3 お、り、よ、う、り、で、す


 ふと気が付くと私は先程の薄暗い場所でないアスファルトの上にたっていた。


 そこはさっきよりも明るいところで目が眩む。


「う、うぅ……」


 思わず手で顔を隠す。




 ぺちゃり。


 ぺちゃ。


 ぺちゃ。




 私の顔を隠した手から何かが顔に滴ってくる。




「……え、なに?」




 頬をつたい静かにこぼれ落ちるそれは油のようにヌルヌルと軟性を持ち、滴る軌道を私の肌に残していく。


 眩しさに閉じた目を私は開く。


 私の手の平から滴る「それ」は先程のカクテルより赤く濃い色をしていて、頭にささるような鉄の匂いを漂わせる。


 「それ」は血液だった。


 少し時間がたって固まり始めた血液だ。




「……へぇ?」




 自分の手についたおびただしい量の血を見ても私は我ながら冷静だった。


 まるでそれをみるのが初めてじゃなくて、見慣れた光景だったように。


 私は手の平の血液をただ淡々と受け入れていた。




 少し間を開けて辺りを見回す。


 地平線の彼方まで広がるアスファルトの地面の中に一つだけ動かない塊があった。


 その塊は私の手についた大量の血の中心にあってぼんやりとした輪郭だけが認識出来る。




 その塊がその場にあることに気付いて、初めて、私は動機が激しくなる。




 それが何か知っているような。


 そんな焦燥感。


 息が苦しくなる。


 私はそれが何か知りたくて、そして受け入れたくなかった。


 それに近付こうと一歩踏み出す。


 そうして踏み出した足が何かを蹴飛ばす。


 私は蹴り飛ばしたなにかに目を向ける。




 それはべっとりと血のついた包丁だった。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




「……ま?」




「……」




「……さま?」




「……ん」




「松陰様?」




「……あれ?」




 気が付くと私はまた暗闇の中、「デットマンズ・キッチン」にいた。


 人をダメにする椅子に腰を下ろしたままで動いた形跡はない。


 先程の景色をみるまでとの違いは渡されたドリンクが空になっていることだった。




「その様子ですとのでございますね!」




 呆然とする私を見て、黒沼さんが告げる。




「……思い出した?」




「本店、『デットマンズ・キッチン』では死者の安念のために過去のを美味しく味わうお店でございます」




「……苦しみ?」




「そうでございます!」




 黒沼さんは待ってましたといわんばかりに語り始める。




「苦しみの記憶は確かに人生のスパイスとなりますが過度な摂取は中毒を引き起こすものでございます!」


「苦しみの中毒症を発症したものは時として記憶をなくし地縛霊として現世をさまよい続けるのでございます!」


「ここはそんな迷えるお客をお招きし、苦しみを美味しく調理し、提供させ、供養する場所なのでございます」




 彼の話を聞き終え私は空のグラスに目を向ける。


 確かにこのカクテルは美味しかった。


 でもここにあるものを口にする度に私の知らない何かを思い出すというの?




 ……少しだけ怖い。




「あ、い、た、お、さ、ら、を、お、さ、げ、し、ま、す」


「……あ、どうも」




 私の見つめていたグラスは骨壺ちゃんに取り上げられ彼女はすぐにその場を去る。


 正直目のやり場に困る。


 なので部屋中に灯る蝋燭の光に目を泳がせながらおもいふけることにした。




 少なくとも今見た景色は気持ちのいい景色ではなかった。


 血まみれの私の両手と、血まみれの塊と、血まみれの包丁だった。




 けどだからといって席から立ち上がれる訳ではない。




 心地よい椅子に包まれ私の足は逃走を忘れていた。


 美味しい飲み物に私の舌は興味をひかれていた。




「め、い、ん、の、お、り、よ、う、り、を、お、も、ち、し、ま、す」


 遠くから骨壺ちゃんのダミ声が聞こえ、甘い肉の香りが漂ってくる。




 近付いてくる料理の香りに私の鼻は飢えを感じていた。


 何より欠けた記憶の中で、私の脳は答えを求めていた。




「……不思議ですね。 怖いのに、逃げ出そうとは思えない」


 私は黒沼さんをみて少し笑った。


「当然でございます! 私共はプロにございます! お客様の苦しみは必ず癒してみせましょう!」


 黒沼さんはにっこりと笑った。




「お、ま、た、せ、し、ま、し、た。 お、り、よ、う、り、で、す」

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