第23話 ぴりぴり勉強会


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 帰りのHR中、廊下側の窓に人の行き来する姿が映りこむ。先生から見えないところで変顔をする人、スマホをいじりながら立っている人がいて、こもった喧噪が聞こえてきた。どうやらまわりのクラスは帰りのHRをすでに終えているらしい。


「テスト一週間前で、部活は休みになるが、わかってると思うけど勉強するために休みにしてるんだからなー。そこ、勘違いするなよー。いいかー」


 ただでさえ遅れてやってきた担任が、いつも以上に長くしゃべっている。教室中に蔓延している『はやく帰らせろオーラ』を見事にスルー、あるいはわかっていながらあえて長く話しているようだった。


「遊ぶことも大切だが、やるべきことをちゃんとするようにー。はい、解散」


 クラスメイトが一斉に動きだす。椅子を引く音や足音がいつもより大きく、僕だけじゃなく、まわりも相当ストレスを感じていたようだった。


 僕は満水さんの背中を指でつつくと、くるりと振り返って「ん?」とはにかんでくる。ブラウスのときはなんとなく触れにくかったけれど、セーターを一枚着ているだけで、その抵抗が若干だけど軽減されるように思えた。


「お疲れ」

「うん。これから勉強会だけどね」

「はやくテスト終わってほしいね」

「ほんとほんと」


 僕と満水さんはカバンを持ち上げて、若藤と沼のところへ向かった。弓峰さんが合流してからいっしょに教室をでると、廊下は大勢の人でにぎわい、職員室へ質問でもしに行くのか、教科書やノートを片手に歩いている人とたびたびすれ違う。


「直美さん、どこにいるの?」

「下駄箱だ。顔合わせをしたいから待ってろと云っておいたんだが……長引いたから先に帰ったかもしれないな」

「そういうの苦手そうだからね。見た目とは違ってシャイだし」

「へーそうなん?」

「かなりね。剣道つづけてるのも面があるからなんだよね?」

「ああ。そのせいかわからんが、まだ友達ができないらしい」

「まあ作ろうと思って作るもんでもねーけどな。本人が気にしてないなら別にいいんじゃね?」と若藤が襟足をかきながら云った。

「いや気にしている。今回の勉強会に誘う口実として、女子も呼んだぞと教えたら即了承したくらいだ。若藤だけだったら間違いなく断られていただろうな」

「オレの扱い。発案者。すべてのはじまり」

「そうなんだ。呼んでよかったね」

「ああ、愉しみにしてるみたいだ。今朝、気合を入れて髪を整えていたぞ」


 話しながら階段を下っていく。きょうは沼の家で勉強会をする予定だった。そうなったきっかけはグループラインで若藤が沼の片割れを紹介しろという一言で、それから直美さんと知り合いだからという理由で僕も参加することになり、ふたりに相談してから満水さんと弓峰さんを誘ってみたら、あっさりと了承してくれた。


 実を云えば、テスト勉強は満水さんに合わせて割とはやくからはじめていたので、それほど焦っておらず、あとは細かいところを確認するだけだったりする。もちろん、結果はどうなるかはわからないけれど、いつもより心に余裕があった。


 下駄箱に着き、僕らは靴を履き替えていく。直美さんを探してみたけれど、やっぱり先に帰ってしまったのか、姿はなかった。


「遅い」


 ぞろぞろと正面玄関をでていくと、直美さんが壁に寄りかかりながらカバンを肩に下げて立っていた。


「そこにいたのか」と沼が云った。「てっきり逃げたかと」

「だれが逃げ――あ」


 直美さんがこちらに気づいて声をだす。横と前髪をかき上げ、うしろの髪とまとめて束ねたポニーテール。たまご型の小さな顔で、くるんと上向きになった長いまつげと、やや切れ長の涼しげな目元、うすく生えている整った眉、つんと伸びた鼻と桃色の小さな唇がこれ以上ない見事なバランスでおさまっていた。ブレザーを着てただ立っているだけなのに、佇まいが違いすぎるせいなのか、男女ともに、近くを歩いていた人たちが直美さんへちらちらと視線を向けながら通り過ぎていく。


「久し、ぶり」


 直美さんがうっすらとほほえみながら近づいてくる。身長が百七十一センチある僕と、目線がほとんど変わらないどころか、ちょっと高いくらいだった。


「うん。久しぶり。クラス遠いとなかなか会わないね」

 直美さんが小さくうなずいた。「きょう、あたたかいね」

「だね。下旬にしてはちょっと暑いくらい」

「ケイは、セーター派?」

「うん。このほうが楽で」


 直美さんが僕のうしろを見るように顔を動かした。振り返ると、沼が「いいか?」と訊ねてきたので、僕は紹介の邪魔にならないところへ移動する。


「双子の妹の直美だ」

「ど、どうも」と直美さんが軽く頭を下げた。

「ちなみに俺は直人(なおと)だ。よろしく」

「おまえのはいらん」と若藤が云った。「ここだと恥ずいし、移動しながら自己紹介しようぜ」

「そうだな」


 集団でかたまりながら移動していく。駅のほうへ歩いていくと、自然と列がばらけて、前に沼と直美さんと若藤が並び、僕はすこし離れたところで満水さんと弓峰さんのあいだに入りながら歩いていった。


「たまーに見たりするけど、沼とぜんぜん似てないよね」と弓峰さんが小さな声で話しかけてきた。「腰の位置たっかいし……顔小さすぎでしょ。美人すぎて近づきにくいんですけど」

「すごいわかる」と満水さんが小声で云った。

 僕は同じくらいのトーンで答えた。「話してみると割とふつうだよ?」

「そうなの?」

 僕はうなずいた。「口数はすくないけど、話しかけたらちゃんと答えてくれるし。きょう、愉しみにしてたみたい。ふたりが来るって教えたら、髪、気合入れてきたんだって」

「なにそれかわいいな。ちょっと私、話してくる」


 弓峰さんがすたすたと歩いていき、若藤を押しのけて直美さんのとなりに並んだ。取り残された僕と満水さんは、のんびりと歩きながら前を行く四人の背中を追っていく。


「仲良いの?」

「まあ、そこそこ。中学のとき、沼と三人でいることが多かったから。クラス離れちゃって、ほとんど話さなくなっちゃったけど」

「そうなんだ」


 その平坦な声には、まったく興味がなさそうな感じがこもっていた。ちらっと満水さんを見ると、どこかおもしろくなさそうな顔で髪をいじりながら歩いている。付き合って日は浅いけれど、不機嫌になっていることがすぐにわかるくらい、ぴりぴりとした空気が感じ取れた。


 その原因を探るように振り返ってみると、なんとなく――思い当たるふしがあった。


 でも思い過ごしかもしれないので、考えていることを本人に直接云えるはずもなく、だけどこのまま放っておくことなんかできなくて。そういう気持ちを抱かせてしまったこちらにも非があるので、僕は人目もはばからず満水さんの手を取った。


 前髪の隙間から、満水さんが探るような目でこちらを見てくる。ほほえみかけると、唇をきゅっと結んでうつむき、空いたほうの手で、乱れた髪をちょこちょこと整えた。


 満水さんはなにも云わなかったけれど、手を離そうとせず、つないでいた手をそこそこ強く握ってくる。僕もなにも訊ねず、満水さんがいちばん好きで、特別だからと伝わるように、ぎゅっと手を握り返した。


 次第に、互いの歩調が重なっていく。バラバラだった足並みがそろって、まるで二人三脚をするように、同じタイミングで足がでてきた。


「わたしたちも、行こ」


 満水さんが軽くほほえんでするっと手を離し、小走りでかけていくと、前を行くみんなの輪に混ざる。


 どこか作ったような、嘘っぽい笑顔だった。


 僕は遅れてあとを追う。つないでいた手のひらの余熱を感じながら、やきもちを抑えることはできたけれど、炙っていた炎は完全に鎮火していないような、そんな気がした。

 


 つつがなく、勉強会が終わりを迎えようとしている。


 外もやや暗くなった頃、各々が都合のいいところで勉強をやめていく。僕も化学の問題を解き終えて一息つき、だしてもらったお茶に手を伸ばした。表面がでこぼことした雅な茶碗に入った緑茶はすっかりぬるくなっていて、渋みがいっそう濃く感じる。


 広い和室には中央に長いテーブルがあり、それを挟むように男女で向かい合って坐っている。端にいる僕のとなりに若藤、その横に沼が並び、目の前には満水さん、真ん中に直美さんが坐り、いちばん遠いところに弓峰さんがいた。


「あーもうこれだけほんとわかんない。ねえねえ、これどうやって解けばいいの?」

 直美さんがのぞきこんだ。「これは、えっと」

「この公式を使うんじゃないか?」と沼が教科書を指さした。

「そ、そう。これを、こうやって」と直美さんがシャーペンでなにかを書いていった。

 弓峰さんが首を傾げた。「えー、うん? えー、っと?」

「おまえ数学ほんと弱いなー」と若藤が畳に両手をつきながら云った。

「じゃあ若藤はできんのこれー」

「どれよ。見せてみ」


 ノートや筆箱などをカバンにしまっていると、前にいた満水さんがあくびをして、潤んだ目でこちらを見てくる。


「はかどった?」

「うん」と満水さんが目元をこすりながら云った。「ひとりでやるより集中できたかも」

「きょうは」と僕は直美さんに目を向けた。「が、いたからね」

「あー。なんかふざけた雰囲気にならなかったよね」


 いまでこそ和気藹々としているけれど、勉強中はそんな空気に一度もならなかった。そうなった要因は間違いなく直美さんがいたからだと思う。勉強会がはじまってすぐ、ひとりで黙々とシャーペンを走らせる姿を見て、ふざけたり、騒がしくてはいけないとみんなが悟ったようだった。


 帰り支度を終えて、みんなの準備が整うのを待っていたけれど、僕ら以外は弓峰さんがわからなかった問題を解くのに夢中になっていて、いっこうに帰る気配がない。僕はスマホの画面をつけると、そこそこいい時間になっている。


「先に行く?」と満水さんが小声で訊ねた。

「そうする?」

 満水さんがうなずいた。「ユコ、先に帰ってもいい?」

「あ、うん、ごめん。私、これ教えてもらってからにする」

「わかった。帰り、暗いから気をつけてね」と満水さんが立ち上がった。

「ありがと。でも若藤いるしだいじょうぶ」

「待ておかしいだろ。なんでオレが付き合わされないと」

「じゃねー」

「ばいばい」と満水さんがにこやかに笑いながら手を振った。「それじゃあ、お先に。あの、きょうはお邪魔しました」

「おう。ケイも行くか?」

「ぁ」

「うん。お先に失礼します」と僕はテーブルに手をついた。

「うす。明日また学校で」

「ぁっ」

「んじゃなー」と若藤が手を振った。「満水、ケイのこと頼んだぞ」

「あはーい。任せて」と満水さんが軽く手を挙げた。

「小暮ー。マユに守られるんじゃないよー」

「いやふつう逆じゃない?」


 みんなの笑い声を聞きながら、満水さんといっしょに和室をでる。明かりがついていないせいか薄暗く、歩幅を細かく刻みながら進んでいくと、白熱灯のまろやかな明かりに照らされた玄関が見えてきた。


 たくさん革靴がおいてあるので、間違えないように自分のものを確認する。指を靴べらのように使って足を入れていると、うしろから足音が近づいてきた。


「ケイ。満水さん」


 僕はつま先を押しこみながら振り返ると、直美さんが立ち止まり、目を泳がせながらスカートをぎゅっと握り締めた。


「き、き、きょ、う、来ぇくれて、あ、あぃがとう」と直美さんが真っ赤な顔で云った。「あ、あま、あまりしゃべ、しゃべれなかった、から。……ま、またよぇれば、遊び、たい」


 緊張しているせいか噛み噛みで、声も小さくて一部が聞こえにくかった。でも僕も満水さんも冷やかしたり、笑ったりはしなかった。


「うん、僕も」

「今度は、みんなでどこか行きたいね」と満水さんが落ち着いた声で答えた。

「う、うん」と直美さんが答えた。「また、部活が休みに、なったら」


 それからすこしのあいだ立ち話をして、僕らは『お邪魔しました』と声をそろえてあいさつをすると、ばいばい、と直美さんが小さく手を振ってくる。玄関の引き戸を開け、点々とおかれている飛び石を目印にしながら沼の家の敷地からでて、ぽつぽつと電灯が灯った夜道を、ふたりで並びながらのんびりと進んでいった。


「ふぅぁ……」と満水さんが手で隠しながら大きくあくびをした。

「疲れたね」

「うん、ほんとに」と満水さんが目をこすった。「疲れた……」

「人が多いの、あんまり好きじゃなかったりする?」

「そこまでじゃないけど」と満水さんが眠そうな声で云った。「たまにでいいかな」

「なんか、ごめん。無理させちゃったみたいで」

「んーん。してないよ。みんなといるとき愉しいし、勉強会、参加したかったから。ただ、ちょっと、ね」

「なに?」

「んー」と満水さんが声のトーンを落とした。「なんでもない」


 その声には、ほんとうになんでもなさそうであり、言葉の奥に隠れた気持ちを汲んでほしそうなニュアンスが滲んでいた。


 僕は歩きながら、その『ちょっと』がなにかを考える。


 前にカラオケで、きょうのメンバーで遊んだことが一度だけある。そのときは、特になにもなかった。前回と今回の違いは、直美さんがいるか、いないか。


「直美さん、苦手だった?」

「ううん。でもきれいで、仲良そうだったから、ちょっと妬いちゃったけど」と満水さんが云った。「ごめんね、行くとき」

「いいよ」


 どうやらハズレのようだった。てっきり、直美さんとあまり相性がよくないのかも、と思っていたのだけど。それ以外で思い浮かぶことを僕はふたたび考える。もしかすると、ほんとうに『ちょっと』したことなのかもしれない。僕がまったく意識しておらず、満水さんだけ意識してしまうような。


「あ」


 僕はあることに気づいて、しずかに歩みを止めると、満水さんが電灯の下で振り返った。


「真癒子」


 名前を呼ぶと、まるで突然スポットライトを向けられたみたいに、満水さんの表情が変わって、全身が光を吸いこんでいく。目が覚めていくように、重たそうなまぶたがゆっくりと開いて、目に力が宿っていった。


「気に、なってたの?」

「……うん。え、なんで、わかったの?」

「男女で、名前で呼び合ってたの、僕と直美さんだけだったから」


 双子だから『沼』と呼ぶとわかりにくく、僕は区別するために直美さんと呼んでいた。無意識だったから気づかなかった。やきもちを妬かれなければ、おそらくわからなかった。


 たったそれだけのことかもしれないけれど、そんな『ちょっと』したことが、満水さんにしたら気にかかるのだろう。


 ふつうの、女の子なんだなと思った。


 ほんのささいなことで、気分が沈んだりしてしまうのだなと。


 付き合う前、付き合ってからも、僕は満水さんの明るいところばかり印象に残っていた。でもだれにだって、明るい一面と、暗い一面がある。嫉妬とか、暗い一面をあまり見ていないような気がするのは、付き合ってまだ日が浅いからなのか、あるいは見せたくなかったのか、それは本人しか知り得ないけれど――これからはもっと、いろんな満水さんを見せてほしいなと思った。


 そのためのきっかけになればと、僕は口を開く。

 

「ふたりのとき、名前で呼んでもいい?」


 満水さんの前に立つ。心中を悟られたからなのか、それとも名前で呼ばれたからなのか、照れているようにうつむいたまま、こっちを向いてくれなかった。


「うん」


 ゆっくり顔を上げると、やわらかくほほえみながら手を差しだしてくる。


 下からそっと手を取り、僕は満水さんと何度も顔を見合わせながら帰路を行く。さっきまでの疲れたような表情はどこへやら、満水さんは、きれいな歯を見せて笑っていた。今度は、作ったような笑顔じゃない。こっちまでつられて頬がゆるんでしまうような、自然な、いつもの通りの笑顔だった。


「恵大」

「はい。なんですか」

「なんでもないです」


 名前を呼ばれて、僕は奥歯を噛んでにやけそうになるのを堪える。友達や両親ですら『ケイ』と呼ぶ人がほとんどなので、聞き慣れていないせいかむず痒かった。


 でも、きっとそれはいまだけで。


 なにも感じなくなる頃にはきっと、僕らの関係はいま以上に深くなっているんだろうな、と思った。

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