5-4

 どうしてお前はピアノを弾く?

 ピアノを弾いてどうしたい?

 お前に才能などない。

 もう辞めた方が良い。


 これまで幾度と尋ねられた問いに、思い返せば僕は僕自身が納得することの出来る答えを用意することが出来なかった。それに、これまで幾度と指摘された言葉はきっと正しく僕のことを指していたのだと思う。

 きっと、心のどこかで分かっていた。僕には限界があって、ほんの一握りの人間にはなれず、そこら辺の石ころに過ぎないのだということを。

 それでも諦めきれずにここまで来てしまったのは、きっと僕は頭が悪くとても幸せ者であったかもしれない。

 夢を見ることが出来たのだ。僕の身の丈には合わない、とても大きな夢を追いかけて時間を過ごすことが出来た。夢中になって、追いかけることが出来ていた。それはきっと幸せなことで、今この瞬間、僕は素直にそう言い切ることが出来る。

 今、こうしてパイプイスに座っている僕は、同じように閉校式にやって来た大勢の人間の一人にすぎなかった。僕のすぐ近くには約束通り鳴海の姿があって、両親も祖母の写真と一緒に席に座っている。左隅にある教員席には彼女と北川先生の姿があり、教員席のすぐ近くには立花さんや晴君、琴音さんといったこの学校最後の生徒の姿があった。

 体育館を埋め尽くす、とまでは行かないが、それでも多くの人が閉校式に訪れている。


「起立」


 午後。懐かしのチャイムを合図に校長先生が壇上に立つ。


「これより、閉校式を執り行います」


 脳裏に浮かぶのは、この学校で過ごした遠い過去の出来事と、ここ数か月間の出来事。ここにいる人達は、各々覚えている過去を僕と同じように思い浮かべているのだろうか。

 結局振り返ることしか出来ない僕達は、振り返る度にかつてあった日々を美しいものへと昇華させていく。それを誰かは指を指して嘆くかもしれないけれど、僕にしてみればそれこそ好きにさせてほしい。過去を歪曲させて思いをはせることは確かに愚行と呼ばれる行いなのかもしれない。でも、誰もが常に前ばかりを向いて歩き続けることが出来るわけでは無くて、少なくとも僕は、毎日でも過去を思って反省会をしているような人間だ。

 これから先のことを考えると、黒い手に足首を掴まれてどこまでも引き下ろされるような感覚に襲われるし、お世辞にも今の僕の状態は褒められるような状態ではないだろう。やはり鳴海だとか、彼女の方が僕なんかよりも立派に生きている。

 いつか僕も、自分自身で自分を許すことが出来る日が来るのだろうか。

 閉校式のプログラムが、一つ一つ行われていく。拍手がわき、拍手が消え、時折泣き声が聞こえて来たり、歌を歌ったり、思い出話に笑い声が上がったり、世代の違う人が、この学校という共通項によって繋がっていることを僕は実感した。

 校旗が返還され、閉校式も佳境を迎えた頃、到頭その時がやって来る。


「安達信世」

「はい」


 今、この瞬間、ピアノを弾いたところで何になる? 

 そんな声が、名前を呼ばれて立ち上がった直後、耳元で聞こえて来た。

 その声に自嘲気味に同調しつつ、それでも僕は檀上に一人でいるピアノの元へと向かった。

 ピアノはいつもそこで一人きりになって待っている。音も立てず、静かに誰かを待っている。

 そんな姿が僕に錯覚させるのだ。お前はまだ僕に弾かれるのを待っているのではないのかと。

 そんなはずはなかった。僕はお前に求められていない。でも、それでいいのだと思う。

 壇上に上がって、ピアノを見つめた後、正面を向いて僕の演奏を聞き遂げてくれる人たちのことを見る。

 青い空が体育館の窓ガラスの向こうに広がっていて、緑色のシートの上にパイプイスが規則正しく並び、そのパイプイスに大勢の人が座って僕のことを見つめていた。

 両親。母親は祖母の写真を抱えている。今までありがとう。この場所は僕が帰って来てもいい場所なのだと言ってくれて、ありがとう。そしてごめんなさい。おばあちゃんに曲を直接届けることが出来なくなってしまって、本当にごめんなさい。

 北川先生。僕にピアノを教えてくれてありがとうございます。そして、今日この場でピアノを弾く機会を与えてくれて、本当に感謝してもしきれません。

 晴君に琴音さん。こんな僕のピアノを褒めてくれてありがとう。人から演奏を褒められるなんて、本当に何年振りのことだった。

 立花さん。君はとても強い。きっと、同い年だった僕なんかよりも強くて、しっかりと自分の足で立つことが出来ているのだと思う。その姿が純粋に美しくて、僕の背中を押してくれた。でも、いつの日かそんな君でも死んでしまいたくなるような日が訪れるかもしれない。そんな時、今日僕がこれから弾くピアノが支えになってくれるのなら、今この時間が支えになる思い出となってくれるのなら、それ以上嬉しいことはない。

 鳴海。僕は、やっぱり君は凄い奴だと思うよ。いつだったか、君はピアノを弾く僕に「お前は凄い奴だよ」なんて言ってくれたけれど、君の方がしっかりと生きているのだと思う。中学を卒業した後の数年間を僕は知らないけれど、あの日話をしたほんの少しの時間で何となく分かった。鳴海のような人間は多くいるのだと思う。むしろ僕のような人間が少数派で、だからこそ鳴海は立派だと思うし、尊敬している。結婚して、働いて、幸せになって、それはまさしく僕が子供の頃に描いていた大人の姿で、だからこそ僕は君が凄い奴なのだと思う。僕はそんな風には成れていない、どうしようもない奴だから。


「…………」


 彼女へ向ける言葉は、言葉にするよりもピアノの音色にした方が良いように思う。言いたいことは沢山あった。伝えたい気持ちも、やり残したことも沢山過去に置いてきたし、落としてきた。君が「私は、信世君の弾くピアノ、大好きだよ」と言ってくれた時、僕がどれほど救われたのか君は分からないと思う。君にとってその言葉は当然のように口から出たものだったのかもしれない。それが嬉しい。君の些細な言葉は、いつだって僕にとって大切なものだった。一方的な、黄身にとっては取るに足りない思い出の数々にこれまでの僕は救われて来た。

 だから、これを最後にしようと思う。これしか僕に出来る事はないから。僕に出来る事は、結局ピアノを弾くことしかないのだから。

 もう一度、僕の声となって音色を奏でて欲しい。

 ピアノを前に座る。白と黒の鍵盤。金色のペダルに、この舞台には僕と君しかいない。

 優しく君に触れて、そうして自然と僕は微笑んでいた。

 そのことに驚く。最後にピアノを前にして笑ったのはいつだっただろう。もう思い出せないほど昔のことだ。

 だってそうだろう。ピアノと向き合う時は真剣でなければならない。すべての感覚を研ぎ澄ませ、指の先に集中して、音を一つ一つ丁寧に繋いでいかなければならないのだから。

 そう。だからこそ、僕はあの時衝撃を受けたのだ。心が折れる音を聞いたあの瞬間。僕なんかよりも優秀な奴。到底僕にはたどり着くことの出来ない所まで到達している人間。どうしてこんな人間がいるのだと、純粋にピアノのことを愛していますと語るかのように微笑むことが出来るのかと、あの時舞台の上で目にした光景が信じられなかった。

 ピアノのことは好きか。ピアノのことを愛しているか。きっと僕はそうでは無かった。奴のように、例えば恋人の指先に触れるかのように鍵盤に触れ、そうしてピアノに微笑むことなど僕には出来なかった。

 だから僕はピアノのことが好きでもなく愛しているわけでもなく、きっとピアノを好きでいたくて愛していたいだけなのだと、その時に気が付いたのだ。

 つまりは縋りついていただけ。僕にはこれしかないのだと信じていたかっただけで、実際に見ていたのはピアノでは無かった。

 なら僕は、一体何を見ていたのだろうか。

そして、どうして今笑うことが出来たのだろう。

 初めて聞いた祖母のキラキラ星。祖母は僕と彼女のことを思ってピアノを弾いてくれたのだろうか。

 何もかもをのせて。ピアノは僕の体の一部。声よりも的確に伝えたいことを伝えてくれる。

 それが嬉しい。子供みたいに、自分の思いを誰かに伝えることが出来ることが純粋に嬉しい。

 だから僕は今、きっと笑うことが出来ている。

 大丈夫、正しいかどうかはピアノの音が答えてくれるだろう。

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