地味な僕らの地味な恋

織井

一年生 七月 [終業式編]

第1話 ぐるぐるイヤホン


      1

 

 久しぶりの掃除当番がまわってくる頃には、すっかり夏になっていた。


 窓から入ってくる生あたたかく湿った風、揺れるレースカーテン、放課後になって衰えはじめた日差しと、青空に浮かぶしろい雲。僕は季節の変化を感じながら、箒でゴミを集めていく。


 掃除用具入れからチリトリを引っ張りだし、集めたゴミを入れていく。他の男子は窓側でかたまって話していたり、女子は爪をいじっていたり、髪を整えていたりして、さっさと帰りたいと云わんばかりの雰囲気を醸しだしていた。


 集めたゴミを捨てて、いっぱいに溜まっていたゴミ袋を持ち上げる。床掃きを担当する人は、最後にこれを捨てに行かなければならない。帰るのがすこし遅くなるからだれもやりたがらないので、僕がいつもこの仕事をやることにしていた。


「満水(みちみず)さん」


 僕は黒板掃除を担当していた満水 真癒子(みちみず まゆこ)さんに声をかけた。肩まであるワンレングスのボブカット、すこしつり上がった目とうすい桃色の唇。背はそこまで高くなく、スカート丈は短すぎず長すぎない絶妙な長さで、リボンをきっちりと締め、ブラウスの袖を肘のあたりまで捲り、左手首にブラウンのヘアゴムをつけている。


「みんなに、さきに帰っていいからって、伝えておいて」

「うん。わかった」

 

 満水さんが短く答えて、両手に黒板消しを持ちながら窓のほうへ歩いていった。


 僕は教室をでて、人のすくなくなった廊下を歩いていく。階段を降りていき、外にあるゴミ捨て場にゴミ袋を放り投げ、暑さから逃げるように早足で校舎へ戻った。ふたたび階段を上がっていたら、カバンを持ったクラスメイトたちとすれ違う。


 教室に戻ると、満水さんが黒板の真ん中にある引きだしにチョークを補充していた。消し跡が微塵も残っていない黒板は湖の水面のようで、顔が映りそうなほどに整えられている。


 満水さんがこちらを向いた。「どう?」

「新品、みたいだね」

「ありがと」


 満水さんが笑うと、目尻が垂れ下がってやわらかい雰囲気になる。手についていた粉を払い落とし、机と机のあいだを歩いていくと、自分の席にかかっていたカバンをつかんだ。


「帰ろ?」

「うん」


 僕もカバンを持ち、いっしょに廊下を歩いていく。


 教室の掃除当番になってから、僕は満水さんと帰ることが増えていた。いつも最後まで残っているのは偶然なのか、それとも、と僕はつい考えてしまう。


 だけど、容姿が秀でているわけでもなく、誇れるような特技もなく、成績がいいわけでも、クラスで存在感があるわけでもない自分を好いているかもしれないなんて、自意識過剰なことは思えなかった。


 正面玄関をでて、駅へ向かっていく。夕方になって暑さはすこし和らいでいたけれど、歩いているだけで、汗が自然と流れてきた。


「暑いね」


 彼女の香りが風に運ばれてくる。僕は考えていることを悟られないように距離をおきながら「そうだね」と答えた。


 それから駅までは、特に話すこともなく、お互いに黙ったままだった。


 改札を通り、ホームで電車が来るのを待つ。日陰になっているおかげか、歩いていたときよりも涼しかったけれど、僕は我慢できずに、ホームにあった自販機に財布を当て、お茶を買った。


「ねえ、小暮(こぐれ)くん」

「なに?」

「ひとくちちょうだい?」

「どうぞ」


 渡すと、ペットボトルのキャップを開け、満水さんがお茶を飲んでいく。喉を突きだすように口をちょっとだけ開けて、四分の一くらいを飲んでから「ありがと」とお礼を云って、返してきた。


 僕はなんのためらいもなく口をつけてお茶を飲んだ。つけずに飲むことだってできたけど、あえて口をつけた、と云うべきかもしれない。そんなささいなことを気にして、意識していると思われたくなかったから。


『まもなく、電車が到着いたします――』


 アナウンスが聞こえてきて、目の前にゆるやかに電車が止まった。車両からでてくる人たちを待ってから、僕たちは電車に乗りこむ。車両のなかはそこまで混んでおらず、僕は空いていた座席に腰を下ろした。


 満水さんがとなりに坐る。ほかにも席は空いているのに、どうしてとなりに、と疑問に思ったけれど、そんなことを気にしていないように、僕はポケットからスマホを取りだして、イヤホンのコードを解き、両耳に押しこんだ。


 腕を組みながら背もたれに身体をあずけていると、ぽんぽんと肩を叩かれた。僕はそちらを見ながらイヤホンを引き抜く。


 満水さんが興味ありげな声で訊ねてきた。「なに聴いているの?」

「聴く?」


 別に聴かなくてもどっちでもいいけど、というくらいのニュアンスで云いながら、イヤホンを満水さんに差しだす。


「うん」


 満水さんが髪を耳にかけて、イヤホンをぐっと奥まで押しこんだ。


 曲が、ちょうどサビになる。


「あ、知ってる、この曲」

「いいよね、これ」

「うん、好き」


 ドッ、どっ、と胸の音が次第に大きくなっていく。気分が高揚しているのはきっと、曲のせいではないだろう。


 ピンと張っていたコードが、わずかにたるんだ。

 

 電車に揺られながら、正面の窓を見ると、満水さんが頭を傾けていた。身体は腕一本分くらいの距離があったけれど、頭はいつ当たってもおかしくないくらいの近さにある。


 電車が揺れると、膝が左右に動いて軽く触れ合った。だけど、僕はなにも云わなかった。気づいているけれど、云ったらいけないような、そんな気がして。


 僕は鼻で大きく息をしてから坐りをなおした。鳩尾のあたりが押されているように苦しい。ほんのちょっとの期待と、そして不安がごちゃまぜになったような複雑な感情が胸に宿る。


 曲が終わり、次の曲が流れはじめると、満水さんがイヤホンをはずして「ありがと」と云った。


 何駅か過ぎていき、電車が止まると、満水さんが立ち上がった。じゃあね、とも、またね、とも云えずに、僕は黙ったまま彼女を見送ることしかできなかった。


 ドアが閉まり、電車が動きだす。


 ゆっくりと進んでいく車両の窓から、僕は満水さんの姿を見つめつづけた。


 姿が見えなくなってから、ふうっと小さくため息をつく。冷房がきいているはずなのに身体が熱く、僕は襟を引っ張って熱を逃がした。


 明確に好意があるとも云い難いやりとりに、心が磨耗する。


 はっきりと、彼女の気持ちがわかるなにかがほしかった。


 はずした片方のイヤホンを耳に入れようとして、いまはなんとなくだけどつけるのをためらい、僕はぐるぐるとスマホに巻きつけた。 

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