狼の子と猫の子のアルフライラ

日崎アユム/丹羽夏子

第1夜 いってらっしゃい

第1話 国主《アミール》ハサンの最期

 その流れは、ギョクハンの目にはやけにゆっくりとして見えた。


 槍の穂先がハサンの鎧の胸に突き刺さる。

 突き抜ける。

 背中から紅く濡れた穂先が生える。

 槍の柄に体が沈んでいく。


 二本目の槍が別の角度から伸びてきた。

 このままではその二本目の槍もハサンの体を貫く――そうとわかっているのに、ギョクハンには止めることができなかった。


 案の定、二本目も、今度はハサンの左の脇腹にめり込んだ。

 間を置かず右の脇腹に突き出た。

 その穂先も紅く濡れていた。

 二本目の槍の勢いに押されたハサンの体は右に傾いた。


 ハサンの口から液体がこぼれた。その液体の色は槍の穂先を濡らすものと同じ紅だった。


 体重に引きずられるがまま、ハサンの体が地面へ落ちた。

 槍から抜け、馬から転がり、大地へ倒れ伏した。

 ハサンの体の周囲に砂ぼこりが舞った。


 ハサンがやられた。誰よりも何よりも守らねばならない国主アミールが刺された。


 ギョクハンが功に逸ったせいで、だ。


 先輩傭役軍人マムルークたちの言うことをちゃんと聞いていればよかった。先輩たちは、ギョクハンにくれぐれも前へ出るなと言い含めていたのだ。ハサンのそばに控えているようにと口を酸っぱくして言っていた。彼らの言ったとおりずっとハサンのそばにいればハサンを守れたかもしれなかった。

 自分自身のための華々しい戦果より主君を守ることに力を注ぐべきだった。


 馬の手綱を離した。弓を腰の弓袋に押し込んだ。


 ギョクハンは腰に弓袋だけでなく刀も携えていた。鞘が革帯に固定されていて背中で交差している。

 右手で左の鞘から一本、左手で右の鞘から一本、合計二本の湾刀を引き抜いた。

 そして、それぞれ片手で構えた。

 騎馬民族の戦士であるギョクハンは手綱を握る必要などない。内腿で馬を押さえたまま敵兵の中へ突っ込んだ。


 ハサンを貫いた騎兵たちは馬からおりてきていた。きっとハサンの首を刈るためだ。剣を抜き、ハサンの体に手を掛けようとしていた。


 そこにかなり離れたところにいたはずのギョクハンが反転して、猛烈な砂塵さじんを巻き上げながら戻ってきた。


 急なギョクハンの方向転換に驚いたようで、彼らはこちらを向いて一瞬動きを止めた。


 その瞬間を、ギョクハンは見逃さなかった。


 二人の間に跳び込んだ。

 右手の湾刀で右にいた敵兵の首を、左手の湾刀で左にいた敵兵の首をねた。

 ふたつの首が勢いよく宙に飛び、二人の体が崩れ、倒れた。

 噴水のように噴き上がる体液が乾いていた砂の大地を濡らした。


 それまでギョクハンの相手をしていた敵兵たちが、ギョクハンの後を追っていた。

 ギョクハンは右手で湾刀の柄を持ったまま手綱をつかみ、引き、右足のかかとで馬の腹を蹴った。黒い愛馬は賢くてギョクハンに忠実だ。自分がどうすればいいのか察して左を向いた。


 駆け出す。


 ふたたび手綱を離した。


 まずは双刀を交差させて、その中心点で向かってきた剣を受け止めた。

 右の刀で剣を弾き飛ばし、左の刀で敵兵の腹を刺し貫いた。

 右の柄尻で胸を殴って、左の刀を引き抜く。

 敵兵の体が後ろに傾き地へ落ちる。


 次に向かってきた敵兵の左側に跳び込んだ。

 右の刀の刃を首の付け根に食い込ませる。

 同時に、左にいた敵兵の脇腹にも左の刀をめり込ませる。

 二人とも手綱を握ったまま馬から転がり落ちた。


 それから正面にいた敵兵に向かった。

 ギョクハンの馬が少し頭を下げた。

 あぶみを踏む足に力を込めて、尻を浮き上がらせた。

 右の刀を右上から左下へ、左の刀を左上から右下へ、勢いよく振り下ろした。

 刀の交差地点に挟まれて敵兵の首が飛んだ。


 ギョクハンの明るい朱の外套マントが重い紅に染まった。


 敵兵たちはギョクハンの猛攻にひるんだようだった。彼らはまだハサンとギョクハンを丸く円を描くように囲んでいたが、誰も突進してこようとはしなかった。まさかひげも生えぬ若造のギョクハンがここまでの猛者だとは思っていなかったのだろう。少年傭役軍人マムルークと中年国主アミールの組み合わせだ。首をるのは楽勝だと踏んでいたに違いなかった。


 だからこそ、ギョクハンは悔しかった。


 敵兵たちは自分をあなどっていた。

 今は自分を見ておびえている。

 最初から自分が全力でハサンを守っていればこんなことにはならなかったかもしれないのだ。


 ギョクハンの背後から矢が飛んできた。その矢は目にも留まらぬ速さでとある敵兵の胸に突き刺さった。

 それを皮切りに、大量の矢が敵兵の上に降り注いだ。

 敵兵が次々と落馬し事切れていった。


 振り向くと、そこに味方の傭役軍人マムルークたちが並んでいた。彼らの強弓が敵兵たちを薙ぎ倒したのだ。


 ギョクハンは奥歯を噛み締めた。


 ここに彼らがいるということは、彼らは撤退してきた、ということだ。自分たちの君主がやられたことに気づいて、前線から戻ってきてギョクハンの助太刀をしたのだ。


 一人が馬からおり、ハサンを抱き起こした。


「ハサン様! ハサン様、おわかりですか」


 返事がない。蒼白い顔をして力なく腕を垂らしている。

 その胸に開いた穴からはなおも血が流れ出ている。


 一人がハサンの背後に回り、両脇に腕を回して抱え込んだ。また別の一人がハサンの足をつかんだ。二人がかりで抱えて、灌木かんぼくの茂みに隠れてから、ハサンをゆっくり優しく地面におろした。


 ギョクハンは刀を納めた。

 今にも泣き出しそうなのをこらえて、ハサンたちのすぐそばに馬で駆け寄り、馬からおりた。


 ハサンの胸はまだ上下していた。荒く一定しないが、一応息をしている。

 しかしそう長くはもたないだろう。

 ハサンの背の下は真っ赤に濡れ、ハサンを抱えている先輩傭役軍人マムルークたちの鎖帷子の上の外套マントも重い紅に色を変えていた。


「ハサン様」


 ハサンのすぐそばにひざまずいた。毛皮の帽子を取って握り締めながらハサンに顔を見せた。


「ギョクハン……」


 苦しそうだ。今にも息が止まってしまいそうだ。


「ギョクハンは無事か」

「はい、俺は――」


 情けなかった。

 大恩ある主君のハサンが重傷を負ったというのに一介の傭役軍人マムルークである自分が無傷、というのは、とてもではないが口に出せるものではなかった。


 しかし、ハサンは目を細めて「そうか、元気か」と呟いた。


 ハサンの血に濡れた手が伸びる。ギョクハンの、トゥラン人特有の細かく編み込んだ髪を、震える手で優しく撫でる。


「すまんなあ、お前の初陣を台無しにしてしまって……。お前にふさわしい活躍をさせてやりたかった……わしのお守りではなく……一番槍をさせてやりたかった……」


 ハサンの上半身を抱えている先輩傭役軍人マムルークが「何をおっしゃいますか」と言った。


「ギョクハンほど強かったらハサン様を完璧にお守りできると思っての配置でしたのに」


 ギョクハンは打ちのめされた。そういう先輩たちの配慮を無視して前に出ようとした自分の愚かさが胸に突き刺さった。

 みんなギョクハンを信頼してくれてのことだったのだ。ギョクハンが十五の若輩だから控えていろと言ったわけではなかった。

 みんなの期待を裏切ってしまった。


 ハサンが力なく笑った。


「もうよい」


 まぶたが、ゆっくり、おりていく。


「ギョクハン」


 震える声で「はい」と答えた。


「わしのことはもうよい。ザイナブだけは」


 その名を口にした瞬間だけ、ハサンの声に力がこもった。


「ザイナブだけは、そなたが全力で守るのだぞ。ザイナブだけは――」


 そして、まぶたは、閉ざされた。


「ザイナブ……」


 ハサンの手が、地に落ちた。


 ギョクハンは絶叫した。

 そんなギョクハンに声をかける者はなかった。




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