第6話

 異性の友人が、彼のほうから望んでそれ以外の存在になろうとしたことが、今までに二回あった。二回目は、ラーメン屋で私が手ひどくフってしまった彼。

もう一人は、高校時代のいまはもう離れてしまった級友だった。どちらも私にとっては特別関わりの深い、親しい友人だった(彼はそれを当たり前だよと言い切り、「だって見ず知らずの人にどうやって恋するの?」と笑った)。

 放課後のことだった。その日掃除当番だった私は、教室のゴミを既定のゴミ集積所へ運び終わって、ゴミ箱を手に教室に戻った。同じく当番だった他の生徒たちは既に帰ってしまっていた。当時仲の良かった友人の彼をのぞいては。

そうして一人無人の教室に残って、わざわざ私が帰るのを待っていることを、私は当然の行為としてなんの疑問もなく受け入れていたのだけれど、振り返ってみれば、その程度のことは他意なくして友人間で多々起こり得ることとはいえ、彼からしてみれば、その日その瞬間までに少しずつ私に向けて発していたシグナルの一つだったのだろう。普通なら誰でも気付くもので、彼もそれを期待していたはずだ。ただ私が特別鈍かっただけなのだ、きっと。

 帰ろうか、と。戻った私に言ってから、だいぶ経っていた。彼はそう言いながら、立とうとしなかったのだ。私は別にそれを不自然なことだとは思わなかったし、授業後から家庭に帰るべき時間までを、そんなふうにして意味も無く会話などをして過ごすことは普段から多かった。

私と彼は並んで机の上に腰かけて、窓越しに眼下のグラウンドの忙しなくクラブ活動に励む生徒たちを見下ろしていた。空は厚く雲に覆われていた。鈍色がはてしなく横たわり、その下の景色はどこか気づまりでせせこましく見えた。教室に差し込む光は圧倒的に足りず、電気をつけずにいるには薄暗くて隣の人の顔すら見づらいほどだった。ほの暗さは目に見えない真綿のようなやわらかいなにかで、音も光も時さえも閉じ込めてしまったようだった。

 寡黙な人だった。その沈黙は優しくて、傍にいると居心地がよかった。静けさを己の優しさとする人だった。互いが互いに自分の殻に閉じこもっていても、そこには二人がいる空間があった。一人と一人がいる、二人分の空気。だから彼が何も言わなくても、私はそれを黙り込んでいるんだなんて思いはしなかったし、ましてやその内側でめまぐるしく回っていただろう彼の物思いや逡巡、速まっていただろう心音などは、まるで思いもよらなかった。

 そして、私にとってはごくあたりまえの静寂の果てに、彼にとっては来るべき時をつかむために自分のありったけの勇気を振り絞っていた沈黙の果てに、彼は私の手に初めて触れた。何も口にせず、ただ静かに。


「手を握られた。ただ、それだけ?」

「そう、それだけ」

 彼の疑問に、乾いた声で応じる。こうして話していると、まざまざとあのときの少年の掌の感触がよみがえってくるのが、いまさらながらに不思議だった。過剰じゃない、と彼は言う。私はわざと短く笑って見せた。

「小さい男の子に同じようにされたのなら、なにも感じないよ。問題は、そうじゃなかったって話」

 彼は、壊れ物に触れるような慎重さで声をひそめた。

「いやらしかったの、その人」

「まさか。下心丸出しのあんたとは違う。いやらしくなんか、まったくなかった。実際、あの人はそんなこと考えもしなかっただろうし」

 でも、と私は口ごもる。そう、あの彼はこれ以上になく優しく真摯だった。でも。

「なんというかね、そうされた瞬間に私がそれまでぜんぜん気付かなかった色んなことが、それこそ皮膚を通して直接流れ込んでくるみたいに、次々とわかったの。あのときあの人がなんでそんなことをしようと思ったのか、もしそれを私が受け入れたときにその先でなにを望んでいるのかとか。……そしたら途端に、なんだかひどくたまらなくなってしまって」

 さっき気持ち悪いって言ったのは、そういう意味。彼はそう聞くと、ぐに、と首を傾げた。

「君ってさ、潔癖なんだね」

 髪を巻き上げ乱すほどの風が吹いた。あっ、と気が付いたときにはすでに遅く、彼は風に乗って暮れかけた空に舞い上がっていた。

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