■琴子の過去

「私、世間知らずだったんです」

 琴子は自嘲して言う。その意味するところを尋ねると、彼女は苦笑するのだった。

「恥ずかしい話なんですが、私、大学生になるまで父の職業を詳しく知りませんでした。どこかの省庁に勤めている職員、という程度の認識しか無かったんです」

 彼女の父親といえば。そう、警察庁長官だ。現在では警察組織のトップだが、当時は局長クラスを務めていたとしてもおかしくない。

 警察庁に勤務する職員は、警察官と一般職員に大別される。一般職員が長官になることは無いから、琴子の父親も警察官ということになる。しかし警察官といっても、警察本部や警察署で働く刑事や交番勤務の『お巡りさん』とは違い、警察庁勤務の警察官は組織運営が主な仕事となる。いわゆる『警察官僚』というものだ(琴子は採用後間もないので、現場実習を兼ねて出向という扱いになっていると思われる)。

「実の父親に対してもそんな有り様ですから、家の外なんて分からないことばかり。そのくせ読書で得た知識は多かったので、当時の私は『頭でっかち』だったのでしょうね」

 琴子は両膝を抱え、椅子の上で三角座りする。視線はパソコン画面のやや上を向いていた。

「高校生の頃にはすっかりミステリに嵌まっていましたから、多分あの頃が一番、本を読んでいたかな。そんな姿を見て両親は、将来私が図書館の職員になると思ったそうです」

 薄井は想像した。静かな館内で黙々と働く琴子の姿を。警察のような荒々しい職場よりも、彼女にはその方が似合っている。

「でもね、実際本人はどうだったかというと」

 そこで琴子が吹き出した。

「ど、どうしたんですか?」

 真夜中のテンションというやつだろうか。薄井はたじろいだ。

「ごめんなさい。思い出したら、あの頃の私ってバカだったなぁって」

 彼女は深呼吸した。そうして込み上げてくる笑いを抑え込む。

「私ね、ミステリに没頭するあまり、犯罪学に興味を持ったんです。で、その分野を学びたくてフロリダ州立大学に留学しちゃいました」

 台詞の後半部分で、琴子は再び吹き出した。

「え、でもそれ凄いことなんじゃないですか!?」

 彼女は事も無げに言うが、留学はおろか大学にすら行ったことのない薄井にとっては驚くべきことだ。

 フロリダ州立大学なら犯罪学を学ぶのに申し分ない。警視庁でも、本人が希望すれば海外の大学に留学できるという制度がある。入学先としてよく挙がる大学の中に、フロリダ州立大学も含まれていた。ちなみに、留学できるのは、語学堪能で極めて優秀な刑事部の警察官とされている。凡庸な刑事が希望したとしても鼻で嗤われるレベルだ。

「いえいえ、そんなんじゃありません。だって架空と現実の区別もついていなかったわけですから。ミステリの中の犯罪と、実際に行われる犯罪ってまるで別物でしょう?」

 それはその通りだ。ミステリ作品の中で見られる奇想天外なトリックは、現実世界で見ることがないし、そもそも仕掛けなど必要ない。読者は虚構の世界であることを知りながら、予想だにしないトリックや謎の解明に至るロジックを楽しむのだ。

「とまあ、十代の頃ならではの無茶をしてしまった私でしたが、両親は快く受け入れてくれました。これには今でも感謝しています」

 娘が一人で知らない土地へ行くことに、彼女の両親はどんな思いを抱いていたのだろうか。我が子を送り出したその裏には、両親なりの葛藤があったことだろう。

「入学してからは順調でした。言葉の壁に戸惑うことはあったけれど、講義にはなんとか付いていけましたし、ホストファミリーも皆さん良い方で。毎日レポートに追われていましたが、充実した日々を過ごせていたと思います」

 当時を回想しているのだろう、琴子の語り口調は軽やかだ。しかし次の台詞で、若干のトーンダウンがみられた。

「そんな毎日が卒業間際まで続いて、そろそろ自分の進路を決めなければならなくなりました」

 薄井は疑問に感じた。ここまでの話で、警察官を志した動機に繋がる要素が無い。

「私は大学院に進学して研究を続けるつもりでした。そのまま研究者になる道も視野に入れて」

 好きなものに没頭する彼女らしい選択だ。なのに帰国してまで全く別の世界に飛び込んだ理由は、どこにあるのだろうか。

「その矢先でした」

 ここで少し間があった。琴子は卓上の缶を手に取り、カフェオレを一口。まるで湧き上がってくる何かを飲み込むようだった。

「……銃の乱射事件に巻き込まれたんです」

 薄井は息を飲んだ。

「あっ、そんなに緊張しないで下さい。私自身が撃たれたとか、親しい人が被害に遭ったとかじゃないですから」

 薄井の変化を感じ取ったのだろう、琴子は下がり眉の顔をこちらに向けた。

「あれは友人とショッピングセンターに立ち寄った時の出来事でした。駐車場で車から降りると、銃声が聞こえたんですよね」

 話し方に変化は無いが、彼女は目を瞑っていた。

「正確に言うと、銃声と分かったのは後からでした。パーンというような、車のバックファイアみたいな音」

 実際の銃声は意外に軽く聞こえる。ドラマや映画で聞く銃声は、あくまで演出上のものだ。

「次に悲鳴が聞こえて、それからまた銃声。店舗側から走ってくる人が大勢いて……その向こうに、銃を構えた男が見えました」

 薄井は事件の被害者から事情を聞いている感覚に囚われた。彼女が話すのは、まさに事件の証言だ。

「犯人は目につく人を手当たり次第に撃っているようでした。それがどんどん、こっちに近付いてくるんです。その様子を見て私、すっかり足がすくんでしまいまして……」

 かなり危険な状況だったようだ。当時の現場をリアルに想像して、薄井は身震いする。

「あの時、友人が車の陰に引っ張り込んでくれなければ、私も撃たれていたかもしれません。息を潜めて、ひたすら見付からないことを祈りながら過ごした時間は、まるで永遠に続くようでした」

 そこまで聞くと、我知らず吐息が漏れていた。結果は分かっていたが、琴子の感じた恐怖に共感するあまり、呼吸することも忘れていた。

「犯人はどうなったんですか?」

 刑事の性分だ。事件の結末が気になる。

「警官によって『制圧』されました。死傷者は二十九人、その中には犯人も含まれています」

 その言い方からすると、犯人は射殺されたのだろう。

「……何というか……大変でしたね」

 としかコメントできない。他に掛ける言葉もあっただろうに。薄井は自分の語彙力の無さをもどかしく感じた。

「ええ」

 琴子が目を開いた。怯えた様子は無い。

「この事件の後、私は警察に保護されて、証言を求められました。それが終わると、今度は日本大使館。外務省主導の聞き取り調査がありました」

「外務省?」

「はい。海外で日本人が事件に巻き込まれた場合は、そういう機会が設けられることもあるようです」

 これは初耳だった。海外での銃乱射事件に、日本人が巻き込まれること自体が珍しいのかもしれないが。

「……どんなことを聞かれたんですか?」

 純粋な興味から聞いた。しかし直ぐに、無遠慮な質問だったかと後悔する。誰だって辛い過去はほじくり返されたくないものだ。

「警察と大体同じでしたよ。君はどこから来たんだ、何をしにあの場所へ? どんな状況だったか、覚えている限り話してくれ――そんな感じです」

 彼女に掛けられた言葉の中に、気遣いの一言は無かったのだろうか。そんな疑問が湧いたので、薄井はこう尋ねた。

「それだけですか?」

「そうですね……あと『君はもしかして、室生刑事局長の娘さんか?』とも。この時でした、私が初めて父の職業を知ったのは」

「どうしてそこでお父上が?」

 彼女の父親を何と呼んでいいか決まらないうちに聞いたので、妙な敬称を使ってしまった。変に思われていなければいいのだが……。

 薄井の心配を余所に、琴子は気にする様子もなく、こう返す。

「聞き取りをされた方が、父の卒業した大学の後輩だったそうです。その方からは、父との思い出話も沢山聞かせていただきました」

 警察庁長官の過去には興味があるが、きっと自分とは駆け離れた栄光の道のりがあるに違いない。そもそも住む世界が違うのだ。そう考えると、琴子と自分との間には、やはり越えられない壁があるのだと痛感する。

 琴子は続ける。

「皮肉なものですね。犯罪の被害に遭って初めて、身内を含め、世の中のことを知るというのは」

 ここで彼女が俯いた。その姿は何かに懺悔ざんげしているように見える。

「聞き取りが終わった後は、ホストファミリーの元へ送り届けられました。彼らに抱きしめられた時にようやく、涙が溢れたのを今でも覚えています」

 その時の心中しんちゅうは、いかばかりか。察するに余りある。

「そうですか」

 薄井が相槌を打つと、琴子は大きく息を吸う。まだ続きがあるらしい。

「一応は日常生活に戻れたものの、実はそこからが大変でした」

「というのは?」

「生まれて初めて目の当たりにした『本物の暴力』に、私は畏れを抱きました。それはまるで体を蝕む薬物のように浸透して、『いつまた犯罪被害に遭うか分からない』という恐怖感へと姿を変えました」

 凶悪犯罪の被害者によく見られる傾向だ。強い恐怖を覚えると、次なる被害を極度に畏れるようになる。そんな被害者を、薄井はこれまでに何人も見てきた。

「大学へは卒業資格を取るために通い続けましたが、家との往復がとにかく恐くて。誰かに尾けられているんじゃないか、どこかから銃口を向けられているんじゃないか……そんな疑心暗鬼の毎日で、生きた心地がしなかったです」

 返す言葉が見付からない。同調することさえはばかられた。

「だから極力外出は控えて、大学を卒業したら逃げるように帰国しました。それでもなかなか、家の外には出られませんでしたけど」

 環境は変わっても心境はそう易々と変化しない。相当な心の傷を負ったのだろう。

「今でいう『引きこもり』みたいなものですね。屋外での活動がない代わり、考える時間は沢山ありました。その中で、気付いたことがあるんです」

「何ですか?」

 琴子が薄井の目を見た。決意のにじむ眼差しで。

「どれだけ犯罪学を学んだところで、目の前の暴力には敵わない。暴力に対抗する別の力が必要だ――と」

「……それが、警察……」

 薄井の呟きに彼女が同意した。

「そうです。父からはこんなことを言われました。『被害者の気持ちが解る君だからこそ、彼らの為に働いてみないか』と」

 胸が熱くなった。

 琴子の父親がそう言ったのは、彼が当時、刑事局長だったからではないはずだ。警察組織に設けられた各部門は、その主義方法に違いはあれど「人々の生命、身体、財産を守る」という目的は共通している。つまり警察は、新たな被害者を出さない、或いは既に被害者となった人々を助ける為に存在するのだ。この理念を明示したものこそ、警察法第二条なのである。この理念を忘れてしまった警察官が少なからずいる中で、琴子の父親は理想を抱き続けている。そんな人物が、今や組織の頂点にいることを思うと心強い。

「そんな訳で、私はこの『会社』に入りました。以上です」

 そう言って微笑む彼女の顔には、一片の曇りも無い。自分の選択に誤りはないと心から思っているようだ。

 薄井は目を閉じ、天井を仰いだ。一つの物語を聞き終えたような実感がある。琴子の過去は思ったよりも壮絶だった。平凡な人生を歩んできた自分とはまるで違う。

「薄井さんはどうなんですか? 警察官になった理由」

 彼女の話を聞いた後では、語るのも恥ずかしい。採用試験の面接で志望動機を話したら、面接官に大笑いされたのは苦い思い出だ(もっとも、ウケたから採用されたのかもしれないが)。

「どうしました?」

 黙ったままの薄井を心配してか、琴子が聞いてくる。これで自分が話さなければ、彼女は残念がるだろうか。

 ……仕方ない。

 薄井は口を開いた。

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