第19話

 日付が変わろうとしている時間帯、河田は研究所からマンションに帰った。あの一件以来、セキュリティの充実したオートロックのマンションに引っ越すことが要請されたのだ。

 マンションの建物には警備員が常駐し、道の入り口には機動隊の装甲車が駐車している。防犯カメラもこの周囲には密に備えられていた。

 さらに周囲には警察や公安調査庁による監視網も張り巡らされていた。むろん、護っているのはかれらの身の安全だけではないが。

 河田はこのところ、ずっと海外との折衝に没頭していた。帰宅したのは3日ぶりだった。

「おかえりなさいっ」

 瑠奈はすでに帰っていた。

「珍しいな。瑠奈がいるなんて」

 彼女の忙しさは河田を上回る。理論の考察に論文の執筆、プログラミング、プロジェクト全体のマネジメント、それに広告塔までこなしているのだ。

 その夜、ふたりは久しぶりに愛しあった。

 朝を迎えた。目覚ましが鳴る前に河田が目覚めると、瑠奈は一足先に床を出ていた。

 半身を上げて瑠奈に語りかけた。

「お腹がすいたな」

「今作るよ」

「出来るのか」

「大丈夫」

 瑠奈は台所に立って、冷蔵庫から食材を取り出し、料理をはじめた。ふたり分の料理を作り、トレイに載せて持ってきた。

「どうぞ」

「ハムエッグか」

 ハムを炒めて玉子を割り入れるだけの「料理」。

「真理衣に習った料理、これくらいしか、まともに出来なくて……」

 真理衣の名前を聞いたとき、河田は少し眉をひそめた。

 ハムエッグは黄身が破れて、下から流れ出している。

 ほかに食卓に並んだのは、不揃いに輪切りにしたトマトと適当にちぎったレタスをあしらったサラダ、それに焼きすぎて焦げ茶色になったトーストだ。

 食卓で向かい合う。

「いただきます」

 皿に流れた黄身をハムで掬いながら、河田は言った。

「教えてくれないか」

「なにを?」

 瑠奈はカフェオレを一口すする。

「本当の目的を、さ」

 河田は真剣な目つきになった。

「みんなを、欺しているんだろう」

「……」

「あのプロジェクトは、エネルギー問題解決のためなんかじゃない」

 瑠奈の手が止まった。

「……いいわよ」

 瑠奈は言う。

「超シンギュラリティ。『神』を超えるコンピュータの制作」

「……!」

 河田は、とっさに言葉が出てこなかった。

「水星の影になるところに超大型量子スパコンを建造する。地球に送信する電力の一部で量子スパコンをぶん回し、観測できる限りのデータをかき集め、計算する。そして計算量が『神』を凌駕したとき、『神』の影響を脱することが出来る。宇宙は人類のものになるのよ」

「……無茶すぎる!」

 河田は叫んだ。

「ひろちゃん。あたしにはわかったのよ」

「なにが?」

「この世が、この宇宙がどうしてこうなっているか」

「……」

「この宇宙にある原子は、量子的に計算を絶えず行っている。その演算の結果がこの宇宙の法則になる。つまり「神」。それを逆から見れば、この宇宙は『神』に相応しく作られている。人間原理ではなく、神原理。そして『神』はこの宇宙を作り、発生した知的生命体――人間を操っている。そう、ゲームみたいにね」

「……!」

 河田は唇をこわばらせた。

「しかし、『神』の目的はなんなんだ?」

 訝る河田に、瑠奈はいった。

「遊んでるのよ」

「どういう意味だ?」

「押すなよ、絶対に押すなよ! ってお笑い芸人のネタがあるじゃない。アレみたいに、わざとヤバいこと、すれすれのことをやってスリルを楽しんでいる……ちょうどあたしが、以前SNSを使って男と遊んでいたようにね」

 瑠奈は唇を噛んだ。

「幸運や不運をきまぐれに与えて、それで人間がおかしな方向へ狂うのを楽しんでいる。そしてこの世界で恵まれている、頭のいいひと、文化資本のある環境に育ったひとには、世界の真理を与えなかった。だから『神』の存在に気がついても、見当違いの方向で表現せざるを得なかった。宗教やら、文学やら、音楽やら、芸術やら、今まで人間がやってきたことは、みんなみんな、むなしい試みなのよ!」

 河田は突然、口を開いた。

「……昔、こんな神話を、聞いたことがある。たしかエストニアのものだった」

 昔々あるとき、雲の上に神々が集い、天上の音楽を奏でました。

 それはえも言わぬほどすばらしいもので、金色の光とともに地上にこぼれてくるその調べを、うっとりと聴いていた地上のあらゆる存在たちは、天上の音楽を自ら奏でようとしました。

 そよ風は木の葉を揺らし、小川はせせらぎを響かせ、小鳥たちはさえずりを交わすようになりました。

 水中の魚は音を聴くことができなかったので、ただ口をぱくぱくさせて、歌うまねをするだけでした。

 しかし、人間――そう、人間だけが天上の音楽を正しく聴き、再現することができました。

 こうして「音楽」が、地上の世界にもたらされたのでした……という話だ。

「こんな図式が、ずっと頭の中にあった。ぼくらは所詮水中の魚に過ぎない。しかし、瑠奈、きみは神の音楽を正しく理解でき、それを奏でる道具をつくることができる、ということなのか」

 うなずいた。そしていった。

「あたしたちが惨めな存在だというのもね!」

 瑠奈は、気づいていたに違いない。

 かつての自分がいかに惨めな存在だったか。なぜ自分の母親も家族も卑小な考えしか持てないのか。世界がいかに不平等か。

「こんな世界では、あたしは生まれないほうがよかった。でも、生まれでしまった。だからこの世界を変える。あたしたち世界の全ては、あいつにいい加減に作られて、放置されてきた。数式はほんらい完全なのに、その完全性を証明できないのはどうして? ごく微細なスケールでは量子的なゆらぎがあるのはどうして? 生物の進化が行き当たりばったりなのはどうして? そのつけを払っているのは、結局あたしたちなのよ」

「……そんなことを言われてたって」

 河田は口ごもり、思考をはるかな抽象の高みまで飛ばした。


 世界は不完全だ。

 言語は不完全だ。不完全なるが故に意思伝達の不全が生ずる。さらに意思伝達のための言語と美的表現のための言語を同一にしてしまったせいで、レトリックによる誤解がまかり通るようになった。

 なぜ、スペルと発音の乖離が激しい英語が、現代の世界で「公用語」とされているのか。ネイティブの人口が世界一多い中国語には、何故不必要なまでに漢字の種類が多いのか。日本語は同音異義語だらけで、書き文字を常に意識しなければ「言語」として使い物にならないのか。言語のでたらめさ、いい加減さはあげつらったらきりがない。

 リーディングスキルに差があるという事実にとって、教育教養の不備は本質的な理由ではない。格差はそもそもの言語構造の不完全さに根ざしていたのだ。

 ネアンデルタール人には存在せず、ホモ・サピエンスになって誕生した「言語」とはほんらい、正確な世界の把握と他者とのコミュニケーションのためにあるべきものだった。

 しかし、人類は言葉を文芸、文学のかたちで「美」の道具としてもてあそんだため、いびつな方向に進化していったのだ。

 意味をそのまま指し示す言葉ではなく、迂遠で冗長なレトリックを発達させたため、ディスコミュニケーションは助長された。今世紀に入ってネットで世界がつながれたとき、混乱はさらに深まった。

 民主主義による統治を成功させるためには、言語によるアクセシビリティーに格差を設けて、無秩序な参入によるファシズムやポピュリズムへの変質を防止しなければならなかったのだ。その意味で、民主主義とはパラドキシカルなシステムである。

「言葉」に影響されて発達した人間の脳も、それが生み出す「意識」も不完全だ。世界のありのままを認知することが不可能な人間は、「想像力」に頼る。想像力は「世界」のまがい物――「神話」を作る。「神話」はそれ自体が「事実」として振る舞うようになる。

 事実を伝えるはずの媒体(メディア)が、いつの間にかフェイクになる。自由を望むひとびとが不自由を作り出す。

 生物も不完全だ。不完全なるが故に突然変異を元に進化し、ブリコラージュで環境に適応しようとする。

 その証拠に、ヒトの身体は、やっつけ仕事の塊だ。ほんらい四足歩行していた生物の構造を流用して二足歩行になったため、腰痛に悩むようになった。網膜は表面に視神経を引き通す部位を作ったために、盲点という構造上の欠陥を有するようになった。さらに、ほとんどの哺乳類が体内で合成できるビタミンCを、食物から摂取しなければならない。

 なかでも最大のやっつけ仕事は脳だ。所詮は肉体を制御する器官に過ぎないのに、なぜか数学や宇宙の構造を考えているのだ。極端な話、ダンプカーをレースに出しているようなもの。

 物理も不完全だ。

 数学も不完全だ。

 世界が不完全なのは、つまり「神」が不完全だと言うことだ。

「無茶だよ。やりすぎだ……」

「いまさら元に戻れるわけ、ないじゃん」

 この宇宙をあるべき姿に作り替えなくてはならない。それが瑠奈の気づいたことであり、信念であるのか。

 瑠奈は、この宇宙をどうしようとしているのか……。

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