第3話 悪い精霊《ジン》の正体

 城壁の向こう側に赤い夕陽が落ちていく。黄昏たそがれ時、悪い精霊ジンたちが活発に行き来すると言われている時間帯だ。


 女物の外套マントをまとい、頭布をつけたファルザードが、街を歩き始める。暗がりに入った時にわずかな光でも反射するよう、頭布は縁に銀の刺繍の入ったものをかぶっている。


 ギョクハンは、極力ファルザードから離れないよう、ただし一緒に行動していると思われないよう五、六歩分は距離を置いたところで、彼の後ろを歩いていた。


 人の往来の激しい道路を行く。だが、今朝ジーライルと三人で同じ道を歩いた時に比べると、混雑は緩和されている気がする。化け物騒動が起こって以来老若男女が警戒して夜の外出を減らしているらしい。特に一人歩きをしている女性が狙われるというのはすでに街じゅうに知れ渡っているらしく、女性の姿はほとんど見られなかった。目に留まるのはファルザードだけだと言ってもいい。


 ファルザードは華奢で小柄なので、人波に埋もれてしまいそうだ。見失わないよう全力で気を配った。


 それにしても、男には見えない。


 精霊ジンでなくても、世の中には人さらいなどごまんといるのだ。ファルザードを守るためには精霊ジン以外にも気をつけなければならない。


 ギョクハンも朱色の外套マントを羽織っていた。外套マントの下で密かに腰の刀の鞘を握り締めた。


 夕陽が沈んでいく。東の空に月が昇る。蒼穹は橙から紅へ、そして紫へ少しずつ色を変えていく。

 やがて空全体が黒い闇に染まると、空には星、地には松明の街灯が輝き始めた。


 人の往来がどんどん減っていく。


 ギョクハンはファルザードのあとをつけているのが見つからないよう建物の陰から陰へ移るようになっていた。なかなか骨が折れる。幼い頃は何もない草原で、成長してからも平地で傭役軍人マムルークの騎士として活動してきたギョクハンは、都市があまり得意ではない。


 ファルザードは決して振り向かない。それが逆に頼もしかった。自分が果たすべき役割を心得ているのだ。その上で、ギョクハンは絶対についてきていると確信しているからこその足取りに違いない。そう思うと、ギョクハンは少しだけ嬉しかった。


 ファルザードが通りの角をひとつ左に曲がった。


 ギョクハンはもはや東西の感覚も失っていた。ファルザードに導かれているような気さえしてきた。自分は、彼をつけているのではなく、彼についていっている。


 それにしても、彼はいつシャジャラの地理を把握したのだろう。彼もシャジャラに来たのは今回が初めてだと言っていたはずだ。まさか、昼間のあの買い物だけでおぼえた、ということはあるまい。


 さらにもうひとつ、角を右に曲がった。


 角から密かに顔を出してあたりを見た。


 五差路になっていた。ファルザードは無人の五差路の真ん中で立ち止まっていた。


 ギョクハンは胸を撫で下ろした。この状況でファルザードが勝手にどこかの通りに入っていったら見失ってしまうところだった。


 細くて、折れ曲がっていて、どこがどこにつながっているかわからなくて、不安だ。


 不意に何かの気配を感じた。五差路の、ギョクハンから見て左の方から、何かが動く音がする。


 あたりはもう暗くなっていた。五差路を照らす街灯がひとつだけ輝いている。五差路のうち三本はその先の灯りが見えない。都市の密集した建築物の間では、月明かりも星明かりも、届かない。


 言い知れぬ胸騒ぎを感じる。


 ファルザードの頭布の縁取りだけが、銀に輝いている。


 ファルザードは右に曲がった。ギョクハンも右に曲がろうとした。


 ざわ、と、何かが動いた。


 闇の中、闇に溶ける真っ黒な何かが、五差路の左から右へ動いている。


 ギョクハンは思わず立ち止まってしまった。

 見慣れないものに対する本能的な恐怖だ。

 草原にも砂漠にもこういうものはいないのだ。


 これが、悪い精霊ジンか。


 何かが、うごめいている。左から右へ、黒いかたまりが、移っていく。


 かたまりは街灯を避けていた。悪い精霊ジンは光が当たると消えてしまうのだろうか。その姿が見えない。ただ何となく、輪郭がある気がする。ギョクハンより大きい、縦長のかたまりだ。


 手が震えた。


 こんな化け物と戦わされるのか。


 唾を飲み込んだ。音を立てぬよう静かに自分の腿をつねった。


 戦わなければならない。五万金貨ディナールを、皇帝スルタンにつながる人脈を、そして何よりファルザードを賭けてギョクハンは戦わなければならないのだ。


 自分を奮い立たせた。一歩を踏み出した。


 黒いかたまりは、いつの間にか消えていた。右の小路に吸い込まれていったのだろうか。


 右の小路こみちを覗き込んだ。だが、真っ暗で何も見えなかった。三階建ての土壁の集合住宅、その屋根の上から月明かりが差し入っているが、反対側の壁を照らすばかりで、地面に立つギョクハンの足元は見えない。


 ファルザードはどこへ消えてしまったのだろう。もう悪い精霊ジンにさらわれてしまったのだろうか。


 五差路の真ん中に戻ろうかと思った。街灯になっている松明を持ってきて状況を確認したい。ここまで来たら精霊ジンや他人に見つからないように振る舞うのは中止だ。まずはファルザードの安全を確保しなければならない。


 ギョクハンが後ろへ振り向こうとした、その時だ。


 すぐ左側で、壁に何か硬いものがぶつかる小さな音がした。


「ギョク!」


 ファルザードの声が響いた。


「触らないで!」


 声のするほう――正面を改めて見た。


 次の瞬間だった。


 壁が燃え上がった。


 正確には、壁の下だ。

 道路の上、壁沿いで何かが燃えている。


 急な熱と光に驚き、ギョクハンは目を一度閉じた。


 だが、炎はギョクハンを焼き尽くすほど強いものではなかった。それどころか、よく見たら足元を照らす程度の高さしかない。


 それでもあたりは明るくなった。目の前の状況がはっきりと見えるようになった。


 燃えているのは縄だった。右の壁沿いから、袋小路になっている奥につながり、奥にぶつかってからまたこちらへ向かって左の壁沿いに這っている。先ほど壁にぶつかったのは縄の先端にくくりつけられた石だった。


 袋小路の行き止まりに、外套マントの下から小さな甕を取り出して左腕で抱えているファルザードの姿が見えた。ギョクハンは思わず「あっ」と声を上げてしまった。昼間買った縄と油だ。ファルザードは油につけた縄をわざと地面にたらして歩いていたのだ。


 ファルザードの細工であたりが明るくなった。真っ暗な闇の中にひそむそれらの正体まで、浮かび上がった。


 全身に、真っ黒な布をまとっている。頭にも黒い巻き布ターバンを巻き、顔も下半分を黒い布で覆っている。


 人間だ。


 ギョクハンよりも背の高い、体格のいい人間が六人、ファルザードとギョクハンの間に立っている。


「――こざかしいガキどもだ」


 先頭にいた黒づくめの人間が、振り向き、ギョクハンの方を見た。そして、顔を覆っている布を外した。

 白目と黒目のはっきりした大きな目、厚い唇、浅黒く滑らかな肌に刺青いれずみ――イディグナ河の河口に住むという沼地の民の男性だ。


「見たな?」


 ギョクハンは刀に手をかけた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る