夢のひと-2

 目が覚めるとベッドの中、だった。窓から差し込む月の光がもかもか柔らかい。――とかそれ以前に息苦しい。

 ハッと身を起こしてみると数多の兎のぬいぐるみがぼろぼろとベッドから落ちた。

「兎が、子を産んだ」

 訳はない。ただぬいぐるみが外部から持ち込まれただけである。傍で疲れたように、ベッドに腕枕をしながら眠るその人を見て、確信した。

 病人のベッドに大量のぬいぐるみを持ち込むのはこの娘の生来の癖であった。

「ちー」

 名前を呼んでみた。見るだけで温かな気持ちになる。撫でてやると嬉しそうな顔をほんのりする。

 ポニーテールを縛ったままのリボンをほどいてサイドテーブルに置いてやった。


 * * *


 ――この娘のせいで、人生が狂った。生活も狂った。


 本当に最近までそう思っていた。


『別に! 何でもないったら』

 そう言って手を払いのけた夜。

 アイツの嘘を食べたことで

 やろうとしていること、目論んでいること、企んでいること。

 正体、思い、陰謀――優しさ。

 これから何が起こるのか、これまで何があったのか。

 膨大な数を以てして、記憶、情報の全てが彼を覆いつくした。

 一気に隣人さえ信じられなくなって、でもこの思いもどこか大切にしたくて。

 渋沢に抱いていた一方的な怨恨が怜に半分向いたような、でも、大切に思ってくれるその気持ちは持っていたいような。

 兎に角、全部千恵が来てから崩れたものだった。

 しかして彼女をも一方的に怨んで自分に何の得があっただろう。結果としてはこうして心を病んだだけに終わってしまった。崩れ去った平穏な生活はどうしたって帰ってこない。

 矢張り自分はどうしようもなく弱い。一人で生きられないくせに独りをどうしても求めてしまう。


 この独りよがりをどうにかできないだろうか。


 考え続けて、苦しくなって、酒を煽るように薬瓶を干してを繰り返し、いつしかこの優しさの中に納まっていたのだった。

「少しは頼っても良いのだろうか」

 その瞬間閃く。我ながら天才的な閃き。

 ちょっとだけ顔を赤くしてから、周囲をくまなく確認した。

 防犯カメラも無し、盗撮も無し、盗聴器も見当たらない。


 よし。


 ふらつく頭を押さえながら、スーツ姿の彼女にちょっと触ってみる。


 いや、やっぱやめた。


 我ながら恥ずかしい奴。

 大人しくベッドに戻り、布団をかぶる。

 取った。やっぱ気になる。

 ちょっと見回した。嫌でも彼女が視界に入って来る。

 わざと視界から外すとラップがかかった小さな器が目に入ってきた。

 手に取ってラップを取ればほんわか良い香り。

 米の甘い香りに、黄色が糸のように混ざる。

「たまごがゆ……!」

 思わず大声を出して口をおさえた。

 少女は目を覚ましていなかった。ほっと胸をなでおろす。

 スプーンをキッチンに取りに行くといつもより散らかっていた。

「……」

 試しにリビングに行くと見慣れぬボストンバッグがソファに置いてある。

「……」

 心がそわそわしてきた。

 開けてみた――ちょっと待て! 僕は何も見ていない、何も見ていない!

 レースは見た。膨らみも見た。他は見ていない!! 疑うな!!

 風呂場を覗くと――ちょっと待て、何だこの良い匂いは。

 お、おおお、女の子の匂いがする。女の子の匂いがする!!

 女の子の匂い!!

 や、ま、待て待て。ここでちーが?

 ちーが!!?


 ちーが!!!


 風呂場の椅子を触ろうか迷いつつ、躊躇する。

 ……。

 や。

 やめとく。

 絶対ムリ!! ダメ!!

「今はたまごがゆ今はたまごがゆ今はたまごがゆ今はたまごがゆ……」

 言い聞かせて、後にしかけて、ちょっと戻る。

 指先で、ちょっと、触った。

「ぴいいいっ、ぴいいいっ! ぴいいいっ!!」

 変な声出してしまった。

 我ながらマジで恥ずかしい。

 急いで布団に潜る。

「――あ、スプーン置いてきた」

 取りに戻った。


 あつあつ。ほわほわ。

「ふう、ふう」

 怜の料理は大好き。生きてる感じがするし、あったかいし、何より美味しいし。二人で食卓を囲むとちょいちょい冗談を言ってくるのも楽しい。初対面の相手にはかなり厳しく冷酷な態度を取ることも多い彼だが、一度親戚のおじさんモードに入ると、とことん優しい。

 口に放り込むとごはんとたまごがとろけた。

「はほっ、はふはふ、はふふ」

 湯気を吐き吐き、殆ど噛まずとも飲み込める米粒を流し込む。

 食道の辺りを熱が流れていく。胸を物理的に温める熱に幸せを噛みしめる。

「ほう……」

 次の一杯を。

 ご飯がどんどん進むのも彼の料理の特徴だと勝手に思っている。

 今度は大きく掬って、大きく口を開けた。

 絶え間なく吹き上がる湯気を二、三回吹いて、しかし冷まし過ぎないようにしてから口の中にばくりと放り込――待て。何か噛んだ。

 取り出してみると卵の殻である。

 怜が? 卵の殻?

 その瞬間気付いてしまった。


 こいつかッッ!


 そして同時に気付いてしまった。


 手料理食ってる!


 腕枕で見えなくなっているその手を取って見てみると……おお、何と生々しい切り傷よ。いたいけな、ああ、いたいけな。

「頑張ったな、人差し指」

 守ってやるんだぞ、絆創膏。――僕は何をしているんだ。

 その時、携帯電話のメールがピリリと鳴る。


『デキる男はそこで傷ついた指にキスをする -R.O.』


「うるせぇ!!」

 携帯電話を投げつけ、叫ぶと千恵がはっと頭を上げた。

「……! ……!」

 動揺が凄い。何とか念力か何かで寝てはくれないものかと変な格好で念じる。祈った、祭った。供え物に兎のぬいぐるみを一つ与えた。

「……」

「……」

「うさ?」

「うさ」

「うさうさ」

「うささ」

「うさ……」

 宇宙人の会話か。

 しかし寝た。よっしゃ、寝た! うっし、うっし! 寝顔可愛いね! 一生僕のベッドで寝てなよ! ――嘘! 嘘だよ、嘘! そんなの全然思ってないかもしれないかもしれないかもしれ(以下略)

 そこでまたしてもメールが鳴った。


『そのままの姿勢で寝かすと明日可哀想だぜ? -R.O.』


「だからうるっせぇんだよ! どこで見てるんだよ!」

 しかし。

 しかしだ。

 確かにこの格好で寝て良いことはない。

 風邪ひくし、節々は痛むし、血液の流れが悪くなればそれこそ一大事だ。骨折とかの前例もあるらしい。どんな状況下とかそういうのは知らないが。

「こ、ここは、隣のベッドに……」

 そこに今度は電話がかかってきた。

「……はい」

『LIARくんの隣じゃないの?』

 ぶち切った。

「誰がやるか、んなこと」

 文句垂れながら彼女の脇の下に手を入れ――待て待て待て。ぼかぁ触ってない! 断じて触ってない! そこのやわらか……これ以上言わせるな!!

 しかし、しかしだ。

 他、どうやって持ち上げろと言うのだ。

 どう頑張ったって触っちゃうだろ!

 ピリリリ、ピリリリ。

「……何」

『おいさんが手伝』

 ぶち切った。

 ここは覚悟を決めろ。何をぐずぐずしているのだ! 風邪をひかせるな!

「僕は無実だ!」

 再度脇の下に手を突っ込み、今度は勇気を出して持ち上げた。が、今度は彼女の肌が柔らかいのと、猫みたいにくにゃんと曲がったのにびびって離してしまった。

「んんんん……うううううううう!!」

 悶。

 壊れちゃう!! 女の子もろすぎる!!

 ベッドにうつ伏せになって頭を抱えた。このまま寝落ちできれば最高だが、そんな度胸もデリカシーのなさも今は持ち合わせていない――いや、デリカシーとかは自分で言っただけだけど、って誰に向かって言い訳をしているのだ。寝れば良い! 気付かなかった振りして寝てしまえば……出来るわけねぇだろおおおお、どうせよっちゅうんじゃい!


 ……。


 ……、……。


 腹をくくろう。


 玄関の扉を開けると案の定茶髪の髭がニヨニヨしながら待ち構えていた。

「……何で待ってんだよ」

「女の子の持ち上げ方教えてあげまちょうか?」

「結構」

「今なら無料でちゅ」

「結構だ!」

「じゃあ何で外出たの?」

「う」

「あれれ、今『う』って言いました?」

 こいつ、どんどん元気になってやがるな。

「ちょ、ちょっと外の空気を吸いにだよ」

「えー? 、でちゅか?」

 わざわざ強調するな、この野郎。

 とはいえ、これに対抗できるだけの反論が用意できないのも事実。

「……」

「な。何事も人生経験だよ、LIAR」

「……」

 ずっと無言の少年の手元をちらりと目だけで見ると……野郎、可愛いぞ。俺の服の裾を掴んでやがる。

 目元に視線を移せば、混乱と動揺と恥ずかしさと子どもの色がぐらぐら揺れていた。頬を真っ赤に染めながら、武骨な手をしている。一体何歳児だったか。考えては小鼻が膨らむ。


       「お願いします」

「良く聞こえんなぁ」


 内心げらげら笑いながら部屋に入った。


 * * *


 入ってすぐさま事件が勃発した。

「おやおや、困ったな」

「何が」

「スーツのままだと汗かいた時困るじゃないか」

「……! やらない!!」

「……何が」

「んだっ、だだだだ、だから、その――ちょ、気付け!」

「だから何が」

「え、あ、あ……」

 想像すればするほど血液が彼の頭にたまる。あーっついあっつい。見てるだけでお熱いお熱い。

 そうして一人空回りするLIARをよそに怜はさっとスーツの上着を脱がした。


「っひゃああああああああ! ……ああああ?」


 期待していた衣擦れの音が聞こえない。

 恐る恐る目を開けてみると、もうパジャマ姿だった。

 今度は違う理由で顔に血液をためる。

「セクハラアアアアアアアアアア!」

「何言ってんだ、馬鹿野郎!! 夜は冷えるから上着羽織っておけって指示しただけに決まってんじゃねぇか!」

「は、ハァ!? そしたら、そしたらその時に着替え見たんだろ、このド変態が! ド変態!!」

「んな訳ねぇだろ、そんな思春期の妄想大爆発みたいなこと考えねぇし、俺大人だし、着替えになんか興味ないし!」

「朝ごはんですか……?」

 その瞬間男共の喧嘩が一時停止ボタンでも押したかのようにぴたりと止む。ここの連携だけは見事。

「玉子焼き?」

「おーちゃん、夜だぜ、寝な」

「朝ごはん……」

「まだだ、ちー、寝ろ」

「めだまやき……」

「寝な」

「寝ろ」

「……」

「寝な」

「寝ろ」

 そこでねぼけた少女のまぶたが閉じ、また寝息を立て始めた。

 二人で大きな安堵の息を漏らす。


       「お前のせいだからな!」

       「絶対俺じゃない、少なくとも俺だけのせいではない」

 今度は近所迷惑に気を付けながら、喧嘩を始めた。

 そのまま作戦の第二段階に進む。


「こう、な。ここに手を入れて、こうやって……抱き上げる」

 おとぎ話の王子と姫のようなその挙動に、身内ではあるが惚れ惚れする。怜のポジションを自分と置き換えてみるが……似合わない。髭が必要だろうか。

「ほれ。言われた通りにやってみろ」

「……!?」

 また顔が熱くなってきた。悟られないように俯きながら震える手で彼女の体に手をかける。

 壊れそう、壊れそう、潰してしまいそう。

 しかもパジャマなのである。敢えてもう一度言うが、パジャマなのである。

 もうちょっと重装備の方が良かった。間違って肌に触れてしまったらどうしよう。

「抱き上げる時は自信を失くすな。人生も思いも何もかも支えてあげる位の気持ちで挑め。じゃないと落とすぞ」

「無理! やっぱ無理だ! もう寝る!」

「馬鹿、しっかりしろ。好きなんだろ?」

「……」

「一度決めたら曲げるな」

 真剣な顔で言われて、もう一度やってみた。何を思っても「大丈夫」の三文字で塗り潰す。

 良い香りが更に鼻腔に広がった。意外と重たい彼女の頭が自分の肩を頼みにしてくる。脱力した体が余計に壊れそうで怖かった。

「れいぃぃぃぃ」

 情けない声が出る。

「そのまま立ち上がれ」

「無理」

「支えてやるから」

「それは遠慮したい」

「お前はどっちなんだよ」

 結局、背中に手を置いてもらいながら何とか持ち上げた。

 怜がだらんと垂れた彼女の手を自分の腹の辺りにしまってくれた。そのまま後ろに下がり、初々しい彼らの姿をまじまじ見てはうんうんと頷く。

「ど、どうなの」

「うんうん」

「ねえ、怜」

「うん、うん。これでお前も大人だ」

「いや、大人どうこうじゃなくて――うわわっ」

 その時、彼女がううん、とうなった。いや、寝言だよな、寝言だ寝言。

 自分の腕の中で気持ちよさそうに少し体を動かし、また身を預けてきた。

 突然腕が痺れてきた。

「も、もう下ろしたい」

「それじゃあどうぞ、お隣に」

「隣の、、な」

 わざと強調して隣のベッドに下ろしてや――ここでまた大事件が起きた。

「助けて助けて助けて助けて、怜、助けて」

「ん」

 冷汗をかきながらこちらを凝視する彼の手元……いや、胸元を見ると彼女の手がガッチリ服を掴んでいる。

 あ。

「引き剝がして」

「俺しーらね!」

「あ! ちょ! あ、起きちゃう、ちょ、おい!」

「あーなーたーのー……」

 次見た時は怜はもう部屋の外だった。上機嫌に『初恋の頃』なんか歌ってやがる。

「ちょいぃ!」

 また情けない声が出て、頭をガシガシかいた。


 もう、もう仕方ない。


 涙目になりながらまたぎこちない手つきで彼女の体を手繰り寄せ、持ち上げ、自分のベッドに運び込んだ。

 朝、こいつより早く起きてそっと離脱すれば良い。

 それか手を離した隙を見計らって、僕が向こうのベッドに行けば。

 色々あれこれ考えながらも、ちゃんと少女の体が冷えないように布団をかけてやる。兎のぬいぐるみをまた一つ与えてやると大事そうに抱えた。――服の裾はちゃんと掴みつつ。

「お兄ちゃん……」

 寝言で微かに聞こえた彼女の言葉に、ふと笑みをこぼさずにはいられなかった。

 緊張で体をこわばらせながら頭を優しく撫で、少し抱きしめてみた。


 温か、いや、暖かで柔らかな感触に、昔抱いた小さな兎を思った。


(つづく)

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