第2話 カラはいい子だな

 頬に濡れた感触を感じて、ギョクハンはゆっくりまぶたを持ち上げた。


 あたりはすっかり暗くなっていた。


 慌てて跳ね起きた。

 熟睡してしまったらしい。

 頭上はすでに満天の空だ。天文に疎いギョクハンには今どれくらいの時刻なのかわからないが、半日近く眠ってしまったようだ。


 ギョクハンを起こしたのは、彼の愛する黒馬だった。彼女は眠る主人の頬に鼻面を押し付けていた。ギョクハンが上半身を起こすと、今度はギョクハンの頬に頬を寄せた。


「ありがとな、カラ。お前は本当にいい子だ」


 黒馬は何も言わない。ただ黙ってギョクハンに寄り添うだけだ。


 一方白馬は相変わらず草をんでいる。能天気なものである。


 能天気といえば、こいつもだ。


 自分の左側を見下ろす。ファルザードがまだ寝ている。ギョクハンは溜息をついた。


「おい、起きろ、ファル」


 肩をつかんで揺する。ファルザードが秀麗な顔をしかめて「ううん……」と唸る。


「寒い……」

「当たり前だろ、もう夜だぞ」


 春の砂漠の夜は冷え込む。日によっては暖房が必要になるほどだ。こんなところで火も焚かずに寝ていれば風邪をひくかもしれない。一刻も早く帝都に行きたい身としては、風邪などひいて弱っている場合ではない。


「夜のうちに移動する。急いで支度しろ」


 そこまで言うと、ファルザードがようやく体を起こした。左の手の甲で眠い目をこする。


「そうだ、行かなきゃ」


 一応自分が置かれている状況はわかっているらしい。ギョクハンは安心して立ち上がり、体の下に布団として敷いていた布を巻き始めた。


 巻き終えた、その時だ。


 何か、気配を感じる。刺すような、鋭い気配だ。

 誰かが強い意識をもってどこかから自分たちを見ている。

 殺気だ。


「――早く支度しろ」


 そう言いつつ、ギョクハンは白馬の手綱を引いてこちらに寄せた。白馬は鼻を鳴らしながらゆっくり近づいてきた。緊張感のない馬だ。

 黒馬はギョクハンの次の指示を待っておとなしく控えていた。ギョクハンは右手に白馬の手綱を持ったまま左手で彼女の頭を撫でた。


 黒馬の背に荷物を積み、腰に弓袋と二振りの刀を携えてから、気配のするほう――星の具合から言って西のほう、井戸がある方角を見た。


「誰だ?」


 問うてから気づいた。

 一人ではない。複数だ。複数の人間がこちらを見ている。


 左手を右の鞘の柄に、右手を左の鞘の柄にかけた。


「ギョク?」


 ファルザードが呟くように問いかける。


「誰かいるの?」


 次の時だ。


 井戸の向こう側に、火が燈った。誰かが松明に火をつけた。真っ暗な闇の中に、数人の兵士の姿が浮かび上がった。

 揃いの濃緑の外套マントをまとっている。

 ナハル兵だ。


 ナハル兵が、井戸をまわって、こちらに近づいてくる。


「朱の外套マントに双刀のトゥラン人――」


 ゆらりと火が揺れる。


「お前、ワルダ城を抜け出した小僧だな?」


 じりじりと、にらみ合う。


「何のためだ? まさかとは思うが、女国主アミールから何らかの密命を受けているわけではあるまいな? 言え。ここで口を割ったら命だけは助け――」


 途中でギョクハンは大きく一歩を踏み込んだ。刀を揃えて右斜め上に大きく振りかぶった。

 井戸の手前にいたナハル兵が急いで剣を構えようとしたが遅い。

 胸を切り裂いた。あたりに紅い花が散った。


「殺せ!」


 後ろにいたナハル兵の一人が怒鳴った。


「外に放すな!」


 ナハル兵が全員一斉に剣を抜いた。


 一人が振り下ろした剣をギョクハンは右の刀で受けた。

 同時に左の刀を振るう。

 別の兵士の胸に突き刺す。

 力任せに薙ぐ。

 肉を断つ感触、それから骨を砕く感触を味わう。刀が兵士の胸から脇へ抜ける。


 右の刀で受け止めていた剣を振り払った。

 直後、手首を返して向かってきていた兵士の手首を切り落とした。紅い噴水が勢いよく噴き出してギョクハンの頬を濡らした。


 刀を揃えて後ろにいた兵士の顔面を斬った。頬骨が砕け、目玉がはみ出し、口が裂けた。


「何だこのガキ……!?」


 ナハル兵たちがたじろぐ。


「化け物か……!?」


 一番後ろにいた兵士が「ひるむな!」と怒鳴った。


 ギョクハンはさらに踏み込んだ。

 刀を交差させて一人の兵士の首を刎ね飛ばした。


 これで五人だ。


 まだいる。全部で十人ほどいたようだ。


 ここで最後まで斬ったほうが早いか――ナハル兵たちが全員地に足をつけているなら、馬に乗って逃げたほうが早いか。


 考えている時に後ろから声が聞こえてきた。


「うわっ」


 振り向くと、いつの間にか背後にまわっていたらしいナハル兵二人が、ファルザードを挟むように立っていた。

 うち一人がファルザードの胸倉をつかんでいる。

 まずい。


 すぐ駆け寄ってきたナハル兵に振り向きざまに刀を突きたてた。


 だがギョクハンがそうこうしているうちにファルザードが揺すぶられている。


「手紙か? 出せ」


 ファルザードは文箱を抱き締めたままいつになく力強い声で答えた。


「嫌だ!」


 ナハル兵が右手でファルザードの胸倉をつかんだまま左手を腰の短剣に伸ばした。


 ギョクハンは走った。


 ファルザードの背後にいる兵士の脇腹を蹴った。刀を振るったらファルザードまで一緒に斬ってしまうと思ったのだ。


 手に刀を握ったまま、ファルザードを後ろから抱き締める。星明かりで輝くギョクハンの刃にファルザードが硬直する。少々危ない目に遭わせてしまったが、動かないでいてくれるのは好都合だ。

 そのまま後ろに引っ張った。

 ギョクハンの刀がファルザードの胸倉をつかんでいた兵士の手に触れた。

 手が離れた。

 即座にファルザードを後ろに引きずった。


 すぐそこで白馬が待っていた。


「乗れ!」


 ファルザードを白馬の背に押し上げた。ファルザードががくがくと頷きながら白馬にまたがった。


「カラ!」


 呼ぶと黒馬が駆け寄ってきた。ギョクハンもまた黒馬に飛び乗り、またがった。


「走るぞ!」


 言うや否やギョクハンは東のほうへ向かって駆け出した。


 ひづめの音が聞こえる。白馬はちゃんと走っているらしい。ザイナブの馬だから、それなりにわかっているものと見える。


 ちらりと振り向いた。

 ファルザードは歯を食いしばって白馬にしがみついていた。


「振り落とされるなよ」


 そう言いながらギョクハンは黒馬の腹を蹴った。駆ける速度を上げる。


 なんとか逃げ切る。

 そう、ギョクハンは思っているのだが――


「待って!」


 ファルザードの声が遠くから聞こえた。


 ファルザードが追いつかない。姿勢が悪い。

 白馬はまだ余裕のありそうな顔をしているが、おそらく、自分が全力疾走をしたらファルザードを振り落としてしまうことを理解しているからこそ、のんびりしているのだ。馬は悪くない。


 ギョクハンは舌打ちをした。

 これではファルザードを置いていってしまう。ギョクハンも全力で走れない。



 さらに後方から複数のひづめの音が聞こえてきた。それから松明の炎も見えた。濃緑の外套マントは夜の闇に溶けて黒い色に見えた。ナハル兵が馬に乗って追いかけてきている。


「くそっ」


 ギョクハンは腰の弓袋から弓を引き抜いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る