第6話

 プロジェクトチームは平行して、瑠奈へライフヒストリーのヒアリングを行っていた。

 彼女が語る生い立ちは、こうだった。

 2002年8月18日、神奈川県川崎市で生まれた。母親の杏奈はこのとき17歳、無論独身だった。

 自宅から持ってきた、瑠奈の母子手帳を読んでみる。

「妊娠8ヶ月で出生、出生時の体重が2300グラム。早産の未熟児だな。母胎がまだ成熟しきってないところに、ストレスにさらされたこともあるだろう」

 父親の名前は不明。男遊びをしていたら、たまたま妊娠してしまったという。

 その過程で河田が問うたとき、こう答えた。

「お父さんは、いまどうしているかわからないかな?」

「ツーショットダイヤルって聞いたことある?」

 瑠奈の返事に、一瞬戸惑った。

「……名前だけは」

「ママとパパはそれで知り合ったんだって。知らないひと同士電話で話して、会うまで知ってるのは声だけ。会っても本名もわかんない。子供――あたしを身ごもってると聞いたら、姿をくらましてそれっきり」

「そうか……他に身内の方はいないかな? 親御さんのご両親、瑠奈にとってはおじいさんおばあさんだね。どうだろう?」

 瑠奈は首を振った。

「……ママがあたしを産んだ時ね、ママの両親はカンドーしたって聞いたの。ああ、子供を産むってすごいことなんだなあって思ってた。でも、大きくなってから知ったけど、親子の縁を切るほうの勘当だったのね。だから、会ったことはない」

「……そうか」

 話を切った。

 杏奈の両親は同じ神奈川県の横浜市で酒屋を経営していたが、親元と折り合いが悪く、中学生時代から夜遊びを始めたようだ。

 妊娠したことで両親の元を出たが、父親は杏奈を見捨て、瑠奈は女手ひとつで育てられることになったという。

「瑠奈を施設に預けるなら、戻ってきてもいい」

 一回は実家に頭を下げたが、両親の提案を杏奈は拒否した。杏奈も施設にいたことがあり、両親の再婚で引き取られたのだ。子供が嫌いな夫婦だったようで、「お前の子供は見たくない」と言い渡されたようなのだ。

 杏奈も幼い瑠奈には殆ど構うことがなかった。彼女はつまらなく思って、家の外で遊ぶようになった。その中で、次第に悪い遊びを覚えるようになった。

 一時期施設に入れられていたが、中学校に入る前に引き取られた。どうやら杏奈はこの時期から夜の仕事を始めたらしくて、生活が比較的安定したこともあるようだ。

 しかし中学校も真面目に行っていない。家出や悪い遊びで警察に保護されたことも、一度ならずある。そして高校は「名前を書けば入れる」と噂のところだ。ある意味で、母親の人生を、瑠奈もトレースしている。文化的貧困の連鎖のただ中に、彼女はいた。

「国語の教科書なんて、読んでも頭が痛くなるだけだしー」

 あっけらかんと答える。

 通知表を見せて貰ったとき、瑠奈は言った。

「行進してるみたいでしょ」

「なに?」

「いち、に、いち、にって」

 瑠奈は皮肉な笑みを浮かべた。


 ファイルを見ながら、河田と山下は話し合う。

「瑠奈は幼少期、母親にほとんどネグレクトされて育った。彼女の母親自身も、どうやらそうされて成長したらしい。『愛し方』というのがわからないまま、彼女の世話をすることになった」

「それが彼女の脳に影響を与えたの?」

「それはまだ分からない。生まれつきかもしれないし、後天的なものかもしれない。一般論だけど、虐待やネグレクトを受けて育った子供は、脳の発達に異常を来すことがあるよね。彼女の脳の構造は恐らく、数十万、数百万人にひとりの頻度で出現するもの。しかし、その能力は人生の中で一切開発されることはないんだよ。通常の家庭環境で生まれ、教育を受け、社会生活を送るうちに、エミュレーションが本体になってしまう。

 彼女はそうではなかった。彼女は違った脳を持って生まれ、その不幸な生育環境の中で、エミュレーションの状態を維持したんだ。通常なら脳に対する悪影響になってしまうところなんだが、それが幸いした、とも言える」

「災い、かもね」

 山下はぽつりと言った。


 瑠奈にしても、一変した日常に、戸惑いとともに、楽しみを感じていた。

 週末と放課後のたび、研究とテストに付き合わされる日々。盛り場で遊び歩くこともなくなった。

 これじゃまるで、実験動物みたい。

 でも、こんな暮らしも悪くないと思えた。

 ただなんとなく生きていた今までの暮らしの空疎さ、無意味さを思う。

 自分も片足を突っ込んでいた、母親がいるような世界に行くのが当たり前だと思っていたのに、もうごめんだった。

 河田は今まで瑠奈が全く知らないタイプの男だった。以前は「オタク」なんて鼻で笑っていたのに。

 その河田にしたところで、開けっぴろげで天真爛漫な瑠奈は、これまで男子校や理系の大学で育った彼の身近にいたことのない存在だった。

 いつしか河田と会えるのを楽しみにしていた。

 河田から聞ける話が興味深かった。

 もっと深い知識が知りたかった。

 成育状況の聞き取りと平行して、河田は瑠奈にレクチャーを行った。

 河田はあるとき、こんな話をした。

「人間はどうやって言葉を覚えるか、知っているか?」

「親や周りのひとの言葉を聞いて覚えるんじゃない?」

「そう思うのが自然だろう。日常のことはそうやって身につけてきたからね。しかし、考えて欲しい。きみの親も周りのひとも、国語の教師ではなかったろう。赤ちゃんに体系的にことばを教えたりしないし、言い間違えを訂正もしない。それなのに気がついてみたら、おおむね正しく言葉を覚えている」

「言われてみれば、不思議かも」

「つまりだ。人間の脳にはあらかじめ、言葉を覚える仕組みが備わっているんじゃないだろうか。鳥が誰にも教わらずに飛び、さえずり、巣を作るように、人間も言語の使い方をあらかじめ知っているんだ」

「ふーん」

「今の言語学で主流となっている考え方だ。人間とそれ以外の生物を分かつものは、『ことば』の有無。人間の脳には進化の過程で作られた『ことば』を紡ぎ出すユニットが組み込まれていると考えられているんだ。これはまだ仮説の段階で、脳内のどこがどうとは判明していない。しかし、大脳のウェルニッケ野とブローカ野を含むいくつかの領域が言語を司っているという説が有力だね……普通の人間では」

 微妙な言い回しをして、河田は言葉を切った。

「ヒトの脳内で言語を生み出す『原理』は共通しているけど、じっさいには、世界には多くの言語がある。しかし、日本語も英語も中国語もアラビア語も、人間が操っている言語の違いは、後天的に付け加えられた『パラメータ』の違いに過ぎない。それをいくつか変えれば、言語個別の文法になる。たとえば、ゲームでキャラメイキングをすることを考えればいい。始めた時点である程度決まっているけど、ステータスへの振り方を変えれば、キャラも変わっていく。攻撃力を強くしたキャラと、防御力を重視したキャラ。初期パラメータのトータルな数値は同じでも、ゲームを進めていくうちに、全然別のキャラになるだろう」

「なるほど」

「どうして人類が『ことば』を使うようになったのか。これもいまだ謎に包まれているんだ。文字のない『ことば』は化石に残らないからね。霊長類でもチンパンジーやボノボは、遺伝子レベルで人間に酷似しているが、言語的コミュニケーションに関しては、はるかにお粗末なレベルのものしか出来ない。初期の人類も、言葉を使っていなかったと推定されている。『ことば』とはネアンデルタール人からぼくらと同じ人間、ホモ・サピエンスになるとき『突然に』出来たという説を唱えるものもいる。その脳の仕組みは、進化によって自然に出来たのか。それとも……」

「それとも?」

「何者かが、植え付けていったのか――」

 河田は眼鏡を外し、天井を見上げた。

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