だったという。

カナは留学していたアメリカでその知らせをきいた。


3


「別れの曲」も終わりに近づいていた。

校長が胸をかきむしっている。

「ニトロが、ニトロの舌下錠が胸のポケットに……ある……」

「だめ」

という激しい麗子先生の声が耳もとでした。

幻聴ではない。

麗子先生の声がした。

たしかにきこえた。

カナは舌下錠をとりだせなかった。

「だめ。そんなことしないで」

カナは金縛りにかかった。

動けなかった。

目の前で、校長が苦しんでいる。

終曲。

さいごのピアの音が部屋のすみずみに消えていった。

校長も静かになった。

苦しそうな顔だ。

死んでいた。

麗子先生の気配も、消えた。


窓のそとは夏の日。

照りつける太陽のもとで、赤いカンナの花が咲いていた。

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